第9回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA大ホール
平成31年2月21日

鉄道から眺める関西まちづくり



近畿大学経営学部教授
橋 愛典 氏

 

講演要旨
      関西の鉄道と郊外開発は、表裏一体の歴史を刻んできました。
 鉄道開通直後から、田園地帯は住宅地に転じ、戦後は団地やニュータウンが造成されました。
 その歴史を踏まえ、まちづくりの未来にまで思いを馳せてみます。

 
   

1.はじめに
 今日は女性の方も多いので、鉄道の予備知識がなくても理解できる中身にアレンジして、鉄道よりまちを中心にお話したい。
 私は千葉の出身だが、テレビのいろいろな番組で、関西は面白いと興味を感じていた。そして東京の大学に通い、通学電車の中でいろいろな本にふれた中で、阪急の創業者で宝塚歌劇や阪急百貨店など鉄道を基盤に様々なビジネスを手がけた、小林一三に興味を惹かれた。それをきっかけに、学部・大学院と交通経済学、中でも鉄道やバスの交通政策を学んだ。
 そして2002年(平成14年)に縁があって近畿大学商経学部(当時)でロジスティクス(物流)論の授業を担当するようになり、ヒトとモノの流れを創る交通・物流・流通を教育・研究するようになった。
 その一環として、学生の頃から興味があったまちづくりの研究に回帰してきた。とりわけ、交通・鉄道を中心としたまちづくりを振り返る中で、「駅を出てまち歩きをしてみないと、鉄道のことはわからない」ことに気付いた。
 数年前には泉北ニュータウンで調査を行ったが、スーパーが消えあちこちの商店が歯抜け状態になって、気がつけば、高齢者が歩いて行ける場所にスーパーがなくなっていた、という買い物の問題が明らかになった。
 大阪狭山市との関係としては、今年の正月に「GPS描き初め」というまち歩きに参加し、泉北ニュータウンから狭山ニュータウンまで約10キロを歩いてみた。そんなご縁もあり、今日のテーマは鉄道から見た郊外開発としたい。

2.江戸時代の「大坂」と交通
 鉄道ができる前の、江戸時代の「大坂」の交通について考えてみたい。
大坂三郷水路図を見ると、当時の「町割」、現在でいう都市計画が分かる。この図では町が、北が梅田の手前、南が難波の手前までで収まっている。
 当時の大坂は「天下の台所」「水の都」といわれ、わが国の商業・経済の中心であり、全国各地から物が集まる集散地であった。長崎の出島からの輸入品も、一度大坂を経由して全国に散っていったのである。
 こうした商品・貨物が海上の船から艀を経て浜(河岸)に揚げられ、丁稚車(台車)で店頭まで運ばれていた時代、人の移動・都市交通はあくまでも徒歩が中心であり、徒歩圏としての都市空間の小ささを実感する。
 梅田は曾根崎川の北にあり、田んぼを埋めた「埋田」が語源である。千日前には墓地が広がっていて、日本橋筋にはスラム街があった。
 「西野田」は福島区の野田阪神、「東野田」は今の京橋駅のあたりで、町を出ればいずれも野原と田んぼが広がっていたので野田と名付けられたのだろう。「北野」は今の中津や扇町あたりを含めた、町の北側の野原であった。町の真ん中は船場であり、商人たちは船場に暮らし、商売をしたのである。

3.近代「大阪」の鉄道とまちづくり
(1)私鉄ブーム
 「汽笛一声新橋を」とあるようにわが国で最初にできた鉄道は新橋−横浜間であり、大阪−神戸間は二番目だった。
 大阪駅をどこに建てるかでいろいろ議論があったが、陸蒸気は火の粉を散らして走るからとか、駅が町の真ん中では京都まで伸ばすときカーブになって問題だとかで、北の外れ、当時の曾根崎村、今の梅田に新駅が作られ、町の中心までの便が良くなかったので梅田新道が作られた。鉄道というと現在のわが国では旅客の輸送が中心であるが、海運(しかも帆船)が中心であった都市間の物流にも、革命的な影響を与えた。
 大阪−神戸間は官設だったが、政府が作る鉄道だけでは追いつかず、長距離の貨物主体の輸送で儲けられると出資を募り私鉄ブームが起こり、山陽鉄道(山陽線)、関西鉄道(関西線)、阪鶴鉄道(福知山線)などは民間の出資で作られた。
 鉄道輸送は国にとっても軍事的重要性もあり、1906年(明治39年)には私設鉄道の国有化が始まった。しかし政府の財政の都合もあり、すべての私鉄を買収しても国全体の利益につながらないという考えで、一地方の中だけを走る私鉄は国有化されなかった。南海が「現存する日本最古の私鉄」として今まで残っているのは、そうした理由である。
 この頃に電気軌道のブームが起こり、路面電車の一種として開業した阪神、京阪をはじめ、近鉄、阪急、南海を含めた「在阪五大私鉄」の基礎ができあがった。
(2)小林一三モデルとしての宅地開発
 小林一三は山梨県の人で、三井銀行に入行した際には大阪支店への配属を希望した。紆余曲折を経て、先に触れた阪鶴鉄道の監査役になった。阪鶴鉄道が国有化された後、私鉄として残った子会社「箕面有馬電気軌道」(現在の阪急宝塚線)の経営を任された。
 そこで考えついたのが池田あたりの沿線での郊外宅地開発であった。箕面有馬電気軌道は能勢街道に沿っているが、阪神間(西国街道)や京阪間(京街道)に比べると沿道の町は小さく、運ぶべき人口も少なかった。そこで、住民=輸送客を増やすべく、当時台頭してきた中産階級(ホワイトカラー)向けの住宅を分譲し、初めてローンも導入した。
 当時の大阪は「煙の都」「東洋のマンチェスター」と呼ばれ、工業が盛んで経済は潤っていたが、人の住むところではなくなってきていた。元々文学青年であった小林一三は『如何なる土地を選ぶべきか、如何なる家屋に住むべきか』という美文調のパンフレット・キャッチフレーズを書いて売り出した。阪神電鉄も、ロンドンのメトロポリタン鉄道(のちに市営化されたが、1930年(昭和5年)代までは私鉄だった)も宅地の開発・経営はしていたが、阪急が目立つのは小林一三のセンスがやはり光るところである。
(3)戦前の郊外住宅地−阪急と他社
 箕面有馬電気軌道は、社名にある有馬までの延伸は後回しにして、阪神間への進出(阪急神戸線の建設)を打ち出した。阪急は山側に路線を通したが、すでに大阪財界人の別荘地になっており、朝日新聞社社主・村山龍平の邸宅は避けて線路を引かざるを得なかった。この地には今も「香雪美術館」があり、近年コレクションの一部が中之島の朝日新聞本社ビルに移されてもう一つ「香雪美術館」ができたが、「香雪」は村山の雅号である。
 戦前の阪神間の良質な文化は、「阪神間モダニズム」として今も語り継がれ、谷崎潤一郎の『細雪』からも窺い知れる。大阪・神戸都心までの通勤が便利になったことで別荘地や田畑が郊外住宅地に変わり、職住分離が進んでいったという点では、阪急神戸線をはじめとする鉄道が沿線開発に与えた影響には、計り知れないものがある。
 同じ阪急で、京都線沿線でも戦前に宅地開発が行われたが、その規模や性格は宝塚線・神戸線沿線とは大きく異なる。これは阪急京都線は、もともと京阪電鉄が敷設した「新京阪」であったことに由来する。京阪は戦時中に国策の一環として阪急と合併し(その際に正式な社名は「京阪神急行電鉄」になった)、戦後すぐに分離されたが、新京阪線は阪急の手中に残り、今日の阪急京都線・千里線になったのである。
 大阪府南部では、新興の私鉄・阪和電鉄が上野芝など沿線で宅地開発を手掛けていた。同じく戦時統合で南海の一路線となり、直後に戦後国有化され、現在のJR阪和線につながるが、よく見ると美章園駅とその周辺などに、私鉄だった名残がある。

4.現代大阪の鉄道とまちづくり:団地の時代とニュータウンの時代
(1)戦後の都市化と高度成長期
 戦後の高度成長期の鉄道と宅地開発については、団地のことを避けて通れない。
 高度成長期の住宅団地(集合住宅)といえば日本住宅公団のイメージが強い。住宅公団は、関東大震災からの復興のためにできた同潤会を起源とし、戦時中は住宅営団に改組された。現在のUR(都市再生機構)につながっている。
 住宅公団は当初(1955年(昭和30年)前半)は、西長堀の「マンモスアパート」や香里団地など、民間のお手本となるような開発を手掛け、高級な物件もあった。1960年(昭和35年)代に入ると、地方出身者が大都市で就職したのちに結婚、子育てする時期となり、人口増に対応した手頃な郊外住宅の大量供給が急務になった。供給主体は公団だけでは間に合わず、府営、県営、市営住宅も増加した。いずれも「標準設計」が採られ、違いは一見してわかりにくいが、ひっくるめて「団地」と呼ばれるようになった。
(2)私鉄と宅地開発の関係の変化
 高度成長期後半(昭和40年(1965年)代)となると、大都市通勤圏がますます拡大し、私鉄沿線でも近鉄の桔梗が丘(三重県)、能勢電鉄の「阪急北ネオポリス」(大和団地)、神戸電鉄(鈴蘭台から裏六甲へ)など、通勤距離の長い外郊外でも宅地開発が進んだ。
 一方でこの時期の国鉄は、独立採算制から赤字に転落し、経営問題が深刻化した。その中で関西では、電化・複線化といった近代化は後回しにされた。また、国有企業という性格上、民業圧迫を防ぐための兼業規制を課せられていた(駅ビルは除く)。国鉄は、関西が「私鉄王国」と呼ばれることに歯ぎしりする思いだったであろう。
(3)団地からニュータウンへ
 高度成長期後半にはニュータウンの開発が進み、郊外住宅地一般が「ニュータウン」と呼ばれるようにさえなった。団地とニュータウンの違いは以下の3点であろう。
@団地は1960年(昭和35年)代にできた「集合住宅」で、ニュータウンは70年代に入居し、集合住宅が高層化したほか、戸建て住宅も多い
Aニュータウンのほうが規模が大きい
B鉄道の視点から見ると、団地は既存の沿線に開発され、ニュータウンはそのための新線が建設された
(4)ケーススタディ 泉北高速鉄道
 泉北ニュータウンの開発は府が主導し、狭山ニュータウンは同時期に南海電鉄が計画した。南海は、高野線の北野田辺りから狭山ニュータウンを経由して泉北ニュータウンに至る新線の計画も考えたが、安全投資に注力する必要が生じ、新線建設は見送った。
 こうした経緯のため、泉北ニュータウンの入居開始時には、鉄道建設が間に合わなかったのである。初期から入居した住民は、南海バスの新路線で津久野駅などまで行き、阪和線で大阪都心方面に通勤することとなった。
 泉北高速鉄道は、東大阪市等でトラックターミナルなど物流拠点を開発していた府の第三セクター「大阪府都市開発」が建設・運営することとなった。とはいえ、物流の会社では乗務員の確保等を含めて電車を走らせることは難しく、結局のところ業務は南海に委託された。
(5)タイムマシンとしての泉北高速
 中百舌鳥から和泉中央まで車窓から眺めてみると、時代の移り変わりを感じる。
@深井には元々駅を作る計画はなかったが、1965年(昭和40年)代前半には団地ができていて、団地の住民の利便性を考慮して急遽、カーブの途中に駅を作った。
A泉ヶ丘、栂・美木多、光明池には、駅前に1975年(昭和50年)代の雰囲気が残っている。
B和泉中央まで延伸されたのは1995年(平成7年)で、住民も若い。ここは泉北ニュータウンではなく「トリヴェール和泉」という別のニュータウンである。
 大阪府都市開発は2014年(平成26年)に南海に売却され、沿線再開発に積極的に関わるようになった。社名も「泉北高速鉄道」に改められている。

5 .これからの大阪の鉄道とまちづくりはどうなる?:少子高齢化と郊外
(1)これから郊外と鉄道はどうなる?
関西の鉄道利用者は1994年(平成6年)をピークに減少している。人口の減少はまだ始まったばかりだが、その20年も前から鉄道利用者が減りつつあるのは、阪神・淡路大震災とその後の関西経済の低迷のためと考えられる。鉄道各社は、列車の本数を減らしてコストを減らすことで対応しており、混雑は緩和されたとはいえ、ラッシュ自体はなくならない。通勤時に全員が着席することは、以前の列車本数を維持すれば不可能ではないようだが、そのコストが莫大で、運賃収入が減少しているため賄いきれないのである。
 一方で、都心に人口が回帰しつつあり、郊外から都心に通勤するというライフスタイルも影響を受けていると見られる。大阪の都心では、先にみた経済の停滞からとオフィスビルの需要が低下しており、その跡地にマンションやホテルが林立している。都心では、以前の人口減少に合わせて小学校等の統合を進め、その跡地もマンションになる事例が見られた。このタイミングで人口が増加しているので、待機児童といった問題が寸刻化する懸念さえある。
(2)それでもまだ鉄道を延ばすか
 関西はこれから、人口減少が深刻になるはずであるが、新線の計画も漏れ伝わっているところである。
@南海・JRなにわ筋線:難波から梅田(かつての貨物駅跡地)まで、大阪都心部を縦断する。実現すれば関西空港から梅田への利便性が向上する。
A阪急なにわ筋連絡線:上記のなにわ筋線に阪急が接続する計画は近年出された。十三−新大阪の路線免許は以前から持っているのでこれも活用する。
B京阪中之島線:終点の中之島から九条方面に延伸する
 こういった計画は国土交通省の会議で審議・決定されないと進まない。大阪万博とIRが正式に決まれば会議も動き出すはずだが、今日の講演には間に合わなかった。江戸時代から2025年の大阪万博までと長い時間を扱ったが、今日はここまでとし、今後の展望は機会があれば(国土交通省の会議の様子を見つつ)改めてお話したい。




平成31年2月 講演の舞台活花



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