第2回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA大ホール
平成29年6月15日

「大阪の花街文化 お座敷をめぐるあれこれ」


 

たに川 代表
谷川 恵 氏

講演要旨
     現在、関西で花街といえば京都が有名ですが、大阪も歴史のある大きな街ですので、以前は各地に花街が賑わい栄えていました。お座敷にさまざまに人が集い遊ぶ中から文化が育まれ、洗練されていきました。そうした花街文化の魅力と現在についてお話します。
 
   

お茶屋
 今日は私が生まれ育った大阪の花街、花柳界についてお話します。現在、花街というと京都の祇園、宮川町、先斗町が有名ですが、大阪も歴史がある大きな町で、かっては花街が賑わっていました。今はかろうじて芸妓さんや花街が残っています。初めて会う人に「私はお茶屋をしている」というと、「えー 大阪にもお茶屋があるのですか。芸妓さんがいるのですか。」とびっくりされます。今日はひと時話を聞いていただき、身近に感じていただけたら幸いです。

その歴史
 私は大阪の島之内というところでお茶屋を営んでいます。堀川で囲まれて、島のようになっていたことから島之内と呼ばれるようになったようです。初めての人に「お茶屋をしている」というと、「お茶を売っているのか」と言われます。電話帳にお茶屋として屋号を載せているのですが、お茶の注文が来たりします。今日来ていただいた方は、お茶屋というとお座敷があって、芸妓さんを呼んで遊ぶところと思われているのではないでしょうか。それで間違ってはいませんが、正確に言うと、お客様の好みや予算に合わせ、おもてなしを手配、提供するのが私どもの仕事なのです。
 お座敷をどう使うかはお客様の自由です。その日どのようにするかは、お客様と相談しながら決めます。またホテルや料亭でのご宴会に、あるいはご自宅でのパーティーに、芸妓さんを呼んでほしいとか要望があれば、これらもお茶屋が受けて取り仕切ります。昔、人が多く集まった神社やお寺で、お茶を一服していたお茶屋さんが始まりだそうです。同じお茶を売るのであれば、おじいさんが売るより若い娘の子がいい、若い娘がいればお酒も飲めた方がいい、食事もいいし歌や踊りも楽しめた方がいい、このように発展して現在のような形になっています。

料亭との違い
 始まりが料理屋ではないので、現在まで料理人や板前は置かず、食事は注文の度に然るべきお店から取り寄せます。あらかた下ごしらえが済んだものを、台所で盛り付けたり、温めたりして、お料理屋さんで出てくるような形でお出しします。料理屋とお茶屋さんはどこが違うのかということですが、料亭は板前さんのいるレストランで、食事を食べに行くところ、お茶屋は板前を置かず、食事はサービスの一つです。料亭に「お酒を飲みに来ました」と言っても、先方は困りますが、お茶屋は「ようこそ」とお受けします。食事は一通り終わっても、「少し物足りない、うどんをとってよ」とか、「ケーキを食べたい」とかができるのがお茶屋さんです。

料金体系
 「お茶屋さんで遊んだら一体いくらかかるのか」とよく質問されますが、答えは非常に難しく、お品書きはなく、何をするかによって料金は違ってきます。料金のシステムとしては、ホテルの宴会場を想像していただくとわかりやすいでしょう。会場使用料にあたる「お席料」と「食事代」、芸妓さんを呼べば「花代」、その総計にサービス料と消費税を頂戴します。会計は至って明朗で、銀座や北新地のバーやクラブのように、わけのわからないチャージはありません。

一見さんお断り
 この商売を語る時、必ず出てくる言葉が「一見さんお断り」です。ご紹介のない人を家に上げないという商売のしきたりをいった言葉です。これは格式を振りかざしているわけでも、傲慢な商売をしているわけでもなく、皆様が知らない人を家に上げないのと同じことなのです。時々ピンポンと鳴ると、見ず知らずの方が「今から二人あかんか」と言われたりしますが、この時は予約が入っていなくても「申し訳ございません。本日はご予約でふさがっております」とお断りします。その人のことを良く知っていないとおもてなしのしようがありません。料理を出しても、「これは嫌いだから取り替えてよ」となった時、料理屋さんだと取替が利きますが、私どもは食事を作っていないのですぐに取替は利きません。食事はともかく、芸妓さんになると、「君好かないね。帰ってよ。」となると、お互い人間なので、気が悪くなる。お客さんのことをよく知っていると、芸妓さんはこの人がいいなと気働きも可能となります。皆様もこうしてお目にかかったからには、もう一見さんではないので、明日からと言わず、今晩からでも「今日“たに川”さんの話を聴きました」と電話をくだされば、お席を用意してお待ち申し上げています。

芸妓
 芸妓さんは、宴席に侍る女性の芸能者になりますが、お座敷に入ると華やかになりますし、唄や踊りまたおしゃべりも達者で、楽しませてくれます。襖を開けると隣の部屋に赤い布団が敷かれていて、芸妓さんの帯をくるくるとほどくようなことが起こっていると思っている人が意外と多いです。日本も広いのでそのような店もあるのでしょうが、私どもでは清く正しく美しく働いています。お客様の話し相手をしたり、お酌をするのも芸妓さんの大切な仕事ですが、芸妓ということなのでお客様に芸を見せるのが大きな看板というか売りになります。
 舞台を下座に設置して、基本的に生演奏で踊ります。白粉を塗って日本髪を結いますが、芸妓さんはかつらです。奥に座る芸妓さんは地方さんといって唄や三味線を受け持つ芸妓さんです。芸妓さんは様々なお稽古事をしていますが、だんだんと専門化してきて踊る人を立ち方さん、唄や三味線を受け持つ人を地方さんといって、お客さんを喜ばせるよう日々努力しています。
 芸妓さんが披露するのは、主に古典芸能ですが、これをお座敷で目と鼻の先でやってもらう、手を伸ばせば届くようなところでお目にかけます。劇場と違って、食事をしながら楽しめるので、多くの人に「いいものですね」と言われています。

お座敷遊び
 お座敷ではお客様同士、あるいはお客様と芸妓さんとが仲良くなるのにお座敷遊びもします。「金毘羅船々」や「とらとら」が有名です。お座敷遊びは、お座敷の中にあるものを使ってゲームのような遊戯のようなことをします。
 徳利の下にキャップのようなものをはかせていますが、これを「はかま」といい、金毘羅船々で使います。はかまを伏せて二人が向き合った真ん中において、歌や三味線に合わせ、二人が交互にお餅つきのようにはかまに触ります。これだけでは面白くないので時々意地悪してはかまを取ったりしますがゲームは続けます。はかまがある時はパーを出す、ない時はグーを出す。たったこれだけで、子供だましのようですが、非常に盛り上がります。この遊びで負けてひっくり返って悔しがる人、見ている方も自分のことのようにハラハラする楽しい遊びです。
 とらとらは真ん中に屏風を置いて左右に対戦者が立ちます。地方のお姉さんの唄、三味線にあわせて「とーらとら」の掛け声で登場し、身振りのじゃんけんで勝ち負けを競います。じゃんけんのグー・チョキ・パーは三すくみになっていて、槍を持ったお侍、腰が曲がり杖をついたおばあさん、四つん這いの虎の三つの身振りになり、大人になると人前で踊ることがそうそうないので、踊りを見るだけでもおかしかったりいたします。品行方正な遊びですが、他に野球拳とかいろいろな遊びがあります。

装い
 舞妓さんは自毛で髪を結いますが、芸妓さんはかつらです。芸妓さんの格好の区別ですが、日本髪の姿はかつらなので「かつら」、着物の裾を引くので「裾引き」と呼びます。芸妓さんには「明日はかつらでお願いね」とか「明日は裾引きよ」というと、その格好で来てくれます。そうでなくて普通の着物姿と言えば、普通のホステスさんのような格好ですが、私どもでは洋髪とか絡げと呼びます。三年目を過ぎると、こちらから「明日はかつらで」と言わない限り洋髪でやってきます。
 芸妓さんは裾を左手で持つのが約束事です。お座敷の中では裾を引いて歩きますが、ちょっと外のお店に行くときは左手で裾を持ちます。慣れない芸妓さんが右手で裾を持っていたら、手をたたいてでも左で持つよう指導します。裾を右手で持つのは、花嫁さんかお女郎さんで、利き手を封じて「私はあなたのものよ」という意味です。芸妓さんは、働く女性なので利き手を開けて左手で持つことになっています。芸妓さんの衣装は基本的に自前で、これは特殊な衣装で呉服屋に行っても店頭にはありません。帯も長襦袢も違い、すべて誂えになるので、芸妓さん成りたての娘に衣装をどんどん作りなさいとは言えず、今ではうちで持っているものを貸出していますが、基本は自前です。
 芸妓さんの衣装の1年ですが、お正月は黒紋付を着用します。初出の日から15日間は黒紋付、皆様方の黒留袖に当たるもので芸妓さんの正装です。12月から2月までの寒い時期は、二枚重ねといって着物を2枚重ねて着ます。おめでたいのが重なるようにと、昔は重ね着の文化でした。今は冷暖房が発達したので重ね着をすると暑く、それにもまして重いので、皆様方の留袖と同じように目に見える部分の襟、袖口、裾部分のみ二重のものを使いますが、それでもたたんで置いておくと布団かと思うような嵩があります。これを身にまとうと優雅な印象を与えます。芸妓さんの装いは関東と関西でも違います。例えば黒紋付の裾の下の着物は関西では白ですが関東では柄があったり、帯結びは関西ではたいこが基本ですが関東ではやなぎと言って舞妓さんの短い帯でゆらゆらと揺れているような感じになります。3月から5月までが普通の袷(あわせ)の着物です。6月が単衣(ひとえ)、7月から8月にかけて夏物、9月が単衣、10月から袷、12月から二枚重ねとなります。これだけでも1年に5枚、5着いりますし、替えの衣装もいります。それぞれに約束事があって、この季節には織りの帯、この季節には染の帯を締めましょうとなっていて、芸妓さんになると最初のうちは呉服屋さんのために働くようなもので大変です。芸妓さんは女ばかりなのでどうしても演目の幅が限られるため、宝塚のように男役の芸妓さんもいて、そうすると踊りの幅が広がります。芸妓さんは男にも女にもなれるのです。

芸妓になるまで
 芸妓になるまでを紹介します。以前はどなたかの紹介でやってくる人がほとんどでした。今はインターネットを通じてやってきます。インターネットのHPを見て、芸妓さんになりたい娘がメールを入れてきます。ありがたいことですが難しい局面も出てきます。芸妓さんになりたいとメールは来るが、以降音沙汰なしとか、メールに住所や名前がなく、どこの誰かわからないとか。  何度もメールのやり取りをして、どうしてもなりたいということだったら会って、お稽古事の経験、両親の了解状況、着物を着た経験の有無等を尋ね、OKであれば芸妓さんの見習いをしてもらいます。見習いとは、着物を着てお座敷に入り、仲居さんのお手伝いのようなことをしてお座敷の雰囲気に慣れてもらう、見て学んでもらうことです。実際に見てもらうことで、「これだったらできるかな」「思っているのと違うな」とか本人の気持ちを確認してもらうのです。見習いをやってみてすぐに辞める娘も多い。ちょっと叱ると翌日から来なくなるとか、お座敷には社会的に地位の高い人もいるので、そうした雰囲気になじめない娘もいます。
 理由は様々で辞めていきますが、続けたいということになると、名前(芸名)を決めます。芸妓さんの名前を聞くと、どこの芸妓さんかすぐにわかるようになっています。「たに川」から出る芸妓さんには、名前に鶴という字が入ります。小鶴、冨久鶴、雛鶴、千鶴とか、大阪で鶴の付く芸妓さんは、「たに川」さんの芸妓さんということになります。芸妓さん同士、本名で呼び合うことはまずありません。お互いに本名を知らないことは普通で、芸事の師匠に入門する時も芸名で、芸名はこの世界にいる限りついて回る大事な名前です。名前が決まればまず踊りのお稽古に通います。芸妓になったからには、お客さんに「何かやってごらん」と言われて何か芸が出来なくてはなりません。お客さんの前で唄、三味線を披露するには2、3年はかかります。ところが踊り、短い曲で下手でもよければびしびしとしごくと何とかなります。また若いうちは、地方さんより踊る方が華やかなので、踊りの稽古をしてもらいます。着物を着る商売なので、着物を着こなさなければなりません。着物に着られては困ります。踊りのお稽古に通うと、身のこなしが変わってきます。こういうこともあるのでまず踊りのお稽古に通います。
 そしてお座敷の雰囲気にも慣れてきた、着物も自分で着れる、踊りも何曲かは踊れるようになってきたとなると、そろそろ芸妓さんに出しましょうかとなります。芸妓さんのデビューのことを、私たちの世界ではお披露目と言います。お披露目をしたから一人前になるのではなく、ここから立派な芸妓を目指して修行を続けてまいります。ただ本人にとって辛いのは、私どもの小言でもなく、お師匠さんにしごかれることでもなく、先輩にいけずされることでもなく、お座敷の正座が一番辛いようです。お客様は胡坐をかこうが寝そべろうが構いませんが、私どもはお代をいただきお世話する側ですので、ここは譲れないところです。今は畳のない家も多いので、うちに来て初めて正座する女の子もいます。となると、ものの3分も座っておれないのです。3分も座れないとお座敷は務まらないので本当に困ります。それでも3分が5分、5分が10分とだんだんと慣れてきます。見習いの娘がお客様の間にきちんと座って動かないので、給仕の都合もあって「ちょいとどいてくれる」と言ったら、「足が痺れて動けません」と言うので、ここで倒れたり、こけたりしてお客様に阻喪があっては困るので仲居さんと二人がかりで引きずりだしたこともございました。「そこまで我慢しなくても、動けなくなる前にビールとか空いたお皿を下げるようにしてお座敷の外に出なさい。それだと自然に見えるでしょう」と言うと、「そうですね。わかりました」と。次のお座敷ではお皿を次々に下げる、「ものには加減があるでしょう」と言うと、「我慢できないんです」と言っていた娘がだんだんと慣れていきます。ですがなかなか続けられなくて、続いても2年経つと「辞めさせてください」とか、ある日突然来なくなることもあります。お座敷を任せられるようになって、さあこれからという時に辞められるのは残念でなりませんが、なかなか続かない現状があります。ちょっと叱るとへそを曲げたり、若い女の子なので好きな男性ができてそちらに夢中になり、他のことが目に入らなくなったりします。
 大阪は料亭がどんどん減っていて、お座敷の声がかからない、あっても今日は芸妓さんはいいよと言われることもあってお仕事がなく、芸妓さんになろうとする娘もこのままでいいのかなと思うのでしょうね。若い娘が売れっ子になるには時間がかかります。振り返るような美人だったらいざ知らず、そうでない娘がそれなりに人気を得ようとすると努力が必要ですが、なかなか今の娘は待てません。意外と多いのは、初めのうちはハイハイですが、芸妓さんになるとすぐに旦那さんが付いていい生活ができると思っている娘が多いんです。芸妓さんには定年がなくお呼びがかかる間はいつまでもお姉さんです。数年前に亡くなりましたが、北新地に“駒香さん”というお姉さんがいて、上方歌という芸能ジャンルの第一人者でした。お座敷だけでなく舞台でも活躍され、舞台での地方さんのお仕事が3年先まで来ていたそうです。90歳を過ぎて亡くなるまで現役で、芸が身を助ける社会です。

大阪の花街
 大阪の花街は、規模の大きい代表的なところが4つあり、それは北新地、新町、堀江そして私どもの南、南地でした。それぞれに特徴がありますが、一番華やかで芸妓さんが多かったのが、戦前、昭和10年くらいで、芸妓さんがどれ程いたか記録が残っています。北新地に500人、新町に900人、堀江に500人、南地5花街に2,000人。
 当時は今のようにホステスさんがいなくてバーやクラブもなくて、お茶屋さんばかりとはいえ、大変な規模だったことがわかります。そこに日毎、夜毎にお客様が来られ宴会などされて、様々な文化が育まれていました。残念なことに大阪は先の戦争で多くが焼失し、街の文化や社会の変化が激しく、戦後は万博の頃をピークに芸妓さんの数はどんどん減って、もう新町、堀江は無くなって今は北と南にかろうじて残っています。数を申し上げるのも恥ずかしいのですが、芸妓さんの数は現在 北新地に6人、南に至っては1人です。
 簡単にそれぞれの街の特徴を言いますと、北新地は昔曽根崎新地と言っており、堂島でコメ相場がたっていて、全国から大名の役人がやって来て官官、官民等その接待が盛んなところでした。新町は廓で芸妓さんの街になる前は、花魁やお女郎さんがいました。秀吉が大阪城を築く際に多くの人足が地方から集められ、そうした人々のために造ったのが始まりと言われています。堀江は新町の南側で、現在は若者に人気のおしゃれな街になっていますが、以前こちらに和光寺というお寺があって信仰を集め、多くの人がお参りをされ、ここに立った茶店が始まりで花街が出来たそうです。南では道頓堀川に沿って、芝居町と色町ができたのが始まりで、川も運河ですしそこに人工的に造った街なので、今でいうディーズニーランドやUSJのような若い人たちにとっては楽しいところだったのではと想像します。

行事あれこれ
  古くからあった街の行事ですが、お正月の10日に今宮戎の十日戎があり、その時に宝恵駕籠(ほえかご)行列が繰り出します。これは南の芸妓さんが船場の旦那さんの代わりに代参したのが始まりで、今でも宗右衛門町から今宮戎まで、芸妓さんが綺麗な駕籠に乗って練り歩きます。私も毎年付き従っていますが、方々で福を授与しながら朝から晩まで蛇行して進むので、とても疲れます。今は駕籠は一丁しか出ませんが、母が現役の頃は芸妓さんの駕籠が13丁出ていたそうです。
 ちょうど昨日でしたが、6月14日は毎年住吉大社で御田植え神事が行われます。この御田植え神事では、芸妓さんが中心的な役割を果たしています。新町花街が明治の初め、田んぼ(土地)を寄進したのが始まりと言われています。そこから新町が御田植え神事を一手に引き受けて、京都の祇園祭りのような大きなお祭りになったようです。今は神社での神事のみが伝わっていて、芸妓さんが反対側に座る巫女さんにお化粧をしてもらい、お祭りへの参加資格を与えられるという形になります。田植えが行われている時に、舞台では選ばれた芸妓さんが、豊作と充分な降雨を祈って”御田代舞(みとしろまい)”を踊ります。
 昔、天神祭りの時には芸妓船が出ていました。秋の北浜の”神農さん”というお祭り、笹を授与する役を北と南の芸妓さんが交代で務めていました。大阪の祭りに芸妓さんが多く関わっていて、昔から愛されていたことがよくわかります。

「たに川」のこと
 「たに川」はうちの母が始めました。母は南の売れっ子芸妓だった30歳前に、「このまま芸妓を続けていいのか」と悩んでいたある時、習字の稽古に行っていた料理屋さんから、「お店を閉めるけど誰かあとやってくれる人はいませんか?」と相談され、「私します」ということで、そのお店を譲り受けたそうです。ふつうは旦那さんがお金を出すのですが、それが嫌で銀行からお金を借りて開業したのです。身内の身びいきになりますが、まさに立志伝中の人になります。以前は木造の建物でしたが老朽化したため、平成元年に建て替えてビルの中に座敷が入っています。時々ビルの前に黒塗りの車が並ぶので、ご近所の方には ここは一体何家なのかと思われているようです。私はここで生まれて、ずっと芸妓さんに囲まれて育ったので、お茶屋が好きで関わりたいなと子供の頃から思っていましたが、両親ともに家を継ぐことに反対でした。斜陽産業だからとか、男のする仕事ではないとか堅気になりなさいとか言われて育ちました。ビッグバンにも勤めましたが、辞めて「次の仕事を探しなさい、跡継ぎは駄目」と言われていました。
 お茶のお稽古を始めて、お茶の先生がとてもかっこよく見え、座敷の中のこと何でも詳しくて「この床の間は」、「この掛け軸は」、「この器は」と、男性がこんな職業に入るのかと感心してお茶の先生になろうと思いました。お茶のお稽古とうちのお茶屋、どちらも畳の部屋にお客様をお迎えしておもてなしをするというところは同じなので、家の掃除とか仕事を手伝うようになりました。そうしますと次第に”若旦那”と呼ばれるようになり、メディアの取材を受けるようになり、芸妓達からも”若旦那”、”お兄さん”と言われて現在に至っています。いつから若旦那になったのか、じわじわなのではっきりしませんが、2014年「たに川」の代表を母から譲り受けました。若旦那になるきっかけの一つが、インターネットのブログです。もう10年前になりますが、ブログはまだ一般的ではなく、ブログの会社がブログを普及させるために、古い世界に関わる人が何か日記を書いたり、文章を書いたりしたら面白いのではとなって、ブログを書いてくださいという話が来ました。インターネットに載せると非常に好評で、そこから芸妓さんになりたいというメールも来るようになり、取材の話も来るようになりました。これは現在も続いていて、新聞の連載の話が来たり、本当に人生わからないものです。

私の仕事
 私の仕事は基本的にお茶屋を、そして宴会を取り仕切ること、宴会は上手くいって当たり前で失敗や粗相は許されません。おもてなしは皆さんもされているでしょうが、私はプロとしてやっています。一番気を遣うのは接待、宮中晩餐会がございますが、その小さいものが私どもの宴会になると思います。車が出発するまで気が抜けません。“おもてなし”とはお腹を満足させるだけでなく精神的にも満足してもらうことです。
 古い神話に、天照大御神が天の岩戸に隠れて世の中が真っ暗になったので、天の岩戸の前で大宴会をして扉を開けさせたお話があります。お座敷でしていることも同じこと、車座になって食事をする、芸をするのは神代の昔から変わっていません。この21世紀に、人間の根源的なことに携わるような仕事をしているのではないかと気付いたりします。伝統を通じて深い満足を提供するのが務めと思っています。
 気持ちよく過ごしていただくためにまず清掃をする、畳の上というのは髪の毛一本落ちていても目立ちます。うちへ来るのに汚いところを通ってやってくるのは、お客さんとしても嫌でしょうから次の角くらいまではゴミを拾ったりして気持ちよくお客様を迎えるようにしています。しつらえについては、その季節を感じていただけるように心配りしています。床の間や花にも気を使い芸妓さんも季節の着物を身にまとって、踊りや出し物も季節に因んだものを出します。身だしなみは清潔であることはもちろんですが、着物をきちんと着ることが大事です。ましてお食事のお世話をするので、身だしなみはきちんと整えます。言葉使いですが、お座敷では「おおきに」「おいでやす」「そうでっか」とか大阪弁を使います。やはりその地の言葉を話すことで、遠方の方にはその地ならではの気分を感じてもらい、芸妓さんが一昔前の言葉を使うことで、お客様に安心感を与えるようです。おいしい食事やお酒も重要です。板前を置いていないので常においしいお店やお酒に興味を持って取り組んでいます。
 お座敷では、日本の文化を総合的に楽しむことが出来ます。床の間があり畳があり、そこに懐石料理、芸妓さんが着物で登場、私どものもてなしも日本文化の繊細さの極みと思っています。今かろうじて残っている状況でいったん途絶えるともう一度ということは非常に難しく、そうならないように微力ながら頑張っています。
 お茶屋を体験してもらうために“お茶屋サロン”もやっています。昼の催しですが、芸妓さんは入らず、私が実際にお茶屋のお座敷でこのような話をします。女性の方一人に裾引きで着物の着装体験をしてもらうとか。今は日本文化が遠いものになっているという危惧を感じていて、お茶屋さんも敷居を下げたり、ガラス張りにしたり努力しています。

 本日は楽しく話させていただき、ありがとうございました。
文中で使用した写真は【お茶や 「たに川」 オフィシャルブログ】から転用しました。
https://ameblo.jp/ochaya-tanigawa/
 




平成29年6月 講演の舞台活花



活花は季節に合わせて舞台を飾っています。


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