第3回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA大ホール
平成28年7月21日

小笠原諸島とNavy Generation




立命館宇治中学・高等学校校長
チャールズ フォックス

  

                講演要旨

 小笠原諸島のいわゆる欧米系の存在は日本国内でも外国でもあまり知られていません。明治以前から現在に至るまで父島にいる元非日本人グループが否応無しにおかれた状況。アメリカと日本、二カ国の間に挟まれてきた歴史があります。
 この欧米系物語の大筋を、そして撮影された戦後の欧米系に焦点を当てたドキュメンタリー映画の一部を紹介します。

 

小笠原諸島の歴史
 昔の小笠原諸島の話ですが、この島には二つの名前があります。
 「小笠原諸島」と「ボニンアイランズ」です。小笠原諸島は、2011年に、世界遺産になった時に報道され、皆さんが知るようになりました。地図を出して見れば、どんなに孤立しているかすぐに分かると思います。これは、東京から1,000Kmぐらい南にあり、沖縄と同じ距離になります。南にあるということで、孤立しています。今も、飛行機で行けません。船で25〜26時間かかりますから、行くのに大変です。沖縄なら飛行機で1時間少しで行けます。だから、小笠原諸島は、孤立しています。小笠原諸島の初期の入植者は、日本人ではないと知っている人は非常に少ないのです。
 1830年までは無人島でした。私は、北原白秋の論文を書いた事があって、その関係で小笠原諸島を知り、私も見に行かないと思いました。私の研究費が残っていたので、初めて小笠原諸島に行きました。その時欧米系の人達の話を知った訳です。歴史家ではありませんが、その人達が生きている間に、経験、特別の事等を伝える為に、ドキュメント映画を作っておきたいと思いました。欧米系というのは、「ビイプル・オブ・アメリカ」という意味で、色んな住民が入っています。
 1830年に、ハワイのホノルルから、5人のヨ−ロッパ・アメリカ人と、20〜25名ぐらいのカナダ人が、1ヶ月間かけて無人島である小笠原の父島に着きました。1831年から、島々に他の人が集まって来ました。日本の領土に確定するまで、島の人口は、200人ぐらいでした。19世紀中頃まで、日本以外に、イギリス、アメリカも、自分の領土であると主張していました。その理由は、小笠原諸島の近くをクジラが回遊するので、クジラを捕る事が出来るからです。
 18世紀終わり頃から、19世紀初めにかけて、捕鯨船が島の近くに集中してきて、捕鯨の活動が活発でした。20世紀初め頃の有名な小説家ジャツク ワンダンが、17歳の時(1893年)に船員として、船に乗って来ていました。のちに、この事が小説の題材になりました。小笠原諸島でなく、ボニンアイランズの名が付いていました。父島は、ピオーアイランドと言っていました。父島は、真水多く出る所であったので、17世紀から真水を補給するために船が帰港していました。無人島が、武人島になり、アメリカの発音で「ぶじん」が「ボニン」になって、小笠原諸島が「ボニンアイランズ」と言われるようになりました。
 19世紀の小笠原諸島の事を知りたければ、石原 俊の「近代日本と小笠原諸島(サブタイトル:移動民の島々と帝国)」という本があります。帝国主義の1853年に、日本開国を要求するアメリカ海軍のぺリー提督の黒船が日本にやって来ましたが、面白い事に、あまり知られていない事ですが、日本に来る前に小笠原諸島に寄港していました。1876年に、日本の領有が認められ、移動民が帰化人になりました。そののち、日本人が島に入植してきたため、生まれ育った欧米系のグループが小数派になり、彼らは帰化人と呼ばれるだけでなく、昭和10年代まで、バイリンガルでした。帰化人といっても、完全な日本国籍をもらえなかったため、帰化人が日本の国土を自由に行き来出来ませんでしたが、手厚い対応を受けていました。村の人々はバイリンガルであることは、いいことであり望ましい事であると思っていました。一般的に英語で教育を施されていました。小笠原諸島を撮った写真ですが、サトウキビの採集、捕鯨を含む魚業、牧畜、羽毛採取、サンゴ採取、等の産業が盛んでした。人口は、今の小笠原諸島は2,000人ですが、その時代の人口は4,800人でした。

小笠原諸島の軍事的な役割
 電報業のために海底ケーブルが大正初期までに本土−小笠原諸島−グアム島間に出来ており、本土の軍上層部からの命令は父島を中継してサイパンへ行なうという大切な働きをしていました。1930年までに要塞が出来ていて、飛行場や軍事施設も多くなりました。
 1941年12月8日に総力戦の戦争が始まり、翌年7月から軍族以外は、本土に強制疎開を命じられました。その人数は6,680名であり、その中の欧米系の人達は、知り合いの人が一人もいない内地での生活は非常に厳しい状態でした。沖縄、奄美大島と一諸にアメリカから、譲られた土地なったわけです。しかし、小笠原諸島に、戻る事が出来なかった欧米系のリーダーが、アメリカ政府に特別に島に戻る権利を得、1946年10月に129名の欧米系の人達が島に戻りました。
 1951年になって、アメリカ海軍が基地を作りました。アメリカ中心の生活は全部英語でおこなわれており、軍人の家族もいることから、学校は勿論英語で教育をしました。この人達の経験のドキュメンタリーを撮りたくなった訳です。
 その学校教育を受けた人達は50代〜60代の人達なのです。顔形が違うと思ったら、流暢な日本語を話すのですが、英語も流暢に話すのです。アメリカ占領時代であった子供達は、新しい今までにない様な、ハイブリドなアイデンティティ的だなと私は思います。だから、ネイビー ジェネレーション(米海軍時代)と言って、アメリカ政府にとっては1960年代の小笠原諸島は、軍事的にあまり意味のない島で、それより大切なのは、沖縄で、沖縄を返還しても、基地を自由に使わせてもらいたいと、権利獲得しようと思ったから、小笠原諸島の返還を取引にしました。
返還の話が急に決まったため、アメリカの国籍を取ろうと思ったら、男性は軍隊に入れば簡単ですが、女性は軍人と結婚する事しかなく、結構そうゆうふうな人がいました。返還した時は、ボニン アイレンダーは、永住権だけ与えられました。2009年に父島に行き、初めて歴史を知り、小笠原諸島の苦難の歴史に感動しました。小笠原諸島は、アメリカから譲られた事を知っている人が少ないため、こういうドキュメンタリー映画を作りました。未完成で字幕等手直しするところがあり、来月完成の予定です。

 ―――「ドキュメンタリー映画放映―――

 如何でしょうか?未だ無名ですが、フィルム メーカーの息子を説得し、米国から呼び寄せ3年間かけて、インタビューや取材を行い作った映画です。 アイデンティティ、生活の様子、今の島をどう思っているかを、織り込み完成させたいと思っています。

《講師未見承》


平成28年7月 講演の舞台活花



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