第2回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA大ホール
平成28年6月16日

四国遍路の歴史と習俗




高野山大学非常勤講師
四国霊場第二十八番大日寺住職

川崎 一洋 氏

  

                講演要旨

 この度の講座では、今から1200年前に弘法大師・空海によって開かれたとされる八十八ヶ所の霊場を巡る「四国遍路」の歴史と、その習俗や作法を紹介します。
 また、四国霊場を巡拝する遍路修行者(お遍路さん)たちの現況を報告し、現代における「四国遍路」の意義を考察します。

 

遍路の種々相
 
毎週木曜日は高野山大学で講義があるのですが、今日は休講にしてこちらに伺いました。飛行機が運航されて高知から大阪までは近くなりました。高知「竜馬空港」からは四十分弱で伊丹空港へ到着します。しかし、難波から高野山までが遠くて、二時間かかります。
 私は岡山に生まれましたが、小さい時から風変わりな子供で、将来はお坊さんになりたいと思い、一般の高校を卒業してのち、親の反対を押し切って出家しました。そして高野山に登り、十三年くらい、修行しながら密教を学びました。高野山は宿坊が多くあり、私は蓮華定院(れんげじょういん)というお寺に寄宿していました。蓮華定院は、真田幸村が寓居していたお寺です。朝晩はお客様の接待をし、昼間は大学へ行くという生活を送りました。そこで、蓮華定院を高野山での定宿にしていた大日寺(だいにちじ)の前住職と知り合いになり、跡継ぎがいないということで、四国へ参りまして十年ほどになります。
 四国八十八ヶ所は、歩いて巡ると四十日くらいかかりますが、だいたいの人は途中で足が痛くなります。そこで、いったん家に帰り、再び途切れたところから始めて、続きを回る人も多いようです。自動車ですと、十日あれば充分に回れます。
 弘法大師によって開かれた真言宗は、十八の派に分かれており、十八のご本山があります。私が修行したのは高野山で高野山派(高野山真言宗)ですが、大日寺は真言宗智山派(ちさんは)に属しています。この近くだと滝谷不動尊が智山派のお寺です。他に長谷寺をご本山とする豊山派とか醍醐寺をご本山とする醍醐派、仁和寺をご本山とする御室派などあります。智山派のご本山は京都の七条通りの突き当たりにある智積院です。智山派のお寺は関東に多く、成田山新勝寺、高尾山薬王院、川崎大師平間寺などが有名です。智山派には智山伝法院という研究機関があり、私はそこで嘱託研究員として研究に従事しております。
 智山派では『智山ジャーナル』という雑誌を月一回出しておりますが、それに四国のお遍路について寄稿した私の原稿を、今日のレジメに使用したいと思います。
 現在、四国を訪れるお遍路さんは、年間に十万人とも十五万人とも、ある調査では二十万人ともいわれています。四国の霊場は、一般には弘法大師空海様がお開きになったといわれております。また高野山には、弘法大師は奥之院にある岩屋の中でまだ生き続けているという入定(にゅうじょう)信仰がございます。
 弘法大師は、今から千二百年前の人物で、ご出身は讃岐の善通寺(ぜんつうじ)。善通寺は、七十五番の札所で、真言宗善通寺派の本山でもあります。
 その後、十八歳で奈良の都に行かれ、大学に入り、国の官僚になるべく勉強されていましたが、途中でお坊さんになられたそうです。
 若い時代に四国の各地で修行をされましたが、それらの霊跡にお寺が建てられて、八十八の霊場ができたといわれています。今のようにたくさんのお遍路さんが巡拝するようになったのは江戸時代で、それまでは限られたお坊さんの修行として四国の道がありました。江戸時代になって戦国の世が終わり、社会と経済が安定するようになると、お伊勢参りが流行したようにお四国参りも流行し、一般庶民も四国霊場を巡拝するようになったといわれております。
 難波を拠点に各地を遊行した真念(しんねん)という人物が『四国辺路道指南(しこくへんろみちしるべ)』という四国遍路のガイドブックを出版し、これが当時のベストセラーになりました。懐に入るくらいの大きさで、お寺の簡単な紹介と道順が書いてあり、これを見ながらお容易に遍路ができるようになり、真念は“四国遍路の父”と呼ばれています。指南を出版しただけでなく、各地に石の標識を立てました。四国内に二百もあったそうで、今も三十ほどが残っています。お寺とお寺とが遠く離れている場合、泊る所がないので、遍路小屋を建て、そこに泊まれるようにしたという業績もあります。
 三十七番から、足摺岬にある三十八番までは一番距離が長く、お遍路さんは苦労します。その途中に、「真念庵」という真念が建てたお堂が残っていますが、昔はそこに荷物を置いて足摺へ行って、戻って三十九番へ向かったようです。こうした真念の活躍もあって、江戸時代に四国遍路が一般庶民にも広まったということです。
 四国ではお接待(せったい)の習慣、文化があって、お遍路さんが来たらお米を差し上げたり、お菓子や果物を差し上げたり、あるいは宿を貸したりいたします。そのため、明治以降になると、お接待を頼りにしてそれで生活をする「乞食(こつじき)遍路」も出てきました。
 その他、「病気遍路」と呼ばれる人々いました。不治の病にかかった人が弘法大師を頼って四国に渡り、お遍路をしながら亡くなっていかれるという、悲しい時代のお遍路さんです。四国霊場を巡っていると、道沿いに、行き倒れになったお遍路さんたちの小さなお墓がたくさんあります。昔からのきまりで、村の中で亡くなったら、その村の人が葬ることになっていて、特に徒歩で巡礼していると、そうした遍路墓がたくさん見られます。
 昔は、田植えの前の農閑期に遍路に出ることが多く、俳句の世界で「遍路」は春の季語になっています。高浜虚子(たかはまきょし)は「道のべに阿波の遍路の墓あはれ」という句を詠んでいます。「遍路」という言葉には、哀愁や悲しみのイメージが含まれています。
 しかし戦後、経済成長が進み豊かになると、不治の病気もなくなり、乞食遍路や病気遍路は姿を消し、代わって「観光遍路」という、観光を兼ねてお遍路をする人達が登場します。こういう人たちは旅行社が募集した団体ツアーの観光バスで来られます。次から次へ機械的に巡礼し、途中観光地へ寄りながら、夜は大きなホテルに泊まり、おいしい料理を食べ、お酒も飲みながら、四国を回ります。これは現在も続いています。
 最近の傾向としては、「哲学遍路」といって、リストラで職を失った人、大学を出たものの就職が決まらない人、職場や家庭で人間関係が上手くいかない人など、何らかの悩みを持った人々が、一人で大きなバックパックを背負って歩いています。
 四国遍路の総距離は、自動車道だと1400キロ、歩きますと1200キロといわれています。歩きますと、景色が堪能できるばかりではなく、自分の内側に向き合う時間が多くなります。ずっと歩いていると、無心になって他のことが見えず、自分の心のみを集中して見つめることができます。歩きながら、お遍路しながら、自分というものはどういうものなのか、あるいは社会というものはどういうものなのか、それを思索する。風が吹いたり雨が降ったり、寒かったり暑かったり、野宿で苦労しながら、自分の人生を見つめなおしながら歩く。こういうお遍路さんを哲学遍路といいます。
 特に一昨年(平成二十六年)は、弘法大師が八十八ヶ所の霊場を開いた弘仁六年(八〇五)から数えて、千二百年目に当たるということで、四国はたいへん賑わいました。しかし、それに勝る遍路ブームは、瀬戸大橋とか明石大橋ができたときだったようです。
 去年は高野山が開創千二百年で賑わいました。今年は閏年に当たり夏にリオでオリンピックが開催されますが、オリンピックのある閏年は「逆打(ぎゃくう)ち」をします。仏教では右回りが通常です。インド人にとって右手は清らかな手、左手が不浄の手であります。ご飯を食べるときには右手を使い、トイレのときには左手を使います。そこで、仏さまや偉い人にお仕えするときは、必ず相手に右手を向けます。お寺で法要などするときも、必ず右回りするのが普通です。ですから四国でも第一番の霊山寺(りょうぜんじ)から右回り巡るのが一般的ですが、閏年には逆回りします。最近では旅行会社が「四年に一度の逆打ちです」と宣伝、広告をしてくださるので、今年も多くの方に四国に来ていただいております。

辺路から遍路
 それではここで少し、歴史のことをお話しておきたいと思います。
 四国遍路の起源は、弘法大師の時代におこなわれていた「浄行(じょうぎょう)」にあったようです。これは、人里離れた山の中や海辺などの厳しい環境に身を置いて、大自然と向き合いながら罪を懺悔(さんげ)し、「人間はどういうものか」を見つめなおす修行です。雨も降り、食べ物もなく、辛いのですが、こうした自然の中で体を痛めつけて修行することを「浄行(じょうぎょう)」といっています。
 昔は、京都や奈良から見ると四国は僻地であって、浄行修行の行場でありました。そこにはいくつもの修行者の集団があって、若いときの弘法大師もそんな集団に混ざって修行されたのだろうと考えています。そのことを示す証拠として、弘法大師が二十四歳のときに書いた『聾瞽指帰(ろうこしいき)』とう書物があります。その自筆本が高野山に残っており、国宝に指定されています。高野山の霊宝館に時々出典されたりします。「弘法も筆の誤り」とか「弘法筆を(えら)ばす」というように、弘法大師は字が上手で、平安の三筆(さんぴつ)にも数えられています。他の二人は、嵯峨(さが))天皇と橘逸勢(たちばなのはやなり)という人です。弘法大師の書は芸術的にも価値があり、力強い字で書かれているので、国宝展などで出展されるときには是非ご覧ください。
 さて、『聾瞽指帰』の中には、弘法大師の自叙伝が語られ、そこには室戸岬で修行したことが書かれています。その他に言及されるのが、二十一番霊場になっている太龍寺(たいりゅうじ)、それと愛媛の石鎚山(いしづちさん)です。よって、弘法大師が四国で修行したことに間違いないのですが、三ヶ所しか書かれていません。
 浄行修業は、後白河(ごしらかわ)法皇がお書きになった『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』や、いろいろな説話を集めた『今昔物語集(こんじゃくものがたりしゅう)』の中に、「辺地(へち)修行」や「辺路(へじ)修行」という言葉で出てきます。辺路とは海辺の道を指し、熊野の大辺路、小辺路が有名です。熊野も、四国と同じく浄行修業の行場だったのです。そして後世、「徧礼」や「遍路」の文字が用いられるようになり、「へじ」がなまって「へんろ」となりました。
 高い山の上とか海辺の断崖絶壁などの僻地は、死者の魂が集う世界であると昔の人は考えており、そういう死後の世界に一度身を投じて死を疑似体験し、穢れた心身をリセットして、再び新しい自分になって生まれ変わる。これも浄行修業の目的です。
 四国を巡ると、太平洋もあり、四国山地もあり、美しい自然の景色にたくさん出会います。太龍寺では、三百六十度のパノラマで雄大な山の景色が広がっていますし、室戸岬に行きますと、真っ青な海原と、まっすぐな水平線が続いています。一説に、空海という名は、弘法大師が室戸で修行しているとき、空と海を分ける水平線を見て自身で定めたともいわれます。太龍寺も室戸岬も石鎚山もそうですが、四国の霊場を巡っていると、雄大な自然の景色に出くわすことが多い。そんな場所で、自然と自分とのつながりを実感する、自然の大きさと自分の小さい自我を確認するというのも、浄行修業の目的です。

同行二人
 それから、同行二人(どうぎょうににん)ということも大事な概念であって、これは、弘法大師は今も生きているという入定信仰に結びついています。
 高野山の西の入り口に大門(だいもん)という総門があります。この門の額には弘法大師の字で「高野山」と書かれていますが、中央の二本の柱に懸かる(れん)には、同行二人の思想の起源となった言葉が書かれています。お寺の本堂の中の柱などに、大事な言葉を書いた一対になった板が懸けられており、これを(れん)といいます。
 高野山の大門に行かれたら見ていただきたいのですが、レジメにある漢詩の後半の七文字と七文字、合計十四文字が書かれています。これは後宇多(ごうだ)上皇の宸筆(しんぴつ)を写したもので、法性寺流(ほっしょうじりゅう)という独特の書体で書かれています。

  卜居於高野樹下()高野(こうや)樹下(じゅげ)(ぼく)し)
  遊神於兜率雲上(たましい)兜率(とそつ)雲上(うんじょう)(あそ)ばしめ)
  不闕日日之影向日日(にちにち)影向(ようごう)()かず)
  検知処処之遺跡処処(しょしょ)遺跡(ゆいせき)検知(けんち)す)

 この漢詩の意味は、弘法大師は承和二年(八三五)に亡くなったけれども、本当は亡くなったのではなく、深い座禅に入ったまま肉体を高野山奥之院の岩屋の中に留めながら、その法身(ほっしん)としての身体は各地の有縁(うえん)の土地を訪れ、衆生(しゅじょう)を救済し続けている、ということです。
 高野山奥之院の御廟(ごびょう)の地下には石室があって、この中で弘法大師が今も座禅を続けているとされます。そして、奥之院には弘法大師専用の台所である「御供所(ごくしょ)」があり、ここで毎日、弘法大師の食事を作っています。高野山のお坊さんは「弘法大師はまだ生きておられる」という気持ちで弘法大師にお仕えしています。夏には団扇(うちわ)を、冬には「手あぶり」という小さな火鉢をお供えするという作法もあります。
 弥勒菩薩(みろくぼさつ)という菩薩が兜率天(とそつてん)という天上の世界で修行していて、お釈迦様が入滅されて五十六億七千万年経つと、われわれが住む娑婆(しゃば)世界に降りてこられて説法をされるということになっています。しかし、お釈迦様の入滅から弥勒菩薩の降臨までの間は無仏(むぶつ)の時代に入るので、弘法大師は仏様に代わって困っている人を助けてあげようという誓いをたてられて、永遠の座禅に入られたといわれています。
 この漢詩は、「高野山の木の下に身体を留めて、魂は弥勒菩薩と一緒に修行をして、毎日この世に現れて縁のある場所で困っている人を助けますよ」ということを詠っています。後世になると、弘法大師は弥勒菩薩の生まれ変わりだという信仰が出てきて、弘法大師がおられる高野山は、弥勒菩薩のいる兜率の浄土そのものであると考える信仰が生まれました。
 弘法大師が座禅をしている岩屋を一回だけ開けた人がいます。観賢(かんげん)僧正といわれる方で高野山と、真言宗の総本山である京都の東寺(とうじ)の管長を兼任した人物です。
 醍醐(だいご)天皇の夢に弘法大師が出てこられて、ぼろぼろの衣を着て「まだ高野山の岩屋の中で座禅を続けている」とのお告げをされました、そこで、醍醐天皇は新しい衣を作って、「弘法大師」という諡号(しごう)(贈り名)を定め、観賢僧正に託されました。そういうことで、観賢さんがそれを届けるために高野山の岩屋を開いてみると、弘法大師の衣はボロボロになり、髪も(ひげ)も伸びていて、数珠も紐が切れていたので、衣や数珠は新しいものに取り替え、髪や髭も剃って、また岩屋を閉めたという伝説があります。
 さて、漢詩の中に出てくる「遺跡(ゆいせき)」とはどこかということですが、大師の故郷であり、大師が修行を重ねた四国の地こそ、大師の遺跡であると考えられました。そして、四国には今も大師がいて、遍路修行者にはいつも付き添って、困ったときには助けて下さると考えられるようになったのが、いわゆる「同行二人(どうぎょうににん)」の信仰なのです。
 お遍路さんは、白衣を着ます。そして、白衣の背中の真ん中には「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」と墨で書きます。南無阿弥陀仏というように「南無」という言葉をよく使いますが、これはもともとインドの言葉で、ナモウとかナマスとかナマッハと発音しますが、これはすべてを「あなたに任せる」という意味です。「南無阿弥陀仏」というと「阿弥陀仏に私のすべてを任せます」ということです。遍照金剛とは弘法大師様の灌頂名(かんじょうみょう)です。密教には灌頂という儀式があり、その儀式では、目隠しをして曼荼羅(まんだら)の上に花を投げて自分の守(護仏(しゅごぶつ)を決定します。弘法大師は(とう)(中国)に渡り、青龍寺(しょうりゅうじ)恵果和上(けいかかしょう)から真言密教を学び帰国します。弘法大師は唐において灌頂の儀式を二回受けましたが、大師が投げた花は、いずれも曼荼羅の中央に描かれた大日如来(だいにちにょらい)の上に落ちたそうです。そこで、弘法大師は大日如来の別名である「遍照金剛」という名前をもらったわけです。
 よって、「南無大師遍照金剛」とは「弘法大師であり、遍照金剛である空海様にすべてをお任せします」という意味です。そこで、弘法大師を拝むときには、南無大師遍照金剛と唱えるのです。
 お遍路さんが巡礼の途中で命を落とすと、被っている菅笠(すげがさ)はお棺の代わりになり、突いている金剛杖(こんごうづえ)は墓標の代わりになるとされています。遍路では、金剛杖があると歩くのが楽になりますし、金剛杖そのものが弘法大師の身代わりとして尊ばれています。四国のお遍路さん専用の宿では、玄関に水が用意されており、宿に着いたらまず金剛杖の先を水で洗い、宿泊の間は杖を床の間に祀る習慣があります。
 また、金剛杖については、橋の上では突かないという決まりごとがあります。昔、弘法大師が四国で修行されるとき、泊まる場所がなくて橋の下で一晩休まれました。その際に詠んだとされる「往き悩む浮世(うきよ)の人を渡さずば一夜も十夜(とよ)の橋と思ほゆ」という和歌が遺っています。このことから、橋の下にいるかもしれない弘法大師の邪魔しないようにと、橋の上では杖を突かないのです。
 遍路の道中で唱えられる御詠歌(ごえいか)には、「あなうれし行くも帰るも留まるも我は大師と二人連れなる」と詠われており、遍金剛杖や菅笠、上着として羽織る笈摺(おいずる)や白衣には、「同行二人」と墨で書き入れる習いがあります。
 そして実際に、二十一世紀を迎えた現在もなお、大師に出会った、大師に助けられたというお遍路さんは、あとを絶ちません。

お接待の文化
 四国の人はお遍路さんを大事にして、お遍路さんにいろいろなものを上げたがります。おにぎりやお菓子、ミカンも多いです。一夜の宿が無償で提供されることもあります。先ほども申し上げた「お接待」の習慣です。
 四国の人々は、喜びを感じながら一期一会のお接待を実践しており、他方で、お接待を受けた遍路修行者は、人の温かさに感動し、人間が生来的に具えている慈悲(じひ)の心に気付かされることになります。
 お接待の実践の根底には、「お遍路さんは弘法大師であり、遍路者にお接待することは、大師に供養することに他ならない」という理論があり、それには、四国遍路の元祖とも称される、右衛門三郎(えもんさぶろう)の伝説が関わっています。
 伊予の里(現在の松山市恵原町)に大きな屋敷を構えていた右衛門三郎はすこぶる慳貪(けんどん)(ケチ)で、托鉢(たくはつ)に訪れた大師を何度も追い返し、挙げ句の果てには、大師の所持していた鉄鉢(てっぱつ)を竹の(ほうき)で打ち割ってしまいます。このとき、鉢が八つに割れて飛んで行き、八つの泉になったそうです。その日から三郎は、八人の子供たちが次々に亡くなるという不幸に見舞われました。
 大師への非礼を悔いた右衛門三郎は、(ゆる)しを請うために大師を追って四国を二十周しましたが出会えず、二十一週目にしてやっと再会することができました。そして、三郎が歩いた道が、遍路道になったといわれています。
 身分を隠して右衛門三郎の屋敷を訪ねたように、遍路に訪れる修行者は、実は弘法大師であるかもしれないという意識があって、四国の人々は、お遍路さんを慇懃(いんぎん)にもてなすようになったといわれています。
 ちょうど今年は閏年ですから、お四国、お遍路においでくださいましたら、もしかしたら弘法大師にお会いできるかもしれません。一度四国に来ていただくと、きれいな景色やおいしい食べ物に魅了され、二度、三度と行きたくなる、いわゆる「お四国病」になる人もたくさんいらっしゃいます。是非ともお四国を訪れてみてください。もし高知に来られた折には、お声をかけていただければ思っております。
 ご清聴、どうもありがとうございました。


平成28年6月 講演の舞台活花



活花は季節に合わせて舞台を飾っています。


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