第6回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA大ホール
平成27年11月19日

真田幸村と大坂の陣
〜名将伝説の嘘(うそ)と実(まこと)〜




大阪天守閣館長
北川 央 氏

  

講演要旨

真田幸村は、大坂冬の陣では徳川方の大軍を手玉にとり、翌年の夏の陣では徳川家康をあと一歩のところまで追い込みました。 今回の講演では、大坂の陣における真田幸村の活躍を、史実に伝説を加味しながら紹介します。
 

1 はじめに
 皆さん、こんにちは。大阪城天守閣館長の北川央です。本日の演題は「真田幸村と大坂の陣〜名将伝説の虚・実」です。昨年の2014年が慶長19年の大坂冬の陣から400年。今年が夏の陣から400年ということで、私ども大阪城天守閣だけでなく大阪府、大阪市、府下の沢山の自治体で、大坂の陣400年の記念事業を展開してまいりました。そしてNHKの大河ドラマ『真田丸』が来年1月からの放送が決まり、その事前特番がいくつも放送されるのですが、それに巻き込まれて私どもも大変な思いをしているところです。
 今日の講演は、幸村の生涯を簡単に辿り、次に大阪府下に残る幸村関係の所縁の史跡や伝承の地を紹介して名将幸村の伝説の虚と実を明らかにしていきたいと思います。

2 真田幸村の生涯
 それではレジメ1の幸村の生涯を辿ります。大河ドラマでは幸村ではなく、真田信繁という名で登場してまいりますが、実際今日残された手紙にも幸村と署名したものは一通もなく、幸村という名は後世になってから創作されたというのが一般的な理解です。ただ夏の陣では幸村と名乗りを変えた可能性もあり、今日の講演では幸村と呼ばしてもらいますが、彼の名は真田源次郎信繁(幸村)といい信濃国上田城主真田昌幸の次男です。昔の日本はミドルネームがあり、後ろの信繁は忌み名といい、通常は源次郎と呼ばれていました。お兄さんは源三郎信幸(のち信之)。当時はその家には代々伝わる通字があり、真田家の場合は幸福の幸でして、当主は幸を使ってきましたが、のちの関ケ原合戦で徳川方に組した信幸は、敵方になった真田家を捨てますという意味で幸という字を捨て信之と改めたのですが、私はこれが幸村の改名に大きな意味を持っていると考えています。ここで問題なのは弟の幸村の名前が源次郎で兄が源三郎と順序が逆転していることです。よく徳川幕府も勘違いをするんですね。もしかしたら幸村が兄で信之が弟ではないかと。信之が正室の子供だったので後から生まれたのにお兄さん扱いされた可能性があるということです。このように幸村の名乗りや忌み名にもさまざまな問題がありますが、ここを掘り下げていくと時間がありませんのでさっと流します。
 真田家は、武田家の元で信濃国、今の長野県上田市周辺と当時の国境を越えた上州上野の国沼田という2つの国を持つ小さな大名でしたが国境を越えて領地を持つ珍しい領地の在り方をしていました。その後武田家が滅び、真田家は主君をいろいろと変えていき最後は豊臣秀吉に属します。そして秀吉の小田原攻めで北条氏が滅ぶと、真田家は再び上田と沼田の両城の領有を秀吉から認められ昌幸が上田城、信之が沼田城に入り、この時点で真田家は三家となり、大名としての扱いを受けることになりました。信之は徳川家康の四天王の一人本多忠勝の娘小松姫を家康の養女という名目で正室に迎え、信之は家康の娘婿という立場を獲得します。一方、幸村は豊臣家の奉行大谷吉継の娘を正室に迎えました。ここで真田家は一方は豊臣、一方は徳川に色合いが鮮明になり、結局のちの関ケ原合戦で信之は徳川方の東軍、幸村と昌幸は西軍に付くことになります。一般には犬伏の別れといい、3人が話し合った結果と言われていますが、それがあったにせよ、婚姻や人間関係ですでに真田家は2つに分かれており、その別れは自明の理であったと思われます。
 関ケ原合戦は東軍が勝ち、昌幸と幸村は本来なら死罪に処せられるところでしたが、信之の嘆願のおかげで助命され高野山に追放されることになります。2人は高野山の山上に登ったのですがほどなく麓の九度山に下りてきて生活するのですが、ここでの生活は非常に厳しく新たに上田城主になった信之から送られてくる仕送りだけでは成り立たず借金まみれになっていた中で昌幸は慶長6年6月4日に65才で亡くなります。幸村だけが残ることになったのですが、西軍についた罪人といえども昌幸は先の上田藩主。仕送りも多額であったのですが、幸村1人になると扱いも悪くなり、仕送りも滞りがちになりますます厳しい状態での生活を送ったそうです。
 そして大坂冬の陣が勃発。幸村は豊臣家の招きに応じて大坂城に入城。弱点であった城の南側に「真田丸」を築造。慶長19年12月4日、その真田丸の攻防戦で徳川の大軍を手玉に取り、大勝利を挙げるのですが、12月12日に講和が成立。堀を埋められた大坂城ははだか城になり、翌20年の夏の陣では5月6日の道明寺合戦で幸村は敗れますが、7日の最後の決戦となった天王寺口合戦で幸村は家康の本陣に3度突っ込んであと一歩ところまで追い込んだものの疲れ果て越前松永忠直隊に首を取られて戦死。大坂城は落城。豊臣秀頼と淀殿が自害し、豊臣家は滅亡します。これがおおよその幸村の生涯です。

3 大阪府下に遺る冬の陣の史跡・伝承地
 このあと今日のメインである大阪府下にある幸村関係の史跡・伝承地を順に辿っていきます。レジメには冬の陣から幸村の死に至るまでを時系列に並べました。まず和歌山と大阪の境にある紀見峠。蟄居していた九度山から紀ノ川を越え橋本に出て紀見峠を越えて河内に入って大坂城に向かったといわれていまして、今は峠の茶屋がある風情のある峠です。徳川秀忠の代の幕府の正史には幸村が大阪に入ってくる経路や状況が書かれています。『大坂より密かに幸村を招かるといえども』で始まる有名な話で、九度山を脱出する際に幸村は謀をめぐらします。数百人の村人を集め、酒を飲ませて酔わせ、その隙に村人たちが乗ってきた馬や籠を奪い、主従100余人と紀ノ川を渡ったとあるのですが、これは日頃から旧臣たちと連絡を取り合っていたことを意味します。これは大坂城に入った他の浪人衆にも同様の記録が残っていまして、浪人といえども絶えず来るべき日に備えて旧臣と連絡を取り合っていたということです。
 ただ、河内のどこを通ったかは書かれていないのが残念ですが、西高野街道を通ったとしたら大阪狭山市を通過したことになり、東高野街道なら狭山を通過せずに古市街道を通って大坂城に向かったことになります。これが資料的に出てくる幸村の城入りルートですが、伝承世界では違う伝承が残っています。紀見峠ではなくかつらぎ町と和泉市の間にある鍋谷峠を越えて父鬼という所を通ったという説で、この父鬼川には真田橋という橋が架かっています。鍋谷峠は峻険な峠で徳川の目を欺くということからすれば、このルートもありかなと思ったりもします。
 次の三光神社は真田の抜け穴で有名な神社です。抜け穴の隣には采配を振るう勇壮な幸村の銅像が建っているのでご存知の方も多いと思いますが、昭和6年に刊行された大阪府史跡名勝天然記念物という府下の調査報告書に『三光宮の社殿に俗に真田の抜け穴と称する跡あり、これより本城に通ず暗道を地下に設けたり』とあります。ただ、私が調べた限り戦前には大阪市内には十数か所の真田の抜け穴がありました。天王寺区小橋町の産湯稲荷神社、天王寺寺町の尼寺・月光寺もそうですが、月光寺の場所には織田信長が石山本願寺を攻める出城にした天王寺城があったから間違いとも明治36年に出た大阪府史には書かれています。
 大坂夏の陣で徳川方の先鋒を務めた藤堂家の藤堂高史が現地調査を踏まえてまとめた本には、幸村の抜け穴を真田が作ったのではなく、徳川方が大坂城を攻めるために作った栞道を大阪の町人が間違えて言い伝えたと書いています。抜け穴・抜け道に対する解釈の一つでしょうね。
 江戸時代になるといろいろ調べても真田の抜け穴は出てきません。産湯稲荷も三光寺も抜け穴ではなく狐の穴ということになっています。次に心眼寺というお寺ですが、ここは夏の陣後に幸村と息子の大助の菩提寺として建てられたと伝えられていますが、門前に幸村の城跡、さらに2年前に幸村のお墓が出来るなど近年いろんな物が建ちどんどん幸村の関連施設になっています。この寺の向かい側が真田丸の一番中心部分にあたります。今は明星学園のグランドになっている場所ですね。
 次は円珠庵というお寺です。門前に鎌八幡が建っていますが、この寺の榎の巨木に幸村は冬の陣の時に鎌を打ち込むんですね。そして幸村は上手く鎌が突き刺されば合戦に勝てると祈願したと伝えられています。ただ、現在は全く変わりまして、この鎌八幡は珍しい悪縁断ちの信仰のお寺として有名になっています。鎌八幡の伝承も江戸時代に遡れないのが残念ですが、大阪府の大正11年の伝史には『昔、幸村来たりて戦勝を祈り、自ら鎌を木の幹に打ち込めて、しばしば勝利を得たり』とあり、実際、今も無数の鎌が木の幹に打ち込まれています。大阪の人が書いた明治時代の「浪速百事談」にも鎌八幡の話が出てきますが、注目したいのは『これと等しき鎌八幡が紀伊の国にありて紀伊名所図絵に載せたり』と書いていることです。こちらは江戸時代に出てきますので、本家。円珠庵はその信仰習俗を真似たものではないかと考えられます。

4 夏の陣の史跡・伝承地
 続いて夏の陣の伝承地。羽曳野市野々上にある法泉寺ですが、この寺は夏の陣の戦災で焼けたのですが、祭られている弁財天像が焼失する寸前に幸村が機転を利かして池に投げ込み、弁天さんを救ったと伝えられているお寺です。同じ羽曳野市の誉田八幡宮には古戦場の石碑があります。道明寺合戦で後藤又兵衛隊が徳川軍と激突。玉手山丘陵を挟んだ、現在の柏原市域で後藤隊が壊滅して、進軍してきた徳川軍の伊達政宗隊と幸村軍が激突したのがこの八幡宮あたりで、幸村は殿を務め大坂城に引き上げたと伝えられています。次に平野区長吉長原の志紀長吉神社は幸村が最後の決戦の戦勝を祈願したという、今は大変有名になったお寺です。その時に奉納したという六文銭の軍旗があり、周囲一帯にノボリが立つなどここ10年ほどで幸村一色の神社に変わってしまいました。
 古市街道を長原を越えて進んで行きますと平野郷に出ます。戦国時代には堺と並ぶ日本の二大商業都市として繁栄した所でその出入り口の樋尻口の地蔵。その地蔵の首が飛んできて祭られているという平野の全興寺の伝承はのちほど紹介します。
 次は堺の南宗寺にある徳川家康のお墓です。樋尻口の地蔵から一連の伝承で語られる場所で、境内にある山岡鉄舟の筆といわれる無名塔が家康の墓と伝えられてきました。その碑文には『徳川家康公の終焉の地であることは有力な史家が保証するところで、また、それを物語る文献遺物も幾多も残されている』と書かれているのですが、史家って誰でしょうね。私は旭堂と名乗る講談師の一派しか知りません。歴史家で保証している人も文献遺物も見たこともありません。碑文には続いて、このような小さい墓ではかわいそうなのでもっと立派な墓を造ってやりたい。その宿願を果たすべく東照宮徳川家康の墓の石碑として再建したと書かれているのですが、これを実現したのは、昭和42年、水戸徳川家家老の末裔三木啓次郎です。大阪の講談師ならともかく水戸徳川家の子孫が建てたのだから間違いないと語る人が多いのです。さらに碑文には建立の賛同者として堺市長やあの松下電器の松下幸之助さんの名があります。実は三木、幸之助さんの2人には特別な関係があって、幸之助さんがまだ四天王寺の縁日の出店で二股ソケットを売っていた頃に知り合い、三木さんは多大な資金を提供。松下電器の巨大化に大きく貢献した人物です。2人は四天王寺や浅草寺の雷門の再建に寄進していますし、テレビドラマ『水戸黄門』に松下電器が一社提供のスポンサーになったのもそういった関係からです。2人が中心になって南宗寺の墓を再建したのですが、大阪府全史によると、家康が平野にいたときに豊臣方の仕掛けてあった地雷が爆発。難を逃れた家康は和泉に向かって逃げる途中、たまたま紀州から帰る後藤又兵衛に出くわして槍で刺されて死んだ。その遺体を南宗寺に運んで埋めたという話が書かれていて、時に元和元年4月27日とあるのですが、残念ながら家康は27日にはまだ京都にいて二条城を出発していません。我々豊臣ファンには残念ですが、家康は4月27日には死ぬはずがないということになります。昭和6年に出た『平野郷町史』には、夏の陣の伝説があり、幸村が地蔵堂の下に地雷火を埋めて家康が火を焚けば爆発するように仕掛けたが爆発の寸前に家康は小便を催し、その場を離れたため難を逃れたとあり、代わりに先の地蔵さんの吹き飛んだ首が全興寺に飛んできて、身代わり地蔵尊として祭られてきたという話です。続く話として逃げる家康が助かった「片葉の話」などがありますが、以上は伝説のみで信憑することはできぬ、と締めくくられています。
 平成元年にまとめられた平野の昔話『平野のおもろい話』。土地の古老が語った民話集ですが、ここには平野の陣にあった家康が幸村に攻められて1人で逃げた逃亡劇が書かれていて、家康は進退きわまり塩川の藪といわれる藪に逃げ込み、その後百姓姿に身を変えて船に乗って逃げたとあるのですが、天下を取った家康はこの時の嬉しさを思って塩川さんに褒美を与えるとともに、藪に逃げ込んだ6日間を「藪入り」と称して奉公人の休日やお嫁さんの里帰りにしたと。笑いが起こってますね。信じてませんね。もちろん事実ではありません。藪とか木が茂っている所は死後不入といって世俗の権力が入り込めない一種の聖地で、例えば高野山。ここに入ってしまうと世俗の権力は手を出せない。駆け込み寺もそうです。塩川さんの藪とは関係ありません。あと家康が馬を繋いだという馬繋ぎという記念碑、家康から褒美で貰ったというお茶碗。ほんまの話でしょうか。証拠があります。大坂の陣から45年後の万寿3年に書かれた縁起の神武天皇の東征伝説で、日本書紀や古事記にも書かれている話です。それによると神武天皇は大和を攻めるにあたり日向の国から浪速に上陸しますが失敗。よく考えると自分は太陽神、天照大神の子孫なのに東、つまり太陽に向かって攻めたから負けたと反省し、紀伊半島をぐるりと回って熊野から上陸して大和に攻め込んだという話ですが、この時神武天皇は藪で休息を取ったとあるのです。つまり先の家康の藪入りの話は元々は神武天皇の話として伝えられてきた。ところが100年ほど経った江戸中期には家康の話にすり替わっている。ことほどさように伝記というのはアテになりませんが、伝承の謎解きは大変楽しくて私は大好きです(笑い)。
 昭和5年の「堺市史」にも南宗寺の無名の塔、家康の戦死に纏わる逸話があって、孤立無援の悲惨な大坂方に対する同情と狡猾で冷酷をきわめた家康に対する反感がかかる逸話を生み出した。民衆が自らの不快の慰めとしたのはありがちなことだが、今日では史実からもその是非は論ずるまでもないこととあります。論外というわけですが、注目したいのは家康の死んだ日が違うことです。先の後藤又兵衛に刺されて死んだのは4月27日でしたが、こちらは5月7日の茶臼山決戦だったと書いてある。時代とともに話が変わってくるんですが、でも又兵衛は前の日の6日の道明寺決戦で死んでいます。またもや我々大坂方の期待は裏切られました、残念(笑い)。今の人の知識からするとあり得ないのですが、そんな現代人が読んでも耐えうる伝説が作られていきます。一番代表的なのが昭和63年の『歴史群像』の鬼塚さんという方が書いた、夏の陣以降の家康は影武者だったという説です。要約すると大坂城落城の前日の5月7日、家康は二度も自害を決意したというほどの猛攻を幸村の赤備隊から受け、籠で逃げる途中槍で刺され南宗寺に着いた時にはコト切れていたと。どうでしょうか。巧妙な話の作り替えが行われていますね。又兵衛ではなく、真田隊の誰かにやられたという風に読んでしまうように、もっと言えば幸村にやられたとも読めますね。これによって幸村は大きな殊勲を得、日ノ本一の武将として語られることになっていくわけです。
 では、残りの幸村関係の史跡を紹介していきます。庚申堂合戦の舞台となった四天王寺の庚申堂では、家康が平野から大坂城に向かって軍を進めて行くと真田隊が待ち伏せしていて激突する。その様子を描いたのが『大坂合戦絵巻』という絵巻本です。ここで幸村と見えるのは実は影武者の穴山子介。有名な真田十勇士は全員が創作上の人物ではなく、穴山は実在の人物で、実際に夏の陣では幸村の影武者を務めています。5月7日の戦いで幸村と名乗る人物があちこちに出てきましたがそれを可能にしたのが地下に作られた真田の抜け穴という話ですが、本当のところは沢山の影武者を使っていろんな所に現れる演出をしたわけです。実際、首実験では幸村の首は複数出てきています。次に茶臼山ですが、ここは冬の陣では家康が、夏の陣では幸村が本陣を置いた所で、大坂の陣が終わったあと家康は頂上に旗を立て、諸大名を麓に招き寄せて「エイエイオー」と勝ちどきを挙げたため茶臼山は「おかち山」と呼ばれるようになり、江戸時代には家康所縁の聖なる地として山に登ることは許されなかったと書かれています。将軍秀忠の本陣だった生野区のおかち山古墳は現在は生野区勝山という地名として残っていまして、やはり禁足地でした。
 戦功実録という記録に出てくる茶臼山での幸村軍はその数1万余騎。赤備えの幸村軍が陣取っている様はまるで真っ赤なつつじの花が咲いたように色鮮やかであったそうです。茶臼山の隣にある納骨の寺として有名な一心寺。ここの井戸は真田の抜け穴の一つとされ、ブームに乗っかって最近説明板が立ちましたが、境内にある霧降の松は有名です。幸村が家康の本陣に攻め込んで来たときに松が急に霧を噴き出して家康の姿を隠して助けたといわれています。我孫子にあるあびこ観音でも幸村がやってきたときに家康は観音さんの本堂の下に隠れて難を逃れたとの伝承がありまして、家康はいろんな所で助かっているということですね。
 ややこしい史跡・伝承地が多いなかで、徳川十六将の一人で丹南藩主高木主税正の菩提寺である松原市丹南の来迎寺の伝承は事実と考えて間違いないものです。高木家は江戸時代丹南1万石の大名で、ここには真田隊からぶんどった桶や黒塗りの柄杓があるとされています。
 幸村が亡くなった最後の地として知られる天王寺区逢坂にある安居神社には、幸村戦没地と書かれた石碑、最近立った幸村の銅像、この下で首を取られたという真田松という松がありますが、実際は近くの田んぼの畔に腰を掛けて休んでいたところを越前の足軽隊に首を取られたのですが、畦道では場所が特定できないため安居が戦没地になったということです。
 このように根拠のはっきりしない史跡や伝承はどんどん増えてくるものなんですね。とくに大河ドラマで取り上げられるといっぱい出てきます。最初は大勢人が押し寄せますが、そのうち誰も行かなくなる。手入れをする人もいなくなり廃れてしまう。これを私は、大河ドラマの遺跡と呼んでます(笑い)。大阪城に関しても史跡や碑は昭和6年前後に出来たものが多い。その理由は大阪城の天守閣が復興した年だからです。満州事変の年でもあり、大陸出兵の先駆者として秀吉ブームに拍車をかけたようです。大阪府下の幸村所縁の史跡もそういうブームの中で誕生したものが少なくありません。最後になりましたが、幸村関係やその他を含めて何かをきっかけにして検証すべき史跡が誕生し、今日ずっと繰り返されている。また、伝承は土地の人が素朴に語り継いできたもので、なかには荒唐無稽なものもありますが、だからこそ伝承は面白いと私は思っております。ご清聴ありがとうございました。

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