第9回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA大ホール
平成27年2月19日

モーロクのススメ




仏教大学 文学部教授
坪内 稔典 氏

  

講演要旨

年をとることは生物である人間のごく自然な過程。
モーロクをおそれず、むしろモーロクを活用することが
<自然な老い>かも知れない。というようなことを考える。

 

はじめに
 皆さんは「熟年」と「モーロク」とどちらが好きですか、この会場には誰1人「モーロク」を好きと言う人が居られない様なので今日は「モーロク」を好きになってもらう様な話をしたいと思います。

70歳
私は今年70歳ですが、70歳になってこの頃思うのですが、10代20代の頃、例えば60とか70になる事はあまり考えなかったです。ふと気がつくと還暦、古希と年を取ってきますと、中身というか物を感じたり、考えたりするという基本の形みたいなものはあまり変わらないと思います。
皆さんも同じで70歳になって10代の時にくよくよした事が続いていたり又、好きでしていた事がそのまま好きだったりと、中身はあまり変わらないですが外が変わる、すなわちシワが出来たり、背が低くなったりとか−その中身と外のアンバランスがとても微妙で、我々は自覚できますが、若い人は多分解らないと思います。
たまたま私は20前後の大学生と接していますが、最近の学生の反応をみていますと物凄い年上の人がいるという感じで優しくいたわってくれて別の人間という感じで接してくれます。
例えば、私の髪の毛は真っ白で綺麗でしょうと自分でいうのがおかしいですが実は幼少期は毛が縮れていまして、あだ名が「羊」で又「カリフラワー」とも呼ばれていました。そうするうちに東京オリンピックで、私が高校生の時代に行われ皆さんもご存じの裸足の「アベベ」という選手が出場し、その選手の髪の毛が縮れていたので「アベベ」というあだ名もつきました。
又喧嘩をする度にそういうあだ名でいわれるのがとても嫌でした。思いだしますが高校生時代は丸坊主が主でしたが、長髪が流行りだしてその運動が私の学校でも盛んになり、当時生徒会長だったので、学校と交渉をしないといけない立場でとても嫌でしたが、何とか後任に先送りして助かった事がありました。それ位髪の毛が縮れているというコンプレックスがあり、散髪屋さんに行くのが非常に嫌いでした。
そこで25歳の結婚を機にカミさんに頼んで家で散髪をしてもらう様になり、以来45年散髪屋さんに行っていません。そんな訳で毛の縮れはものすごく気にしていましたので、私は髪の毛が白くなるのが早くて60歳近くになると、年齢のせいで髪の毛の縮れが緩んできてフワフワになり人々の反応が綺麗という具合に変わってきましたので、少しずつ自信を持ち始めました。
今から10年前の中学校の校長時代の卒業式の証書の授与の時、小声で「先生の髪の毛触っていいですか」と言ったので触らせてその日も何人かに触らせました。その頃から縮れているのは何となく良かったのではと思うようになり、段々自分の毛が縮れている事を話題にすることが出来る様になっていきました。60過ぎになってやっと幼少期の嫌な事が克服出来たと思いました。他人からみたら小さな事だし、他愛ない事なんですが本人にとってはとても重大でした。
僕の好きな文学者夏目漱石も軽い天然痘にかかり顔にアバタがあり、アバタずらで身体的コンプレックスを持っていて気にしていました。それ位漱石でもちょっとした身体的欠陥に悩み続けて、棘の様に心のどこかに刺さっている小さな事を、他人から見ますと些細な事を私達は抱えて生きていて、それを克服するのに時間がかかるという事で、俺もと、思われた人もいるのではないですか。

アンパン
 僕は今、毎朝「アンパン」を食べる事に決めています、食べ始めてから約30年以上になります。何故、朝がアンパンかと言いますと、先ほど司会者から僕の俳句を紹介してくれましたが、僕の世間で知られている俳句は「3月の甘納豆のうふふふ」という俳句で、30歳の頃俳句を作らなければならなくなった時に、たまたま机の上に甘納豆が置いて有って、それで中年の自分を甘納豆に託して甘納豆12ヶ月を作り、その中の3月の句がヒットして発表したら、あちこちから甘納豆を送ってくれる様になり、有名店からも送られてきて、坪内さんは我が業界の星ですからと、どんどん送ってきてくれる様になりました。
甘納豆を食べ過ぎると肥満になるので身体に悪いと感じていて、これではいかんと思い甘納豆に似たものを食べたらいいだろうと、ふと思いついたのがアンパンでした。
その頃小豆が健康に良いという事がマスコミに出たので、アンパンを毎朝1個食べるようにして、これを言いふらしたら、いろんな人がアンパンをくれる様になりました。又、地方の講演に行くと私の事を調べて、必ずアンパンをくれるのですが残念ながら今日は無かったです。
今日は熟年大学の係の人が私の事を調べて「坪内としのり」と紹介してくれましたが、通常私は「ネンテン先生」と呼ばれています。あまりこの呼び名は好きではありません、子供の頃から髪の毛と「ネンテン」というのもいやでしたし、皆が「ネンテン」と呼ぶとニヤッとするんですね、頭の中に「腸捻転」が連想されていると思われます。
又今までで一番沢山貰ったアンパンは長野県に3日間講演した時の最後の日に17個貰ったのがありました。それで学生は勿論の事、「ネンテンさん」はアンパンが好きだということで、誰かれも貰えるようになり、そこからアンパンをきっかけにして話を始めるんです。今はしゃべる仕事をしていますが、本当は子供の頃から無口で、初対面の人と話すのが大の苦手で、胃が痛くなる事がありました。いまから思えば何かをちゃんと喋らなければいけない、伝えなければならないと考える真面目人間だったと反省をしています。
そういう少年時代が口べた話べたで有ったので、アンパンをきっかけに相手と話しを始めるという事がわかりました。以来僕は機会有るごとに朝はアンパンですと言いふらす様になり、すると、そういう人はあまり居ないから結構珍しくてラジオ番組で有名タレントともアンパン談義をしたり、そんな話をしていると結構お金を稼いでくれるんです。
僕は70歳で3月に退職しますので学生が記念に2キロのアンパンを作ってくれましたが、あまり美味しくなかったですがアンパンで話が拡がるんです。それで年を取っていくと、どうしても世間が狭くなり、他人との繋がりが持ちにくくなり、若い人が相手にしてくれなくなりますが、アンパンを介して話を繋がる事ができると思ったので、アンパンに匹敵するものを3つ持っています。

河馬
 その次は河馬なんです、60の還暦の時に全国の動物園の河馬を全部見て回り日本中の河馬に会った男というキャッチフレーズを作って本を書いたら、日本中にそんな事をする人もいないし、そんな馬鹿な事をもする人もいなかった。それで、沖縄から旭川までの30ヶ所で60数頭の河馬に会いに行き、ある動物園で河馬の前で60分過ごす経験をしましたが非常に苦痛でした。
それで付近をうろうろするもんですから、近くの売店の人がお孫さんとはぐれましたかと聞かれた事もあり、高齢者が動物園に来るのはお孫さんと一緒のケースが多く、又高齢者にとって面白い場所だと思います。何故なら安いし、65歳以上無料とか半額という所が多いし、ゆっくり一日過ごせます。60歳の時に全国の河馬を見てまわりました。そして河馬好きの妙な人はいないということで、河馬で何かをしたいと考えました。例えば動物園の河馬の行事があると「ネンテンさん」を呼んで来ようという事で河馬を見続けているとお金を稼いでくれます。
僕が河馬を好きになった訳は皆さんもご存じと思いますが、昭和20〜30年代にキャラメルの時代が有って、岡山に「カバヤキャラメル」という菓子メーカーが宣伝のためにカバの型をした自動車で全国をPRをしていました。それを中学時代にみたのが最初で河馬を追っかけていました。そして実物をみたくていると、カバヤで実物の河馬を飼育している事がわかり、金沢のヘルスセンターの動物園に飼われているのを訪ねて行きました。しかし時代の変わり目で大きな動物の人気がなくなり、ご存じの通り、コアラとかパンダの小さくて可愛い動物が人気を集める様になっていました。ある時東山動物園へ行った時に入場したら、お客の大半はパンダの方へ行き、僕だけが河馬の方に行くのを見て時代が変わったなと感じ河馬に同情?というか可哀そうと思い、よけい好きになり、河馬がすきだと言いふらしていると、知り合いが河馬に関する色々な物を送ってくれて展示会が出来る程のグッズの山となってしまいました。
河馬は相手をしてくれないし無愛想なんです。考えてみると世の中にはそういう物が一杯有って、こちらが関心を持っていても相手が見向いてもくれない事があり、人や物もそうだし、そういうもの、愛想の悪いもの、反応してくれないもの、本当は何処かで繋がらないと私達はまずいし、いけないのではないだろうかと思います。例えば家族だって相手にしてくれない場合があり、世の中には相手をしてくれない物があるんだという事を体験的に身につけるというか、なじむ為には僕にとって河馬は大切なんです。実は70歳になって再び全国の河馬を見て回ろうときめて、あちこちを歩いているんです。そして、これから何年かは河馬の前で過ごすのが僕にとって贅沢な時間になる訳です。又相手にはされませんが地方の文化センター(例えば大阪狭山市のサヤカホールの池)で河馬を飼うとかを話をします、ついでに言いますと大阪の天王寺動物園には沢山の河馬(草食動物)がいますので機会あれば是非会いに行ってみて下さい。


 3番目は果物の「柿」なんです。柿を好きだ好きだと言いふらす様になったのは俳句に関係しています。正岡子規が僕の研究対象だったんですが、子規の俳句に「柿くえば鐘がなるなり法隆寺」という有名な句がありますが、子規は大の柿好きでこの句を作って今年で100年に当たり法隆寺で俳句の大会が行われます。ある時NHKで柿を題材にした「柿と暮らし」という番組を作りたいとの話がありました。柿の生産者は沢山いますが、そういう柿について研究している人がいないので、ディレクタ―が子規を研究している人であれば多分柿が好きだというので僕の所にきましたが、柿の木について関心が無いと言うと一緒にやりませんか言う事であちこちの柿を見て歩きそして柿に興味をつのらせました。
例えば、江戸時代の河内ではお嫁に行く時は実家から柿の枝を嫁ぎ先に持って行き、それを嫁ぎ先にある枝に接ぎ木をし、そして大きく成長して実をつけます、その間にお嫁さんが子供を産み、やがて亡くなります。そうすると、持って来た柿の木の枝を切って火葬の薪とかお骨を拾う箸になったそうです。当時の女性は柿の木と共に一生を終える時代があったそうで、又結婚式の儀式に「柿の木問答」という儀式があって、結婚式の夜、新郎と新婦が話し合いをして新婦の家に柿の木があるかの確認をしてから夫婦の契りを交わしたそうです。又いろいろ調べていく内に柿が面白くなってきました。
皆さんの少年、少女時代には大抵の家に柿の木が有りましたが、最近は家の建て替え等で柿の木が切られて、殆ど見られなくなりました。芭蕉の句に故郷で作った「里ふりて柿の木持たぬ家もなし」というのがあり、古い村にはどの家にも柿の木があったという俳句で、そういう柿の時代がありました。ご存じの通り今はやや柿は冷遇されています。果物の中では柿は美味しいですが、甘いので少し敬遠されていて、家の柿も取らずに放っている家が多いです。アルファべッドで「KAKI」は世界に通用していて、イタリアでは高級な果物なんだそうです。河馬と同じで冷遇されるものはなんとなく気になり、そこで全国の柿の木を見て回わりました。昔は1000種類位の柿があり、我が町、我が村特産の柿があり又、接ぎ木で違った種類の柿が出たりしましたが、今は商品価値があるブランド品が主に出回っています、

3種の神器
 以前に柿を訪ねて「柿日和」という本を書きましたが、これからも元気な内は全国の柿を見て回ろう思っています。つまり僕にとっては「アンパン」「河馬」「柿」は3種の神器と言えます。それがあれば、僕自身ワクワクして外へ向かって自分を開く事が出来るそういうものなんです。まず、安くないといけない、「アンパン」は手に入ります、「河馬」は安くはない手に入りに難い、「柿」は安い、そういう物を好きだと言うと、皆に馬鹿にされる、馬鹿にされると言うのが大事なんです。逆に尊敬されると相手に繋がらないし、馬鹿にされてニヤッとされると相手と心が繋がる瞬間なんです、だから、とてもくだらないと廻りの人から見られる事に、いであげると言うのが、年を取ってからの楽しみというか、いい事かなと思っています。実は、僕がやっている俳句も同じようなものなんです。俳句は日本の文学の中ではあまり大したものとは考えられていません。だから、俳句もアンパンとか柿の様に使い道によっては人と人を繋げて心を開いてくれるものと思います。

俳句
 それでは僕の作った「河馬」の俳句を詠んでいきます。
 口あけて全国の河馬桜咲く
  3月になって河馬が大きな口をあけると桜が咲きます
 全国の河馬がごろりと桜散る
 桜散るあなたも河馬になりなさい
 たんぽぽのぽぽのあたりが火事ですよ

   僕の人気の俳句で高校の教科書に載っています。ぽぽのあたりはどの辺かと考えますよね、男の人はいやらしく連想しそうですが、ぽぽはワタゲが飛ばされそうなもの。
最近の俳句ですが
 多分だが磯巾着は義理堅い
   磯巾着は春の季語
 枇杷食べて君とつるりんしたいなあ
   つるりんは勝手に考えて下さい
 青のりは磯の香70歳は磯
以上が僕の俳句ですが 、俳句というのはあまり綺麗で風流なものでなくて俳句の特色はそういう風流や綺麗なものに関するものです。私達は芭蕉の句は綺麗なものと感じていますが、「奥の細道」にある「のみ虱馬がばりする枕元」という汚い句が本来の芭蕉の句で、体験が出来ない事を面白がっています。又、別の句で「手鼻かむ音さえ梅のさかりかな」という句があり、手鼻は我々の世代のしぐさで、今は食生活が変わり青鼻を出す子もいなくなりましたが、こういう俳句が本来なんです。もともと俳句は伝統的に年寄りが作ってきたんです、若い人は作らない。何故かと言うと「五七五」は言葉が少ないから、言いたい事が言えない、言いたい事が無くなったり、言いたい事があまり言いたくない年代になると、五七五があってくる。
 それは女性だと子育てが終わったころ、男性だと退職した頃、その頃になると自己主張がしたくなくなるし、少しだけ主張すれば良いと思う人、そうでない人もいますが、そういう時期になんとなく五七五を作りたい気分になるんです。それが日本では五七五という短い文芸が続いている理由だと思います。僕の考えでは、五七五の俳句は「モーロク」しかけた頃にうまくなる可能性があるんです。しかし、自分はまだ「モーロク」していないと大方の人は思ってるはずですが、人間はある意味「モーロク」するのは自然な事だから「モーロク」すると人は言う言葉が変わってきて、以外な言葉と言葉が結びつきます。そういう時にいい俳句が出来る、そういう可能性が出てくる「まだらぼけ」位になった時、そういう時が俳句年齢なんです。だから皆さんもこれからも素適な俳句が作れる可能性を持っておられます。否、私は「モーロク」とか「まだらぼけ」にはならないと思っている人も、そこはあまり抵抗せずに「まだらぼけ」になった方がいいます。
今日のテーマの「モーロクのススメ」は長年、産経新聞にエッセイとして書いていたのを見て、呼んで頂いたと思います。自分が年を取って行くという事を、自分自身の中で折り合いをつけたいと考えた時に、私はたまたま俳句をやっていましたのでモーロクした時に素敵な俳句を作りたいと考えました。世間の多くの人達は「ボケ」防止の為に俳句を作りにやってきますが、僕は「ボケ」る為にやって下さいと勧めていますが、納得してもらえないです。
随分昔に、ある時から「若い」「頑張る」「忙しい」という言葉を使わないという掟を作りまして、その言葉に変わる別の言葉で人と接する訳ですが、それが頭を活性化させるという事で生き生きさせます。すなはち、「若い」「頑張る」「忙しい」言葉は褒め言葉にしないという事ですが、だけど「若い」と言われるとうれしいですよね。しかし60〜70歳になれば、違う価値で自分自身を認めないと悔しいというか、やや貧しいのではないかという風に思うように段々なっていく。それで「モーロク」というのが嫌われ勝ちですが、むしろ「モーロク」する事を楽しむ方が良いと思います。

「天野 忠」の詩
 正岡子規は僕の研究対象の俳人ですが、35歳で早死にしましたが、晩年はカリエスという病で寝たきりで過ごしましたが、素敵な言葉を言っています。それは、健康な人は健康な事をしている、だけど寝たきりの人は何を楽しみに過ごすのかという事で「病気を楽しむ」と宣言をして、いろんな事をするのは病気を楽しむと彼は考えた。だから、「病気」とか「モーロク」する事にもあまり構えないで、むしろそうなる事を楽しむのが前向きなのかも知れない。それで、アンパンをかじり、河馬の前でのんびり贅沢な時間を増やしていけたらいいなあと思うのが僕の夢なんです。今日は1人紹介したい詩人「天野 忠」の詩を詠んでみたいと思います。

 「疑問」
 わたしは老人が好きだ。  老人は早く死ぬから。
 わたしは老人が嫌いだ。  老人は物判りがおそいから。
 小銭を数えながら      老人たちは陽なたぼっこをしている。
 老人たちの傍に親しげに寄り添うのは
 いつもあの無口な「死」ばかり・・・。

 徳富蘆花の「不如帰」のヒロインが何故人間は死ぬのでしょう と悲しげに恋人にたずねた。 ほんとだ、大時代の新派の観客でなくても それはそれでわかる。しかしいまは小さな声で、しわがれた声で(微笑と含羞を忘れず)われわれ老人だって それを呟く権利がある。何故人間は死なねばならぬのか と。
 わたしはまだ  どこからもその答えをもらっていない。
 もらう術をしらない。 だからこうして
 老人という人間として  ぼんやり、疑い深く
 まだ、 生きている。


 「伴侶」
 いい気分で  いつもより一寸長湯をしたいたら ばあさんが覗きに来た。
 ―――何んや?
 ―――いいえ、何んにも
 まさかわしの裸を見に来たわけでもあるまい―。
 フッと思い出した。  二三日前の新聞に1人暮らしの老人が風呂場で死んでい るのが   五日後に発見されたという記事。
 ふん  あれか。
 こういう夫婦はいいんじゃないですか。


 「夫婦」
 口喧嘩して負けて  無造作に箸を投げ出したら 尖っている方が
 まっ直ぐ  妻の方に向いた。 万事旧弊な妻が眉をしかめて
 ものしずかにたしなめる。  ―――人の胸に釘をさすような形―――
 夫はふくれて  テレビを見ている。 知らんぷりして
 手だけ動かせて  方向をかえる。
 この夫はいいですね。年取った夫婦というのは、いろんな物を詠んでいますと男の方が情けない方がいいんだと気がつきます。女性の方は当然ながら元気になり平均寿命も長くなり、旦那が死んだら、益々生き生きします、男の方はそうはいかなく、うち解けなくて、くさされて打たれ弱い面があり、打たれ強くなるには、男が老人になる一つの条件として、廻りの人達に馬鹿にされる事に馴れていく事、すなはち「天野 忠」さんの様な夫になる事と思います。しゃべる事がなくなりましたので終わらせてもらいます。




平成27年2月 講演の舞台活花



活花は季節に合わせて舞台を飾っています。


平成24年3月までの「講演舞台活花写真画廊」のブログはこちらからご覧ください。
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