第2回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA大ホール
平成26年6月19日
「新たなミッション」
〜〜海上自衛官から大阪府立高校長へ〜
大阪府立狭山高等学校長
竹本 三保 氏
講演要旨 女性として草分期に防衛省自衛隊に入り、33年間海上自衛官として勤務した後大阪府が公募する民間人校長にチャレンジしました。新たなチャレンジには、多大なエネルギーが必要ですが、創造の喜びと青春があります。 |
||||
はじめに 〜日本の宿命〜 本題とは違いますがプラスアルファーの話として、ここから入ろうとおもいます。皆さんは日本列島を普段は太平洋側から見ていると思いますが、ロシア、中国、韓国、北朝鮮の大陸側の人達からみれば何と鬱陶しい目の上のタンコブだと思っているに違いない。すなわち、北方領土から与那国島まで約3300キロあるのです。本島自体はそれ程でもないですが、太平洋に出るにはここを出で行かなければならない。ロシアは不凍港が必要、北朝鮮はミサイル、韓国は竹島、中国とは尖閣と色々とやっていますが、結局列島がこういう構造に成っているから仕方がないかなと、また日本はこれが宿命だなんだと認識しながらこれからの種々の問題を考えていかなければならないと思っています。 1.「国防」と「教育」 私は中学生の時に「国防」というのが非常に大事だと真剣に、又同時に「教育」も大事だと、この対立する概念の違う「二本柱」が国の柱と10代の時から思っていました。 2.海上自衛官になったわけ それに影響を与えたのが2人の人物で、1人は当時の防衛庁長官の中曽根康弘さんで、私が自衛官時代は首相で船にお迎えしました。彼は日本は周りが全部海だから、海上防衛が大事であると当時から今でも終始一貫考えが変わらない人であり感銘を受けて海上自衛官を志した理由です。もう1人は亡父で、父は15歳で予科連に猪突猛進で入り通信兵をしていました。終戦後は時代は変わったと思って電通に入りコマーシャル作りをやっていました。私に影響を及ぼしたのは以上の2人でした。当時高校を卒業して女子が就職できたのが、一般陸上自衛官とナースのみで日本は海に囲まれているのでやはり私は海上自衛官を目指そうと考えました。大学時代は悩みました。その中で教員の免許も取りましたし、学校からも誘われましたが初志貫徹で女性の海上自衛官の募集あるまで待とうと思いました。海上自衛官は33年間勤務しました。 職域的にはシステム通信でした。本庁、部隊勤務もあり、又地方勤務もあって全国的に22回転勤し、16回引越しをし、部隊長も5回やり、いろんな経験をしました。次にいろいろ経験した一端を紹介したいとおもいます。 3.“女は乗せない戦艦(いくさぶね)との闘い 昔、海軍兵学校があった江田島(今も海上自衛隊幹部候補生の学校がある)に実習、次に鹿屋での1年間の航空実習をやりました。その時の同期は男子150名、女子は3名しかいなかった。で男子は女子にたいして「何しにきたんや」と又、卒業式で校長が「将来良いお嫁さんになれよ」とも云われ、全然期待されてないのかとズッコケた事がありました。1年間の苦労が何だったんだと悔やみました。 そういう中で最初に赴任したのが教育隊で、若い隊員達を(主に女子隊)鍛える任務でした。男子は候補生学校を卒業すると半年間遠洋航海練習に出ていきますが、女子も乗れると思っていましたが17年間位船に乗れない時代が続きました。 教育の仕事が終わって、専門の仕事をするために(専門通信課程)市ヶ谷(三島由紀夫が割腹自殺した)に研修行きました、当時の学生はいろんな階級、年齢、職域の人がいてとても素敵な集団でした。女性として初めての研修課程に選ばれました。 女子が何で潜水艦に乗っているかですが、当時自衛官司令部(昔の連合艦隊)で働いていました(1週間後に転勤)。本当は昭和63年7月23日に乗る予定でしたが、当直にあたっていたので前日に乗れと言われ、皆さんで記憶に有る方がいらっしゃると思いますが23日に「なだしお」の事故が起こり、私は当直でボイスで聞いた1人で、もし23日に私が乗っていたら大問題になっていた事がありました。米軍関係で私は英語が出来ないのに初めてハワイへミッションにいきました。当地に船泊フリートという太平洋艦隊司令部があり西海岸からペルシャ湾まで見ています。そこにリムパック(環太平洋の国々の共同訓練)研修のため、女性は艦に乗れないのでP−3C(対潜哨戒機)で行き、滞在期間が少し長かったため多くの成果を上げる事が出来ました。 ハワイに行く前は久しぶりに子供と一緒に生活出来ると思っていた矢先に、上司から命令が出ましたのですぐに赴任(常日頃は家庭を大事にしろよと言いながら)しなければならない世界におりました。指揮幕僚課程を出た後配属されたのが航空集団司令部で任は重かったですが、通信電子幕僚として、作戦幕僚だの運用幕僚という作戦を立てる人達と行動することにより通信の事、航空部隊の運用がわかる様になりました。 また、硫黄島には隊員が駐在していますが、3ヶ月に1回しか本土に帰れないので平成4年に北島三郎さんが慰問に来た事がありましたし、硫黄島から南鳥島への飛行訓練でNORETURN−POINTがありそこを越えるが否かの判断を(命がかかっていた)指揮官でなく機内ではトップだったので指示を求められた事もありましたし、嵐の中での2隻の船にフェリーで降りる事があり、やっと降りて仕事をしたが遅くなったので当然泊めてくれるとおもいましたが女性は船に泊められないという事で、そこまでして女は乗せなかったのです。今は女性艦長もパイロットもおり、艦にも乗っている時代に変わりました。 4.部隊指揮官としての覚悟 英語の苦手な私ですが、海上自衛隊は米軍との関係もあってという訳ではないのですが、ちょっと特異な経験をしました、それはNSA(国家安全保障局)という諜報機関で電波関係の暗号学校に短期留学しました。そして彼等の凄い事は局の廻りに他の施設の建設の噂が出ると、その建設用地の取得に乗り出し、近くに誰も寄せ付けない危機管理が徹底されている事に驚きました。日本では市ヶ谷の防衛省は周りには高層マンションがあり、省内は丸見えで危機管理の違いが出ています。 私は米国防省(ペンタゴン)に9.11事件の半年後に2回行きました。ペンタゴンは5角形5層ですが、3層までハイジャックされた航空機が突っ込んでいました。又、板門店にも行き、北朝鮮の兵士に声をかけましたが、二コリともせず不動でした。流石に鍛えられているなと感じました。 海上自衛隊には観艦式というのがあり、私もそれに参加した事があります。話題を変えまして、私は訓練も有りましたが机の上の仕事も多かったのですが、青森地方協力本部長として自治体との調整機能を持っている窓口の自衛隊の長として赴任しました。当時青森県は人口138万人で約1割が自衛官だったので県としては非常に多かったと思いました。 時々講話を依頼される事でたまたま警察から女性のためにと話(男性も参加)をして中で「equalright」「equalrisk」という言葉を言ったら男性から受けて感じる人もおりました。 地方協力本部の仕事の1つは自衛官の広報です、そこで私の発想で「のど自慢」に出場を思いつき申込みましたが,惜しくも予選通過はなりませんでした。又、隊員で「ねぶた師」がおり、「ねぶた」にも参加しました、という事で青森では色々やっていましたが、本業は海上自衛官ですが陸上自衛官を前にして当時ハイチ、ソマリアに派遣をしていたので、もし災害が起きたら貴方達の出番ですよと常に言って訓示していました。その後東日本大震災が起こり出番となりました。 東日本大震災が起こり陸上自衛隊の八戸駐屯地で即応予備自衛官を集めて宮城県に送りこむのに1回目で60名が参加してくれたのが有難かったし、予備自衛官を集めるのが私の仕事でした。予備自衛官は青紙(災害等招集命令書)で招集し30日間の訓練をします。そして当初3月25日に東京に戻る予定が震災に関する仕事が残っていたので4月に移動しました。 5.新子育て論 引っ越しを16回、転勤が22回もあったので、家族とどう過ごしたら良いのか悩みました。結婚して即別居でしたが、それはすぐに解消できましたが、子供が生まれて、さてどうしようと、当時は24時間保育などは無い時代でしたので、夫の実家(奈良)で預かろうと言ってくれましたので3年半お願いしました。 それから、1年間部下を持たない、当直に就かない時があったので、東京都のプログラムでAFS留学生のオーストラリア高校生をファミリーにし、4人での生活がスタートしました。私の若い頃は3歳児神話というのがあり、3歳までは母親のもとで育てないと、その子に悪い影響があるという考え方があって、しかし、人にはそれぞれの事情で親がいないケースも多々あるはずで、私は絶対子供が安心出来る、そして守ってくれる人の所に預けるのが大切な要素と、手前みそながら思っています。 6.なぜ「民間人校長」をめざしたか? 教育に対する熱い思い、これは今でも変わっていませんし国防大事で定年は考えてなかったですが、5年位前定年になって辞めたら第2の人生は自分が大事と思ってた事、すなわち日本の将来を担う若者を育て、夢を具体的な目標を実現にサポートしていきたい事が1番でした。狭山に来て日本の将来を担う事はあきらめましたが、せめて大阪の将来を担ってほしいと思っています。 7.二度にわたる異文化との出会い 自衛隊は一般の会社と同じ縦社会(ピラミット型)で、学校というのは校長がいて教頭がいて先生方は横一列のナベブタ組織です(自治会組織が類似)。教頭には先生方に軸足をむけてと、校長は孤独で(自衛隊時代で慣れていた)決断する人が皆と一緒に居ると決断出来ません。そういう意味で異文化です。例えば伝達の方法は縦社会では全員になかなか伝わらないが、学校は職員会議で(欠席は別)出席した先生方全員に伝わります。狭山高校にきて毎朝職員室で一同に会してしゃべられて情報が共有出来るというのが非常に嬉しかったです。 大學を出てから自衛官になりましたが、小中高は女子校で、大學も女子大で男性社会に入りましたが、あまり気にしませんでした。 でも実際は、女子校から男性社会 ピラミット型社会 伝統望守 唯我独尊(海上自衛隊を揶揄した言葉)、ちなみに陸上自衛隊は用意周到 動脈硬化、航空自衛隊は勇猛果敢支離滅裂と言われ、それぞれの隊の特徴が表されています。 自衛隊では、事に臨んでは危険を顧みず 一糸乱れず行動、瞬時の判断が問われるのが特徴だと思いました。で、学校長に赴任して、初めての男女平等社会(面談の際、女性が居られた)に来たこと ナベブタ型組織で、又大阪は特に強い人権教育との出会いでした。キーワードは「生徒の為になりますか」というのを1つの基準にしています。 ある先生から言われ言葉で「生徒も色々おりますが教員は雑木林であれ」と聞いて一糸乱れずではまずいなと思いました。教育はじっくりと言う風に自衛隊と学校とは違うんですが1つだけ共通点があります。それは「塀の中」という事です。 8.人づくりの現場に過去の経験を生かす 私は教育現場は初めてなので「0」から出発するつもりでしたが、自衛隊での色々な経験も生かせるのかなと、人づくりでの教育隊とか、海上防衛の中枢とか、指揮官として目標設定とかを経験し、常にどうすればやる気を起こさせられるか、又悩みとかの傾聴をすることも役に立つのかなとか。他に学童保育、教育実習ボランティア活動にも今までの経験を生かしたいと思いました。ある日、弟から「姉ちゃんは国の事ばかり考えているけど、京都の事考えた事あるんか」と言われ、それから地域の事を考える様に。 9.“狭山高校”の取り組み 2年前ここに来る時何と言われたか言いますと、匍匐前進で来られると思いましたと、ある先生は自衛官が来るのはこの世の終わりかなと1年後に言われ、今はそう思っていないから言えたと思っていますし戦々恐々だった様です。狭山高校はどんな所と、以前たまたま3代前迄の校長にお会いしてそれぞれが国際交流地域連携を主にやっていましたという事で、これらを踏襲して新たな取り組みとして“グローカル”と言う言葉を作って活動を始めました。もう1つは本物を見せるという事で南極の氷、オリンピックの金メダリストを呼びました。これも自衛官で仕事をしていた結果かなと思っています。 私は公立高校の経験がないので3年間で生徒達がすごく成長してゆく事に日々感動しています。狭山高校が目指すものはキャッチフレーズとして 1.狭山グローカル 2.狭山スタンダード―決められたルールはキッチリ守る 3.狭山プロフェッショナル―新しく文理系を作りました。これは将来資格を取って仕事をしたい生徒の為のコース 4.狭山アクテイブ―今年から新たにタブレット端末を利用しての授業を来年から始めようと思っています。 狭山に来た時から3年後にはチーム狭山を作ろうと思っていましたが、賢い生徒が多い学校は先生方のまとまりが悪いと聞いていましたので先生方には頑張って下さいと言っています。又、年1回体育大会で校旗を上げる時挙手し敬礼をしますし、生徒が報告に来た時は答礼をしていますし、入場行進は徒歩でなくボイスランニング(1,2,1,2と声を出す)など、いろんな事をしています。 文化祭のopeningの時校長は何かをやらされるのです。1年目は“海猿”昨年は“韓国のカンナムスタイル”を今年は何をやらされるか楽しみにしています。 10.人づくりのキーワード この世界に入るまで、人に寄り添う、向い合うという言葉にあまり縁がなかったですが良い響きで先生、生徒に寄り添っているなと感じています。それから、生徒の目線に立って褒めるという事は非常に大事ですね。見守る、包み込む、叱る、こういう言葉に包まれて私は以前より穏やかな部分の人間に成ってきたかなと、しかし危機管理に関しては非常にうるさいです。 終わりに〜皆様へのメッセージ〜 考えてきた事をお話しさせて頂きます。 まず健康第一です、それから年を取って活動するのに非常にエネルギーがいります。だからそんなに無理せず好きな事、出来そうな事に挑戦するのが良いと思います。又、人生後半いくつもの山が有る方が良いという言葉がありますが今はどんどん山を乗り換えて行き、又いくつもの山を作って活動(ボランティア市民活動等)されたら良いと思います。それとパートナー、仲間を大切にする事が大事かなと、不思議な事に自衛隊と教育関係での人の接点が無いんです、他の世界でも有ると思うのですが。そして最後に何かに役に立っていたいし気を抜かずにこれから頑張って生きていけたらと思っています。皆さんもお考えがあると思いますが幸せな生き方をして追求して頂けたらと思います。 本日はご静聴有難うございました。 |
平成26年6月 講演の舞台活花
活花は季節に合わせて舞台を飾っています。
平成24年3月までの「講演舞台活花写真画廊」のブログはこちらからご覧ください。
講演舞台写真画廊展へ