第2回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA大ホール
平成24年6月21日
金剛山からヒマラヤへ




日本ネパール協会 大阪山の会
大西 保 氏


  
講師のご好意で受講者に山岳写真ハガキが贈呈されました。


 
会場で販売された登山隊記録「チャンタンの蒼い空」にサインをしている講師

講演要旨

子供の頃、兄弟たちと登った金剛山、高校生のとき社会人山岳会へ入会、主として国内の北アルプス冬季岩壁登攀、積雪期登山を行っていました。1966年の北米ロッキーズが最初の海外登山でした。以来毎年ネパール、チベット・ヒマラヤへ出かけています。
 

文中の写真は、当日の会場に展示されていた登山装備です。

はじめに
 今日は、今ご紹介にあずかりました。西山台2丁目に住んでおります大西保と申します。金剛山からヒマラヤのことについてお話しようということは一寸難しいけれど、とりあえず金剛山の話しをしてから、そのあとにヒマラヤの話しをさせて頂きます。

金剛山とハイキングを考える
 ハイキング・ウオーキングのおもしろさはやってみないとわからないと思っています。時間をかけてゆっくり歩くというのが大事で、足の先、手の先まで血液が行くように、仲間と楽しく話しながらゆっくり歩くことも大事だと思います。私は普段「あまの街道」を歩いています。陶器山トンネルから歩いて、穴地蔵、ゴルフ場横・大野・近大病院を回って約10Kmを2時間程度かけて歩いています。普段はこのぐらいが日課ですが、実は明後日から友人三人が来て、今年の8月から4人でネパールへ登山に出かける計画相談をします。来年の2月中旬に帰国予定で、東から西へ歩き、170日位の予定です。昨年は極西インド国境から真ん中、カトマンズの西、ポカラまで歩きました。皆さんにお配りしているレジュメの中に大ヒマラヤの7000m級の山名を小さい文字で書いておりますので帰って見ておいて下さい。

中高年の遭難を考える
 今年5月ゴールデンウィーク.に後立山・白馬山麓の遭難事故では6人の方が亡くなりました。穂高でも大阪の女性が亡くなりました。北海道でも数年前に大雪山で大量遭難がおきております。金剛山でもそういうことが無きにしも非ずと、いつも心配しております。金剛山であれ、ヒマラヤであれ、一寸したテクニックがいるが基本は技術ではなく体力です。ロビーに飾ってある装備は、ヒマラヤ登山の個人装備で重さは約20KGあります。酸素ボンベを使う登山では2本背負うと8KG、体力は一生懸命やっても、急には付きません。毎日歩いて、身体を使って付けることが大事です。遭難は家族にも社会にも迷惑をかけます。姉の友達が10年程前金剛山で行方不明になり、2週間仲間と探し、ヘリコプターでも探しましたが亡くなりました。このことで、登山届の重要性を認識しました。家族の方、クラブ代表の方に、同行者などに、どのルートからどこへ、という計画表で知らせておくことが大切です。
ヒマラヤ登山を考える
 これからはネパールヒマラヤのお話をしたいと思います。先々週、竹内洋岳(たけうちひろたか)君が14座登ったというニュースが流れました。日本人初めてのヒマラヤ8000メートル峰14座に登頂です。彼はほとんど外国人と登ったり、大きなグループでなく個人の力で登っていました。今、石井スポーツ所属のプロガイドとして活躍しております。日本人で8000メートル・14座を最初に登ろうとした人、山田昇はマッキンリーで亡くなりました。名塚秀二、田辺治も9座目で残念ながら亡くなりました。韓国では14座登った人は4人もいます。世界中には数十名しかいません。私も数座の8000m峰へ登山隊を組んで出かけたことがあります。残念なことですが1985/86年の厳冬季のネパールのクーンブという地域のタウチェ峰で仲間が墜死したことがありました。6500m峰だったのですが、事故は突然やってきます。ご両親や仲間、職場の方々の心痛を考えるとリーダーとしての責任は重大なことで、事故は起こしてはならないということを以後、痛感しております。

ヒマラヤ・クライミングのトレーニング
 日本の北アルプスの厳冬季岩壁を登り、穂高・劍岳など、冬の富士山で経験してからヒマラヤへ同行してもらいます。なぜかというと、寒さとか、高さとか行動中に各メンバーがバラバラになったときでも、一人でも行動できる。一人でもベースキャンプに下れるという技術や体力と知識がなければ同行させないという原則が根底にあります。それにいかに自己管理ができるかが大切な技術のひとつです。

ヒマラヤトレッキングを考える
 金剛山やハイキングとは異なり高所を歩くということになります。尾根を歩き、谷へ降りて、仲間と一緒に歩いて、ガイド、スタッフ、キッチンスタッフに食事を作ってもらって、ヒマラヤの峰々と文化遺産やヒマラヤに住む人びとの暮らしを見て歩くということになります。ネパ―ルの言葉に「ビスタリ」(ゆっくり)という言葉があります。ウォーキング・ハイキングのときも、ゆっくり、マイペースで歩くことです。リーダーの人は一番遅い人に合わせて、一緒に歩き、グループをまとめるというのが大事なリーダーシップと役目になります。適度なスピードで、休養や水分、栄養補給など指導してせねばなりません。

ロッククライミングの基礎
 岩登りの基礎を練習できるインドア・クライミングの施設は大阪狭山市にはありませんが、府下にはたくさんあります。「両手で岩を持つときは片足でささえ」、「両足で岩をささえるときは片手で岩を持つ」という「三点支持」という基本があります。これが基本で、北アルプスや金剛山など近郊の山にもちょっとした岩場があります。そのときは慌てず、三点の動作で安全に登り下りをしてほしいと思います。必ず指導者のもと、トライをしてみてください。愉しさが解るでしょう。

ヒマラヤ登山をする
 困難なルート登攀をするには。厳冬期のトレーニングが必要です。氷壁や雪の岩稜を登る技術を磨く。その他に写真のようにアメリカのヨセミテ渓谷で1200メートルの壁を登っておりますが、これはフリークライミングといい、こういったことも、トレーニングの一貫として、基礎体力や技術向上をして、ヒマラヤに挑むようにしています。技術的トレーニングは大切なことです。

ネパールヒマラヤ
 大ヒマラヤは東のミャンマーより東チベット、ブータン、ネパール、隣りのインドのガルワル・パンジャブ・ヒマラヤ、パキスタンのカラコルム山脈など、新疆ウイグル、カザフスタンまで大きくグレート・ヒマラヤを形成しております。今日はネパールヒマラヤについてお話し致します。ネパールへ行くには関空より韓国のインチョン経由カトマンズへ、バンコック、中国、シンガポール経由など幾つかの方法があります。エアーチケットをインターネットで購入することもでき、旅行会社で手配も簡単です。エコノミークラスで往復8万円程度から十数万円まで。今回は6ヶ月の予定で、6ヶ月オープンの大韓航空のチケットで往復約12万円でした。ネパールでのロッジとかホテルの料金は一泊200円から300円の安宿、旅行者は100〜150ドル位の立派なホテルに泊まっております。食事代はカトマンズでは、一日2回の食事が500円ぐらいで、日本食もあります。もちろん一流レストランもありますが、私たちは安レストランで済ませています。

ネパール登山の事例・食事について
・GPSで自分の位置がどこかを地図上で確認することは大事なこと。
・8000メートルの山を見るトレッキングコースが各地にあります。
・高所順応をしながらゆっくり行動し、安全に、健康な人なら誰にでも楽しめるコースもたくさんあります。
・ネパールのトレッキングには峠には地元の人たちが安全祈祷のための護符として写真のような風の馬(ルンタ)があります。
・クーンブのナムチェバザールでは、ロッジの屋根はカラフルにペイントされ、ベーカリー(菓子パンもある。スターバックスのようなコーヒーショップも進出)、レストラン、ビリヤード、インターネット・カフェもあってトレッカーを愉しませます。
・ネパールの定番の食事はタルカリ・ダル・バートというものでインデカ米が主で、タルカリとは野菜を煮たもの、炒めもの。ダルは豆スープ。アチャールという漬け物。肉料理はククラコ・マス(鶏の肉料理)、カシ(食用羊)、バフ(水牛)など。また日本と同じ様な乾麺うどん、インスタント・ラーメンもあります。米やジャガイモが主食で、東ネパールや西北ネパールでは赤い米もあり、川魚もフライカレーなども食せます。
・パンケーキ チベッタン・ブレッド・チャパティといった朝食が主です。
・チベット国境の山村ではバター・植物油・小麦粉・米は中国製のもの、菓子類・飲料水・ビールやウイスキーなども安価に手に入ります。
・チャンタン(チベット)やネパールには仏教とヒンドゥー教などの寺院が多くあり、チベットへの道へも行けるので、ヤルツァンポ(ブラフマプトラ)の源流チマユンドン、聖山カイラースや周回巡礼、聖なる湖、マーナサロワールなど、またラサへも道路網も整備されて観光することもできるようになりました。

川口慧海(かわぐちえかい)師足跡を探るトルボの旅
 川口慧海は日本人として初めてラサに入った人で、堺市旅籠町に生まれ、南海本線七道の駅前に銅像があります。昨年、川口慧海が学んだ寺子屋「清光堂」が整備され、「清学院」としてオープンした。黄檗宗の揉め事に巻き込まれて僧籍を返上して1893年(28歳)チベット行きを決意し、97年に決行しました。2度ネパールを訪ね、50歳までインド・ネパールで梵語やチベット・ネパール語の一切蔵経の研究をして、晩年は東京で研究や辞典や大学講演、布教活動などで過ごし、往年80歳で亡くなりました。2004年11月に彼の日記が姪の宮田恵美さんの家から発見されました。彼の日記は映像のように竹ペンで書かれており、地名や時間、距離なども正確に、チベット語なども丁寧に書かれております。1900年3月10日、ムスタンのツァーランからトルボ地方へ、峠を越え、7月4日チベットに入ったこと、ラサへ向かったことが書かれております。

イエティーを探しに2008年秋捜索
 バンマンチェ(森の人)をダウラギリの近くで3ヶ月にわたり調査しました。多くの撮影機材など提供を受けるも、見つけることが出来ませんでした。昨春、サイパルという山の登山隊で出かけたときにも谷中で、2Kmも連なる画像のような足跡を見つけ撮影しました。ヒマラヤを数多く訪ねていると面白い出会いにも恵まれました。
以上チベットを含め、ネパールヒマラヤの楽しさについて、少しお話し参りましたが、時間もきましたのでここで置きます。有り難うございました。




平成24年6月 講演の舞台活花



活花は季節に合わせて舞台を飾っています。


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