第10回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA大ホール
平成24年3月15日
洗面と洗浄について
大本山 永平寺 監院
大田 大穣 氏
講演要旨 概要 毎朝顔を洗い、排泄を後始末する。 当たり前のことの様でありながら、いつ、どのように私たちの日常生活に持ち込まれた作法なのか、身と心のかかわりの不思議さに気付きたい。 不染汚(ふぜんな)とは浄穢(じょうえ)にとらわれない事だ。 |
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1)始めに みなさまこんにちは。素晴らしい春をここに迎えている感じです。私は約30年ばかり兵庫県但馬(豊岡市)に居りました。探検家の植村直己が出た町で、いまだに冒険賞を出しており、皆がボランティアを心掛けている町です。こちらも熟年いきいき事業という事で活動しておられるようですが、熟年と言う言葉は良い言葉ですね。皆さんで事業を自主的にボランタリーに運営しておられます。私たちの生活というのは、自分のほうから進んで志を発して仕事をやってゆく事が大切です。ここにきれいな花が生けてあります。花は私共にとって心を和らげてくれるものです。 2)朝、顔を洗って目覚める 今日は「洗面と洗浄」という事で題目が出ています。洗面ということは、日本ではあまりやっていなかったことです。親元を離れ、大学に行き、遊び呆けて何年たっても卒業出来ず、そのあげくに除籍になって、私の寺に修行に来る若者がいます。親のすねかじりをしたあげく、遊びほうけて除籍になり、無駄な時間をすごしています。特に遊び(ゲームなど)で夜更かしをして、朝起きられないのがよくないことです。朝起きたときには顔を洗う、それには小さめのコップの水で直接目にあてて洗う、それからその水を鼻穴に入れて口のほうに廻す、その時顔は正面を向くことです。頭を下げて水を入れてはいけません(ツーンとする)、それからうがいをする。以上のことで顔全体を洗わなくてもよいのです。 道元禅師が福井県永平寺(曹洞宗の本山)を御開山されました。道元は宗派にとらわれずに(何宗と言う事をいうのではない)、ただ仏教(ほとけ様)で良いと言っています。道元は毎朝、顔を洗い、トイレに行く、それがどれ程大切な事かということを言った方です。顔をうまく洗えた時には、世界中が目を覚まします。世の中がさわやかな顔色でもってこちらを見てくれる、と教えて下さったお方でございます。朝、顔を洗って目覚める、という事が数年間の学業を続けて行くうえで一番基本になります。朝それを出損なうと、一日中がだめになり、結局だらだらとなり、卒業も出来ないというような事に成りかねません。そうした事を一日の初めにすることが大切だよ、と道元がおっしゃって下さったわけです。道元は西暦1200年に生まれ、中国に渡って勉強し、色んな事を中国で教わって来ました。例えば、ある修行寺の年取った和尚に、「中国の本物の仏教徒の暮らし方や、何が大事なのか、教え、聞かせて頂きたい」とたずねると、「自分は、典座(台所)のまとめ役をしている。この椎茸を持って帰って、大勢の修行僧のために食事の準備をしなければならない」と言いました。そこで道元は、 「そんなことは他の若い方に頼まれたらよいではないですか」と返すと。和尚は「そうではない。そういう事を自分で手掛けるという事が仏道の一番大事な所だ。ただ御経を読んで、それを解釈して、それを人に講釈するという様な事だけが仏教、仏道では無い」、と教えて貰い、それまで学問の家で育たれた道元は、こん棒で頭を殴られたようなお心持になられ、実際の生活の中で、食事の準備をする、掃除をする、顔を洗いトイレに行く、みんなこれは仏道修行の大事な事なのだと気付かれたのです。 道元は中国で生活しているとき、中国の人は息が臭いのでどうしたらよいのかと考えました(中国の人は歯磨きの習慣がない)。お釈迦様の教えの中に毎朝歯を磨くというやり方を教えている様な所がありました。道元は、柳の枝(約20pの長さ)の端を噛んでササラにして、それを歯ブラシのように使いました。その後で、それをピッと裂くと、鋭い面が出来ます。それでもって舌をしっかりとこそぐ事によって口臭を防ぐ事をなさいました。 3)清潔なつぎはぎだらけの着物を着なさい 私達には、真白な布(キレ)は大切な物となっていますが、お釈迦様はそうでは無く、薄汚れたものでは無いけれど、いろんな色が混ざったものであっても汚れてなければ、自分の着物にしなさいとおっしゃっています、焼けこげた布の残りを縫い合わせ、或いは色んな余り布でやくに立たないもので、つなぎ合わせて、しかもそれが真っ白、真黄色、真っ黒など色にとらわれないいろいろな布を張り合わせ、役に立たなくなった布で袈裟を作りなさいと言われました。また真っさらの生地をいただいても、わざわざ小さく切ってつなぎ合わせて衣類を作りなさい。そういう物には執着が付いていません。人が欲しがらない、そういう衣類ということであれば、誰もそれを奪い取る事はしません。そういう物を着なさい。そういう行き届いたお考えを、お釈迦様はお持ちであったと、今思っています。座禅をする前には、お尻と足の裏を綺麗に洗って座禅をはじめます。そういう具合に、私共は何度もいろんな物を洗うという事を大切にいたします。しかしそれは外側が綺麗になるというだけでなく、私共をとりまく世界が生まれかわったようになる働きがある、ということを、トイレに行った時には感じるわけでございます。せいせい(清々)したと感じるわけです。 4)一息(吐いて吸う) 私共座禅の前と後には「あくび」をします。ここでみなさんも「あくび」をして下さい。鼻から息をしないで、かすかに喉の奥に息を通わせますと、あくびを誘ってくれます。吐き出して口をつむぎ、鼻からスートお腹の下まで、オヘソの所まで空気を入れる感じです。ところで今吐き出した息は隣の人が吸っています。ここにいる人達の息を交換しているわけです。何百万年という歴史の中で、お互いの息を交換するということは、素晴らしい事ではないですか。おまけに今日は良い天気です。暖かいですね。吐き出された息は外に出ていきますね。それを緑の木がしっかりと受け取ってくれて、そして新しい酸素を私共にかえしてくれます。それから緑の下の土の部分で、私達が踏んでいる足の下、そこには何十万という生き物がいます。その命が木を支えています。上手い具合になっていますね。おまけに私共は、息を引き取ると言います。息を引き取る時は息が臭くなります。最後に「ハァッ」と息を吸って、吐く事なく終わります。おしまいですね。しかしこれでおしまいとは言えないと思います。どこかでまた生まれ変わって、という具合に私は思っております。色んな形になると思います。私共の体も、地面の中の虫にしろ、緑にしろ、私共の体等を、行ったり来たり、色んな形でもって姿、形は変わっても、命を支えるそういう働きをしてくれています。 人はいよいよ最後の時でも、私共の聴覚は最後まで残っています。亡くなる寸前まで聴覚は残っているようです。皆様方が、いよいよ最後の時、ご家族の方は枕元で大合掌して下さい。ナムキエブツ(南無帰依仏)と大きな声で言えば相手に聞こえ、嬉しく楽しく安らかな旅立ちができます。どうぞ心得ておいて下さい。皆で取り囲んでどうぞ大きな声で大合唱を送っていただきたい。一息吸って「ハァー」と吐く事が出来たらまだ生きている証拠ですから確かめて下さい。 5)遺伝子はご先祖さまからのラブレター 私共は色んな事で体を清めます。この私の爪にも色んな遺伝子が入っています、体から離れていく皮膚にも遺伝子が有ります。これ(遺伝子)は、ご先祖様からの色んな遺伝子と言うか、言ってみればこれはラブレターでしょうね。自分の体の中に、一つのほんとの細胞の中にラブレターが書き込まれています。それを私共がよみがえらせていただくと言う事が大事なのではないかと思います。 6)すべての物にはいろんな物の手がかかっている お釈迦様のおっしゃった言葉のなかに、すべての物には仏様の働きがあると言っておられます。すなわち存在するすべての物には、シッツ(悉有)があるとあります。シッツは仏性が有る、仏の性質がある。つまり、《はたらき》がすべての物に有る。そう言う事をお釈迦様が菩提樹の下でお悟りになりました。 以前兵庫県の保育園で園長をしておりました。保育園での話をしますが、私の車は軽トラックで、後ろの荷台には、作業具や色んな物が吊り下げてありました。昔は黒い袋を積んでいまして、途中でいろんな動物が死んでおりますと、その黒い袋に入れ、持ち帰ります。色んな果物の木の根元にそれを埋めておきますとけっこう美味しい果物にかわってくれます。 保育園でのトイレの話ですが、2歳位の園児が、私の手をトイレのほうに引っ張るのです。その子が自分のした物〔うんち〕に手を合わすしぐさをし、何か言いたい素振りをしています。園内に白檀で作ったお釈迦様のお姿を祭っておりましたが、ふっと思ったのは、それがその白檀のノノ様に、あーそう言えばちょっと似てない事もない、なんとなくそれ(うんち)がノノ様に似ています。そのとたんに私は全身から汗が出たような感じがしました。その園児の親がいつも食事を与え、考えてみると今、鎮座ましましている。それはたぶん園児の物(うんち)だ。親が前の日に、一所懸命それまで多くの人の手がかかって出来た材料で、心をこめてこの子の為に作ったものを、この子が頂いて、私の手を強くひっぱるような力になって、今その結果ここに鎮座ましまして、あーそうかということですね。姿、形は変われども、これは昨日のみんなの命、時間をかけたその物が、また料理をしたその時間が、みんなこの中にあるという事が、ほんの一瞬の間に「あーそうだー」と思って、私が思い違いをしていたと言う事が分かりました。それから園児と一緒に手を合わせてお見送りしました。それ以降、うんちのたびに手を合わせてお見送りしております。 考えてみますと、私共はいただきます、ごちそうさまと言っておりますけれども、私共の回りに有る空気や水、そういった物を日頃当たり前に頂いていますが、じつは人の命や色んな手がかかって出来ていた物が、私共に恵まれているな(与えられている)という事を考えると、たしかにお見送りをしなければいけないと思います。吸う息吐く息、息を吸う時はいただきます、吐く時にはごちそうさま、と合掌するのがほんとなのではないかという事で、心の底でしっかり受けとめさせていただいております。 私共は、牡丹と椿をたくさん作っております。けっこう綺麗な花がたくさん咲いております。そういう花の綺麗さの元には、人が排泄した物を下水処理場で処理し、チップ状に作った肥料を撒いております。「あー綺麗な牡丹」だとおっしゃるが、皆の排泄された物が花になっています。そういう事を思わずにおられないわけです。息を吸う時には「いただきます」、「ごちそうさま」と言う具合にして頂く、という事を腹の底に抱いていると、呼吸と言っても口と鼻だけでなく、皮膚、毛穴からも息をしています。そこいら中にお礼を言わなければなりません、「いただきます」「ごちそうさま」忙しいですね。 故きを温ねて(ふるきをたずねて)新しきを知るという言葉がございます。故きを温ねとは、元を考えてよくよく考え合わせてみると、うんこも、元々考えてみると、人の手、人の命、畑や田圃で作った色んな人の手がかかっています。時間が、命が、その中に姿、形を変えて、目の前で湯気をたてている、と言う事になります。そうするとうんこといいましても、うんこ如来と言っても良いのではないかと私は思います。それとおしっこは、キラキラ光を放つ様子から南無悉光菩薩といいたいなと私は思います。皆さんどうでしょうかね? 7)諸行無常 長崎に居りました時、キリスト教の方々と親しくしておりました。大司教とか色んな方とご縁がありまして、先年、イタリアのミラノの近所にあるアッシジというすばらしい町で、世界宗教者平和会議があって行って来ました。その修道院に、昔サンフランシスコ(聖フランチェスコ)という修道士がいました。彼がふだん着ていたガウンを拝見しましたら、そのガウンが多くのつくろい(繕い)の生地で作られていました。私共のお袈裟もそれと同じ考えかたです。人が欲しがらない物、そんな物は要らないと言う様なものを役立てるのが尊い物で、サンフランシスコのガウンを見て同じ事だな、と感じました。 私共の生涯の中には色んな段階があります。思いがけない事が次々に起るわけです。道元禅師に限らず、お釈迦様がおっしゃった事は、諸行無常と言う事ですね。「いろはにほへとちりぬるをわかよたれそつねならむ」。つねならむ、安定して何にも無いと言う事は、この世の中にはありえないよ。「ういのおくやまけふこえてあさきゆめみしえみひもせす」。いつまでも幸せな状況や、健康、二十歳過ぎの自分の世界、というのは、諸行は無常なりつねなし(常無し)、こうだこうだと思いこんでいるけれども、そうはいかないよ、というのがほんとのところです。全ての事が思い通りに成ると思ったら大間違いで、それが諸行無常です。それを考えていないと、たまたま自分の身内が癌になり、別れたくないが、別れなければならない事も有ります。思う様に必ずなるとは限らない、それが有様(ありよう)です。 8)終わりに(因縁(いんねん)生起(しょうき)、諸行(しょぎょう)無常(むじょう)と縁起(えんぎ)の世界) この頃は絆と言う言葉がよく使われております。私共の中にバン(絆)を道心とすべし。立派な袈裟を着てお経を読むだけでは無くて、台所仕事や便所掃除が一番大事です。人と人とがロープでもって何とかしようとするのでは無くて、因縁生起、すべての物が縁によって成り立っている、みんなかかわりの無い物は何一つ無い、お釈迦様の仰った事は諸行無常と縁起の世界であります。 道元禅師は「峰の色谷の響きもみなながらわが釈迦牟尼の声と姿と」(私たちいつも眺めている山や川はお釈迦様のお姿やお声である)とお示しになりました。皆様の家に仏壇が有ると思います。仏壇は床の間から来ています。そこに軸が掛けて有り、山川の絵が有った場合はこれは単に山や川では無く、お釈迦様の姿で有り、お釈迦様の語りかけであると受け取って下さい。思いがけない災害をもたらし、思いがけない境遇に皆さんを導くような事も有るわけでありますが、みんな心して、そういう山も川も海も、敬い(うやまい)の心を持って対さなければと、思はずにはおられません。諸行無常、因縁生起、世の中ではこれが絶対だ、これが絶対だというのは、相対的な絶対です。そうでは無くて私の言い方は、むしろ世の中は絶対的な相対である、この様にまとめさせていただきます。 お互いが、お互いが有ればこそ、あらゆる物が関係しあってこの世の中が成り立っているという事です。その意味において、一人一人の命もそうです。畑や鉢の野菜は自分では声をだして水が欲しいとは言わないですが、私共がそれを察して水をやる。人の痛みがわかる様に成ってはじめて一人前です。様々なご縁でもって皆様方とこうやってお顔を拝見させていただきました。又これからの生活で、お身近な方々とすごさせていただきます。大事なご縁ですね。これを生かしていただけたらと思います。因縁生起と縁起と言いますが、その場合もただ「絆、絆」と言うのでは無くて、良いご縁を作って行こうと志して下さい。肩の痛さや足の痛さがわかって一人前です。 合掌 |
平成24年3月 講演の舞台活花
活花は季節に合わせて舞台を飾っています。
過去8年間の「講演舞台活花写真画廊」のブログもご覧ください。
10年間の長きに亘り、ご担当いただいていた
草月流の井上草勝様と白井トヨ子様および竹本寿子様による舞台活花が
今月をもって終わることになりました。
ありがとうございました。
講演舞台写真画廊展へ