第4回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA大ホール
平成23年9月15日
文学でたどる世界遺産・奈良
奈良大学文学部 講師 名誉教授
浅田 隆氏
講演要旨 奈良県には「法隆寺地域の仏教建造物群」「古都奈良の文化財」「紀伊山地の霊場と参詣道」の三つの世界遺産があり、それらの豊かな自然や歴史や文化財にかかわる文学作品が書かれており、そのいくつかを紹介します。 |
||||
「はじめに」 私は奈良に住んでいますがここ狭山に来る道すがら二上山を見てこの山を皆様と両側から眺め共有して生活しているのだなと感じました。この山については折口信夫が「死者の書」の中で大津皇子をモデルにしていますし、五木寛之は「風の王国」の中でミステリアスな人々を描いています。 さて、奈良には1993年から2004年にかけて登録された法隆寺地域の仏教建造物群、古都奈良の文化財それに紀伊山地の霊場と参詣道の三つの世界遺産があります。日本全体では、合計16件の世界遺産が登録されています。自然遺産としては白神山地、屋久島、知床、小笠原諸島があり、文化遺産としては1993年に登録された姫路城をはじめとし2011年に登録された平泉の遺産群があります。ただし熊野古道などは自然遺産のように思われますが文化遺産を結ぶ参詣道であり宗教施設があって初めて成立するものですから文化的景観と位置付けられ文化遺産の範疇に入っています。 世界遺産条約の中では遺された財産を保護、保存するべきこととして謳われていますが、人間が作ったもの-文化遺産-は作り出した時から劣化が始まっていますから当然保存・保護の対象になります。一方再生能力を持つ自然は保護・保存とは無縁のように思われますが、今やそのような自然を自然遺産として意識して保護・保存しなければならないような状態に地球全体が成ってきてしまっていることを考えなければなりません。 「会津八一の奈良」 それでは奈良にある世界遺産をまず會津八一の短歌でたどっていきましょう。彼は奈良へのはやる気持ちを「あおによし奈良の都にありとある御寺御仏ゆきてはやみむ」と歌い、10時間以上も掛けて足しげく通う夜行の汽車の中では「かたむきてうちねむりゆくあきのよのゆめにもたたすわがほとけたち」と詠み、これから会いにゆく仏たちが夢の中で出迎えてくれていると思うほどでありました。若草山からの眺望を歌った「御寺立ちたつわかくさのやま」の歌では明治40年当時の現在とは全く異なり遠くまで見晴るかすことができた奈良の景色を詠い、寺や仏だけでなくそれらを取り巻く自然環境にいかに感動したかを語っています。東京に帰るときは夢に見たいと「ゆめにしみへこわかくさのやま」と詠んだ。帰れば帰ったで「みてらみほとけおもかげにたつ」と脳裡をよぎるお姿を詠んでいます。そして大正13年、京都に対する南の京、万葉集を意識して新たに唱うという意味の「南京新唱」という題でこれらの歌を歌集にまとめました。そして自序の中では「骨をここに埋めん」「誦すれば恍惚として」などといかに「奈良の風光と美術を酷愛して」いるかを述べています。 「法隆寺・いかるが」 では個々の世界遺産を取り上げましょう。法隆寺の事でありますが、ここは近年JRの線路からは大変見えにくくなっています。八一は、当時どこからも五重塔が見えるのんびりとしたこの斑鳩の村に「さとのおとめ」が「きぬはたおる」夜なべ仕事とともに秋が訪れると詠みました。この村の風景を高浜虚子は、「斑鳩物語」のなかで「黄色い菜の花」、「白い梨子の花」、それに緑の「燈心草」でもってその美しさを見事に描いています。そして法隆寺を懐旧の情ではなく、離れたくない、心が引かれるという意味で「なつかしい御寺」であると呼んでいます。一方、八一は「ひきてかえらぬいにしえあはれ」と詠み、聖徳太子の弓から放たれた矢が再び手元には戻ってこないのと同じく古代が返ってこないのは悲しいと古代に思いを馳せます。古代を、いにしえを目の当たりにしたいと思って法隆寺を訪れていることが見て取れます。 「東大寺・正倉院」 東大寺を訪れた八一は「おほきほとけは あまたらしたり」と大仏がおおらかに充足してこの大きな宇宙全体を包んでいると詠んでいます。三月堂を扱った「びしゃもんの おもきかかと」で始まる歌では、信仰者の心に芽生える邪心の化身である天邪鬼に視点を置いて、踏みつけられ、もだえてもう1000年になるのだなあ、と詠んでいます。 東大寺近くにある正倉院については帝室博物館総長に任命されて近くの官舎に滞在した森鷗外が「奈良五十首」を遺しています。彼は、永遠の生命の象徴のように思われている大杉でさえ今年来てみると折れて跡形もない、この世には悠久とか無限などないものなのだ、と八首目で詠いながらも、十首目の「燃ゆべきものの燃えぬ国」の歌では燃えるはずの木でできた正倉院(正式の倉が塀で囲まれたところ)が東大寺の二度の大火にも耐えて燃えずに残っているのはなんという奇跡であるか、これを「夢の国」といわないでなんと言うべきなのかと詠んでいます。 井上靖は戦後間もないころ大阪毎日新聞の学芸員でした。グラビア誌の表紙を飾る写真を探していた折、正倉院の御物の中に漆胡樽を見つけます。これは水を入れる黒褐色の容器で、バランスを取るために2袋を一組として動物の背に負わせたようです。胡つまりシルクロード沿いの異域で使われていた漆を塗った樽というものです。その姿に触発されて、井上は同名の散文詩の中で「…とある日、いかなる事情と理由によってか、一個の漆胡樽は駱駝の背をはなれ、民族の意志の黯い流れより逸脱し、孤独流離の道を歩みはじめた。ある時は速く、ある時はおそく、運命の法則に支配されながら、東亜千年の時空をひたすらまっすぐに落下しつづけた。そして、ふと気がついた時、彼は東方の一小島国の王室のやわらかい掌の上に受けとめられていた。さらに二千年の長い時間が流れた。突如、扉はひらかれ、秋の陽ざしがさし込んできた。…」と書いています。正倉院展で敗戦後の一般民衆に与えた感銘も深かったろうと想像されます。 この御物と同じものはかけらさえ見つからず、正倉院にしかありません。まさに日本だけでなく東アジア、いや中央アジアを含めたアジアの宝物庫だと言えます。これが燃えることなく奈良にはあるのだ、まさに夢の国だと鷗外は詠っているのです。 彼は「晴るる日はみ倉守るわれ傘さして…」の中で雨の日には奈良の貴重な歴史の遺産である寺寺を巡ったことを詠んでいます。井上の言葉を借りると奈良は「歴史のかけらが豊富である」ということです。 「唐招提寺・薬師寺」 唐招提寺について八一は鹿鳴集の中で「おほてらの まろきはしらの つきかげを つちにふみつつ ものをこそおもへ」と、この古寺で月夜に物思いにふける様子を詠んでいます。「はしら」が「まろい」のはギリシャの建築様式であるエンタシスが東へ東へと伝わってきた結果であると考えているのです。ついでながら、仏教の話によく出てくる天人・天女の羽衣はキューピッドの羽が東へ伝わる過程で変わっていったものであるようです。何回かの渡航中に目が見えなくなられた鑑真の像を見た時には、現状のような落ちぶれたお寺の姿を眺めるよりはいつまでもお眠り下さいという気持ちを、「とこしえに ねむりておはせ おほてらの いまのすがたに うちながむよは」と詠みました。また芭蕉にも、「若葉して御目(おんめ)の雫(しづく) ぬぐはばや(ぬぐわばや)」という句があります。柔らかい若葉で涙を拭いて差し上げたいという優しい気持ちでありましょう。のちには奈良の寺院はだんだんと支えを失っていって小さくなっていきました。それに追い打ちをかけたのが明治維新の廃仏毀釈の嵐でした。 昭和の時代に奈良にやって来た堀辰雄も『大和路 信濃路』の「十月十一日」の項の中で「此処こそは私たちのギリシャだ」と唐招提寺を眺めながらギリシャを夢見ています。さらに、十四日の文には、「薬師寺の裏門を過ぎたあたりの五条という床しい字名の黄色い粗壁の農家数軒からなる小さな部落」と「その先に見える唐招提寺の森」に触れています。 亀井勝一郎は『大和古寺風物詩』の「秋」の項で古風な民家や秋の光を浴びたその辺りの自然風物を描き、「すべて古の平城京の址である」と述べ古寺を取り巻く風景の佇まいの魅力に触れています。 私たちは、現代の忙しい時代に生きていて、機能性とか効率性のみを常に求めるあまり、寺から寺への最短距離、最短時間を選ぼうとします。そうではなく遠くから寺などのたたずまいを眺めながら静かに接近していくという心の余裕、安らぎを抱きつつ奈良を訪れればまた違った風景が見えてくるものと思います。 「おわりに」 私は小学校の修学旅行ではじめて京都・奈良に来ました。その後ほぼ成人の十九歳の時に奈良に住むようになりました。 私には鉄道のすぐ近くで生まれ育った小学校の同級生がいました。そこから歩いて一時間もかかるところに住んでいた私は機関車といってもはるかに汽笛の音を聞くのみでした。ある日その友達の家まで蒸気機関車を見に連れて行ってもらいました。初めてまじかに見る機関車の存在感たるや感動ものでした。友達にとっては日常の一コマで何の感動もないようでした。これと同じように奈良に生まれ育った方々はこの文化風土は当たり前のように思っていらっしゃる、むしろ発展、開発の邪魔になると考えているかもしれません。しかし私にとっての奈良はある程度成人し一定のものを見る目が養われた後から触れましたから他では得難いものがいっぱい詰まっていることが分かります。感動をくれた蒸気機関車のようなものであります。 大仏が作られた頃の仏教は二十世紀の科学と同じようなものであります。私たちは二十世紀の時間の中で科学を信仰し、それで幸せになれると信じてました。しかしその科学がとてつもないことを引き起こしました。原発です。古代の人々も私たちが科学を見るのと同じ目で仏教を見、それが幸福をもたらしてくれると信じていたのです。聖武天皇が国の発展と平和を仏教に託し大仏殿を造り、東大寺を造ったのであります。無用の長物だと批判する向きもありましょうが、当時にあっては、奈良公園付近は先端的な学問をする僧たちの集まる施設、古代における学研都市であったと言えます。こういう目でこのあたりを眺めていただければまた違った趣が見えてくるのではないでしょうか。 |
平成23年9月 講演の舞台活花
活花は季節に合わせて舞台を飾っています。
過去8年間の「講演舞台活花写真画廊」のブログもご覧ください。
講演舞台写真画廊展へ