第3回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA大ホール
平成23年7月21日
不安な時代を生きるヒント
慈受院門跡 住職
梶 妙壽 氏
講演要旨 中途半端に木にしがみつくより、両手を離して大地に倒れ込んでしまえばいいのです。 これまで思い込んでいた考え方,物差しを変えてみるだけで、気持ちが前向きになり、心の安息を得る事が出来ます。 私の体験から「幸せに生きる秘訣」をお話したいと思います。 |
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はじめに 只今、ご紹介頂きました、慈受院門跡住職をさせて頂いてます梶 妙寿と申します。21日が台風の影響を心配してましたが、さわやかな日和となり嬉しく思っています。今日も寺院の庭に夏の太陽の光(今日は曇ってますが)が毎日ギンギンギラギラと浴びて蓮の花が咲いていますが、どんなに暑さを受けようとも涼しそうに咲いている蓮の花を眺めていますと、草木あるいは一輪の花がいつも、あるがままに咲いているんだとつくづく身をもってこの景色を自分の心の勉強としています。我々の人生の置かれたそれぞれの環境の中で、自然界との協調あるいは自然界を通じて色々学んでいく事が大変重要であり、一本の草木、一輪の花から本当に深い哲学的な大きな真理を身近に勉強させて頂けるという事です。 私共でいつも座禅をさせて頂いてますが、今日は皆様と少し座禅のまねごとを行いと思います。座禅で息を吐いて、吸うというその間というのが生命なんです、命そのものなんです。息を吸って、吐く事が出来る事が命が有ると言う事です。今日は命と言う事も共々演題と合わせて皆様と勉強したいと思っています。 人生を生き抜く法則 我々の命は何処からきて何処へ帰るのか、我々の生命あるいは魂の根源、命の有る限り天地一杯の恵みに生かされている事実、この事実に毎日感謝して自覚して生きているかどうか。 僭越ですが、私の一日の朝の始まりは、朝目覚めると同時に自分自身に問いかける「汝、今日一日喜びとして生きるや否や」自分に厳しく問いかけ、そして今日一日、人々が幸せに、世界が平和であります事を祈り、願い、その命を使わせて頂く事の誓願を神仏に奉り朝の始まりがあるわけです。 皆様、この問いかけを騙されたと思い、毎日実行して下さい。本当に自分の運命が変わること100%です。人、皆幸せに生きたいと思っていますので、法則に従って生き抜いて行く事が大切です。 それでは、感謝だけでいいのか、やはりご先祖、親、社会のご恩が有って、今在るという再確認、ご恩に報いる慈悲の心、利他の心で日々を過ごす事。それから、大宇宙というのは、私共では神様とも仏様とも呼んでいますし、だから大自然に対して畏怖感、怖さが大切であり、大自然に謙虚で、従順をして生きていかなければならない。人間の基本的な生き方に目覚めると言う事はどういう事か、それは私達の人生の中でお金で買えないものがあります、まずは時間、命です、だから今を、今という瞬間に命をかけて生きる事が大事です。 また、お金(お宝)は生活上大事ですけど、潤滑して使うことが大切です。また、社会生活をしていけば、周囲が気になりますが(風吹けども天辺の月)自分の正しい信念を貫いて生きて行く事が重要だと思います。 私共では法要というのを行います。「法」というのは天地の法則、「要」は人生の要、心であり、肝心要の精神のよりどころであり核心なんです。そこで人生の再認識を行う為の行事です。それから社会との関わる中で、経済、豊かさとはどういう事か、皆、貧乏より豊かの方が良いと思うんですが、どこまで行っても他と比較をして生活をしていれば幸せは築けない、私は私、そして自分自身の探求―自分自身の命をみつめて、掘り下げて行く―そこに本当の安らぎがあり、幸せがあると言う事です。 差し当たって今の時代、足るを知るという事、これで十分ですと知っている人間はそれで豊かなんです。人間は何処までも貪欲できりがない、やはりこれからは足るを知るという事を自分自身に命じながら人生を生き抜いて行く事が幸せの基礎作りになる。 我々の運命は何処から来ているのか、それは永い家の歴史、親、先祖の中でのいろんな蓄積された心、先祖からいえば先天的な精神作用、行為を通じて人格、人柄が種としてある。また、先祖がどういう風な心で社会との関わりで感謝とか奉仕とかをしてきたか、それが子孫に徳として蓄積されて、運命というのは自分だけでなしに、子孫の種としてずーと続いていくという事。どういうことかというと草木や人間生活も縁、徳、因縁果に関わって生きて行く法則は一緒であり、いわゆる因縁果という因縁の世界、縁が生じて結果を生じて行く、今、非常に悪い立場にある、それは土壌の問題、徳の問題が欠けている、そこで徳積が必要とされる。ただ外ばかりみて、自分は一生懸命だが不平、不満、愚痴をこぼさない、神仏はどんな時でも人を育てようと大きな慈悲があり、そういう気づきと取らして頂くのは徳があるからで、徳のない人は取れない不平、不満、愚痴(これを三毒という)で幸せは訪れてこない。運命というのは自由にならない、すべての事には、季節や時があり我々が生きるには時がある、死ぬるには時がある様に、殆どを自然の流れにまかせる心が大切である。 我々の人生は何の為に生きるのか、この今という今の為に生きるのです。吉田兼好が徒然草で「若きにもよらず、強きにもよらず、思いもかけぬは死期なり」と言っている様に今までの時間は死ぬる為だった、明日はないと書いています。今を大事に生きる事を自覚をする、人間が生きる時間というのは今、今ここにしかない絶対的な今なんです。宇宙の神や仏と繋がっている、今を生き切れば永遠につながっている。したがい、他と比較する世界から自己を探求する世界に目覚めなければ真の幸せは訪れない。人生を正しく生きるという事は宇宙の法則に従って生き、足るを知る生活、これで十分ですという感謝、奉仕の心、宇宙の広大な空気に学んで行く事が人生の基本です。 人生というのは良寛和尚が「裏を見せ表を見せて散るもみじ」という詩で喜びも悲しみも表裏一体ですと言っている。それから命はその人の持っている種によって様々な姿、形が縁によって変化をする。 我々の命、動植物の命みな同じであるが、蒔かれている種が違う、所謂因縁果の世界である、私は3月の大震災以来非常にこの世の無常感、人生というのは無常だと痛切に思った事はありませんでした。 色は匂へど散りぬるを(諸行無常) 世の中はどんな物も時期がくれば無常である わが世誰ぞ常ならむ(是生滅法) 生まれれば必ず滅して行くこれが常ですよ この世では永遠に続く物は何もない 有為の奥山今日越えて(生滅々巳) 有為というのは作られたもので、因縁によって作られた物は必ず滅して行くと言う事を自覚していく 浅き夢見し酔ひもせず(寂滅為楽) 寂滅を認識すれば、因縁の道理に目覚める事によって心が安らかになる 私共の寺院は、約600年経過してますが、秀吉が羽柴筑前守時代に度々お茶会をされたので色々の物が残っています。秀吉の詩に「つゆとおき、つゆとなれにし我が身かな、なにわの夢もまた夢」というのがあります。人生というのは、はかないもので夢のようなものである。 三法印とは 1.諸行無常 2..諸法無我 3..涅槃寂静 諸行無常:恒常なるものは必ず滅していくもの 諸法無我:生命あるものは単独で生きていけない 以上2つをよく認識すれば涅槃寂静の世界に入っていける。 それから、私共の生命は動植物のあらゆる生命のお蔭で生かしてもらっていて私共は何にもない無我なんです、命のあるものは単独では生きていけないこの道理をよく認識し、自覚をしそこから深い感謝、懺悔、そういうものの中で人生を謙虚に生きていく事が大変重要である。 五蘊(ごうん)とは 般若心経に出てくる、「色・受・想・行・識」という人間の心身を構成している5つの要素をいう。 色とは目に見えるもの(肉体)。受は感覚作用。想は心に描く(表象作用)。行は人間の意志。識はすべての認識作用。簡単にいえば、身と心の環境の全てをさす。 四諦(したい)とは 煩悩、執着からでる苦悩を滅する方法として、苦諦(くたい)集諦(じったい)滅諦(めったい)道諦(どうたい)の4つの生き方をいう。 苦諦は人生は苦である、生まれれば必ず死がくる、愛する人との別れ、怨憎会等の苦しみ。 集諦は集めたもの(例えばお宝)の苦しみ 滅諦は苦しみを滅していけば楽になりますよ それをするには道諦で、執着をしないとか、諸々の事を自覚をすること。しかし人間は満足が出来ない。これも苦難で般若心経に「一切皆苦」と言っている。生命は連続的なものでなく、永遠なものでなく、絶対的な心理である「諸行無常」がわかれば、自ずから執着がとれ、安心の境地に至る。 話は変わりますが、私は奉仕として京都刑務所廻りで説法をしています。そのきっかけは泥棒に入られた事で、受刑者の教育を依頼された(当時尼僧の人はいない)。受刑者から教えられる事が多い。(同じ目線で話をする) 最後になりますが、私の出家の理由をお話させて頂きます。 私は48歳で出家をいたしました。20歳で大手電機メーカーの御曹司と結婚をしまして2人の子供もいます。裕福な生活をしていましたが、その中で他と比較する世界、自己の探求でこれで満足してよいのか、今までの経験で苦しみは何処から生まれてくるのか、また、一族への執着をとるにはどうしたらよいかに遭遇して苦しみを取り除く手段を考えてる時に「良寛」の本にめぐり会え、この苦しみの根源、執着は何なのか、自分が行をして解明しようと、自分の一生を貫いて行こうと思いました。修行は大変でした、宗教の世界は綺麗で清浄な世界と思われ勝ちですが、政治、医者、宗教のどの世界も汚い。しかし、汚い娑婆で私の生きる正しい信念で1回限りの人生を後悔のない人生を送る事で自分が生を受けて亡くなっていく時に全てに感謝を捧げて「有難う」と言って死んで行きたい。 お寺には蝋燭と線香が付き物です、蝋燭は蝋が芯一本の糸が中にまいてあり、そして蝋というのは所謂、法なんです、お釈迦様は法灯明と言っていて(私を頼りにするなよ、人生の心構えにしなさい)。また、芯の事を自灯明と言っている。これは自分自身を尊くして生きなさい、尊くするのも、不幸にするのも幸せにするのも人でなく自分自身ですと説いています。 線香もいい香りを漂わせて灰になって消えていく線香と蝋燭の象徴です。 そういう生き様、人生を送りたいと思い48歳で誓願を立て今日があります。 私はまだ70余歳です、後20年は自分だけがわかるのではなく、40歳代では人生の生き方、法則、哲学は理解出来てない。だから修行も足りていませんし勉強も足りてないが25年経った今、おぼろげに人生の生き方を皆様にお教えする事はおこがましいが私の生きざまを聞いて頂き、共々に本当に1回限りの人生をどうぞ悔いのない生涯で有ります様に私は皆様がたのご健康とご安泰をお祈り申し上げまして私のつたないお話を終わらせて頂きます、誠に有難うございました。 |
平成23年7月 講演の舞台活花
活花は季節に合わせて舞台を飾っています。
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