平成18年度
熟年大学
第三回
一般教養公開講座
於:SAYAKA小ホール
平成18年7月20日
個人史として「戦争と平和」を考える
京都女子大学
現代社会学部教授
初瀬 龍平 氏
講演要旨 「戦争と平和」の考え方には、人それぞれの生活体験が影響していると思われる。 この講義では自分の個人史を日本の近現代国際関係史と関連づけながら「戦争と平和」の問題を考えてみたい。これによって皆さんが、自分の体験を振り返るときの一助になればと願っている。 |
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はじめに 本講義では、「戦争と平和」に関する私の個人史について、話をしてみたい。あらかじめ断っておくが、私の専門は国際関係論で、平和研究の立場に立っている。とはいっても、私の個人史にこれといって格別に誇れるものはない。この講義で出していくのは、戦前生まれの平凡な日本人の個人史の例である。これをあえて提示することで、皆さんが同じようにご自分の個人史を書かれる一助となれば、と願って、自分の例を出して行きたい。 第1部 戦前期(1930年代~1945年:幼年期~少年期) (1)個人的体験 私は1937年(昭和12年)6月1日に父(船会社の事務職員)と母(当時は主婦専業)から、2人兄弟の次男として、神戸市灘区で生まれ、3歳のとき(1940年6月)、福岡県門司市(現・北九州市門司区)丸山町に引越して住む。父が、大阪商船という船会社の事務職員であったので、子どもの頃自宅にはアルゼンチン丸とか、ブラジル丸などの絵葉書が沢山あった。このような環境で、なんとなく船、飛行機、海外に憧れることになったのであろう。自宅には、当時には珍しいチョコレートとか、チーズとかがあり、父は日曜日には、コーヒー豆を挽いて、コーヒーを入れていた。 1941年(昭和16年)12月8日の朝を覚えている。大人は興奮していた。この頃、自分はしきりに海軍飛行隊員を夢見て、毎日飛行機と空中戦の絵を描いていた。「鬼畜米英」のスローガンを覚える。当時、出征途上の兵隊さんが分宿して、自宅に泊まることが、2~3度あったが、彼らの行き先が中国大陸なのか、それとも南洋(東南アジア、南アジア)なのかを知る由もなかった。兄の話によると、はじめは徴兵検査を受けに来た方への自宅提供であったが、次第に召集兵も含むようになり、宿泊場所も自宅ではなく、社宅の空き家に替わったとのことである。 1944年(昭和19年)4月、丸山小学校(国民学校)に入学。この年6月16日に、米国のB29爆撃機の編隊が中国四川省の成都からはじめて八幡製鉄所を爆撃した。このことを私は、山越えに見ていたような気がする。このとき、日本の高射砲の対空砲火は当たらなかった。雨水路を利用した防空壕に入ったような気がする。しかし、このときの記憶は、調べてみるときわめて不正確で、それは8月20日のことに違いない。 この年の夏休み(8月下旬)、父の病気(肺結核)療養のため父母の郷里・茨城県水戸市とその近郷に帰る。途中、門司から神戸まで、機雷を恐れながら船に乗り、大阪で父の会社に立ち寄り、東海道線の夜行で横浜の叔母宅に2~3泊。このとき、横浜駅からの道は、焼け野原であったように記憶している。しかし、横浜の大空襲は翌年5月29日であったから、「焼け野原」は明らかに記憶違い。多分、防火地帯のための民家の取り壊しをそう見たのであろう。 父母は父の実家(那珂郡木崎村門部)へ、兄と私は母の実家へ。2学期~3学期は、水戸市城東小学校へ通う。父はその年12月25日に死亡。 1945年(昭和20年)4月から亡父の郷里の小学校(木崎小学校)に移る。その年の夏のある晩、実家の縁側から正面(南方面)の木々の向こうの空が真っ赤になって燃えていた。これは、8月1日の水戸の空襲である。その数日後、母、兄と母の実家を訪れると、立派であった家は燃えてなくなっており、祖母と母が泣きながら、会話をしていたのを覚えている。 8月15日は、田舎の邑で、快晴であった。大人たちは「終戦」の事実をそのまま受け取り、田舎であるためか、あまり心配の様子もなく、悲しみも喜びもせず、呆然としていたような気がする。 その後、1946年(昭和21年)のことか、母が過労の肋膜炎でしばらく入院したことや、私自身が父から肺結核が移ったこともあって、小学校2年生から5年生頃まで、毎日が雨降りであったような記憶がある。もちろん毎日が雨などということはないのだが、印象としては暗い日々だけが残っている。食糧は、田舎に居たが、農家でなかった(母が中学校の教師)ので、飢え死にすることはなかったが、それほど潤沢ではなかった。魚屋も肉屋もない寒村では、動物性蛋白質は、ほとんどなかった。イナゴを佃煮状にして食べ、ドジョウを味噌汁の実にして食べたことを覚えている。イナゴは硬くて食べにくかった。ドジョウは泥臭くて、食べにくかった。田舎に居たので、進駐軍の姿を見ることは、ほとんどなかった。進駐軍にチョコレートやチューインガムをねだる機会はなく、恵んでもらう屈辱感を味あわないで済んだ。 戦争といえば、戦後の田舎の学校では、ときどきナトコの映写会があった。ニュース映画の場面では、数多くの朝鮮戦争の場面があり、米軍を賞賛し、北朝鮮軍を非難ばかりするので、田舎の子どもとして、私は、この戦争を引き起こした責任は、米国にあると思うにいたった。 太平洋戦争の時期に、私は、兵隊になるには子どもにすぎていたし、空襲のなかで逃げまどったこともない。外地から引き揚げるという経験もしていない。物心ついた太平洋戦争期での戦争の実体験は、きわめて限られたもので、それも自分の身の安全が急襲されることもなかった。しかし、僅かに残っている戦争体験では、戦争は決して明るいもの、勇気ある偉業には見えていなかった。戦後の日々は、私にとって、雨の暗い印象しか残していない。自分では、父の病気は、戦争のために治らなかったと思っている。田舎の小中学校や、水戸市での高等学校でも、何人かの友達に父親がいなかった。戦争は、自分の日常の幸せを奪い取るものと思えた。 (2) 個人的体験の歴史的背景 ここでは、私の個人的体験の背景となった歴史的事実を ①満州事変から日中戦争まで②日中戦争の開始と拡大 ③日中戦争から日米戦争へ に分けて概観し、それとの関連で、自分の体験の歴史的意味を解釈してみたい。 《省略》 (3) 個人的体験にもとづく事実の解釈 ① 個人史における「満州国」の意味 上述のように、私の出生地は神戸市、小学校に入ったのは門司市であるが、母が私を身ごもったのは、「満州」の「新京」(今の長春)である。住まいは、大和ホテル内の家族部屋であったと思われる。父の会社の事務室は、自宅のドアーに通じていたと言われる。父の勤務先は大阪商船であったから、仕事は、おそらく積荷の引き受けと旅客への発券であったと思われる。 私が生まれたのは神戸、引越しした先は門司である。ともに、当時の日本での代表的な港であった。「新京」-大連港-門司港-神戸港をつなぐ基盤は、戦前日本の植民地経営であった。かつて門司港は、大連航路と天津航路を主にしており、1931年(昭和6年)に港の改修工事が行われていた。それは中国と「満州」への出口、入口であった(朝鮮へは、下関港から関釜連絡船)。しかし、戦後の日本は植民地を失ったことで、門司港の繁栄の基盤が失われた。さらに戦後、港湾建設・築港の技術が改良され普及したことで、全国中に良港が作られ、門司港の繁栄は過去のものとなった。門司港と同様に、私の家族の幸せは日本の植民地「満州」経営に乗っていたことになる。これに加えて、門司港が、軍人・軍馬・弾薬・食糧などの軍需要因の積出港であったことを確認しておく必要があろう。 ② 記憶に残らない日中戦争 私は、いわば日中戦争のなかに生まれてきた。しかし、日中戦争の記憶はほとんどない。上述のように、1937年(昭和12年)から1941年(昭和16年)にかけての時期、日本が日中戦争にのめり込んでいくのであるが、当時の私(ゼロ歳~4歳)が、事態を理解できるはずはなかった。歴史として振り返ると、1937年12月には、日本軍の中国首都・南京の攻略にともなう南京事件が起こっていたはずであるし、日本国内で祝賀の提灯行列が行われていたはずである。しかし、この4年間に日中戦争に伴う緊張感の記憶がない。多分、私の家庭、周囲でも、泥沼化する日中戦争についての緊張感が弱かったのでないか、と思われる。 ③ 開戦と敗戦の落差 対米開戦にあたって、日米間の経済力の差は、歴然としていた。石油もなく、アルミもなく、米もなかった。敵の戦車と自動小銃に竹槍で立ち向かう、とした。石油、アルミは、東南アジアを占領することで調達しようとした。これが成功するには、現物を押さえるだけでなく、海上輸送力(海軍に支えられる)が必要であった。米は、植民地の台湾、朝鮮から調達した。 空襲を受けるようになると、人々は神風を信じつつも、風向きの変化を感じ始めていたのかもしれない。それよりも、人々は、日々の生活の質の低下を実感するようになっていた。欲しがりません、勝つまでは、ということで、我慢はしていたが、勝てるという希望は、消えつつあったようである。私の家でも、父が母に、軍に徴用された会社の船が1隻、1隻と沈んでいくことを静かに知らせていたように思う。日常の生活の質が急降下したことは、明らかである。自分は、まだ学齢に達しない子どもであったが、勝った勝ったの報道ばかりであったから、戦後に小学生で物心ついた頃になると、政府の流す情報を信じない方がよいと考えるようになった。なお、戦後における墨塗りの教科書の覚えは、強くない。 ④ 対米戦争と対アジア戦争の落差 振り返ってみると、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦での対独開戦(ドイツの山東権益と南洋諸島の獲得)、満州事変、それから日中戦争と、日本人にとって、戦争は儲かるものであった。太平洋戦争での対米敗戦で、日本人は、戦争は儲かるものでないことを知った。しかし、多くの日本人は、中国でも、東南アジアでも、戦争に負けていないと思い込んでいる。 一時的な軍事的能力は別として、当時の日本には、中国と東南アジアを支配できる経済力(生産力、技術力、資本力、輸送力、生活・文化レベル)はなった。東南アジアの資源を日本に持ってくる輸送力は、対米戦争のなかで急速に失われていった。軍票を発行することで、東南アジアの各地にインフレーションを起こした。中国でも、軍票、それに儲備券(汪兆銘政府の基幹銀行・中央儲備銀行が発行)は、法幣(1935年から国民政府の通貨、英米に支援され、逝江財閥の基幹銀行が発行)、それに辺区券(共産党支配下)に勝てなかった。 さらに、日本人は自らのナショナリズム(国家主義)を称揚しながら、他のアジア諸民族のナショナリズム(民族主義)を正面から見つめる姿勢、能力に欠けていた。自分たちのナショナリズムは、単純に信じ込むが、他のナショナリズムは理解できないというのは、日本人だけに特有なものではなく、ナショナリズム一般の特性であろう。 ⑤ 原爆投下目標としての小倉 1945年(昭和20年)8月9日に、長崎に2発目の原爆が投下された。かなり知れているように、当初の投下予定地は、小倉であった。小倉には、造兵廠があった。当日の小倉は、曇天であった。投下地点を見出せない米軍のB29は、長崎に向かった。 実は、私は、1973年(昭和48年)4月から1980年(昭和55年)9月まで、北九州大学に勤務し、小倉南区に住むことになった。7歳のときに去った北九州の土地に35歳のとき再び移り住むことになった。小倉が2度目の原爆投下の本来の攻撃目標であったことの意味を、その土地での2度めの生活のなかで、いっそう明確に確認することになった。 1945年8月9日に、原爆が小倉に投下され、また私の父が病気になっていなければ、そのとき門司にいたかもしれない。そして、門司からキノコ雲を見ていたかもしれない。風向きでは、被曝したかも知れないし、原爆投下後の小倉に早期に入って、早期入市者として被曝したかもしれない。このような意味で、私には、原爆の投下のおそろしさが、浮かんでくる。しかし、このことは、おそらく大学生になってからの知識と、北九州の再度の生活体験で補ったことである。 今回、この講義のために、事実関係を整理するまで、私は、門司が1945年(昭和20年)6月29日と7月2日に空襲され、焼け野原になったことを忘れていた。この時点では、米軍機はマリアナ諸島(日本の旧南洋諸島)のサイパン島から飛んできていたし、日本本土周辺の艦載機からの攻撃もあった。長崎に原爆を投下したB29は、テニアン島から飛んできていた。 いま振り返ってみると、原爆の場合と同様なのだが、私は、水戸と門司の空襲を偶々避けていたことになる。門司にも、水戸にも、その近くまで住んでいたからである。 ⑥ まとめ 以上の個人的体験をまとめると、個人としての戦争の被害を実感し、戦争そのものと、戦争を煽る勢力(軍国主義、国家主義)への疑問が、強まったことになる。しかし、植民地支配への疑問、アジア諸民族への配慮の視点は、その当時に出来ていたものとは思えない。それは、戦後の民主主義と平等思想のなかで、高等学校に入る頃までに、なんとなく出来上がってきたものでないかと思われる。朝鮮戦争時のアメリカの宣伝映画が奇妙な影響を私に与えてことについては、すでに述べてある。以上が、大学2年生(1957年)のときに、専門として国際関係論を選択し、のちに研究者として平和研究に関心をもつことの原体験である。私が大学に入学したのは、1956年(昭和31年)であり、朝鮮戦争は終わっていた(1953年7月休戦協定)。
第2部 戦後期(1945年~1990年) 第2部では、1945年以降の戦後期に関連して、私の個人史を述べるが、この時期には私は基本的に成人になっていた。叙述の順番は、(1)戦後日本での「戦争と平和」の問題について、主な歴史的事実の確認、(2)私の個人的体験と、事実についての私なりの理解・解釈の試みを提示することである。 (1)歴史的事実の展開 第二次大戦後、日本を取り巻く国際関係との関連で、① 日本の平和憲法、②アジア諸民族の独立、③冷戦の国際的体制、④冷戦の中の朝鮮戦争とベトナム戦争、⑤冷戦の中の核戦争の脅威、⑥社会主義国間の対立、⑦先進国間協調に注目したい。《省略》 (2) 個人的体験と事実の解釈 ① 平和憲法 私は、平和憲法の理念を高く評価している。しかし、この理念が実際に政策として、全面的に実行されたことがないことも事実である。平和憲法に規制された自衛隊の「専守防衛」と、日米安保による米軍の攻撃力が、戦後日本の安全保障政策の基盤となってきた。この「現実主義」的政策がどこまで有効かも、実際には検証されていない。私の解釈では、平和憲法の機能は、自衛隊と日米安保を一定の枠内に規制することであった。 ② アジア諸民族の独立 大学2年生の後期に、国際関係論の専門科目として最初に受講したのが、江口朴郎教授の「国際政治史」である。この講義から得たのが「国際的契機を考えること」「民衆の立場で考えること」「アジア、アフリカ諸民族の独立運動を評価すること」である。この講義によって、これまでの私の問題意識が整理された。当時私が関心をもったのは、平和五原則(1954年6月)であり、インド・ネルー首相の中立外交であった。しかし、当時の私には気がつかなかったのは、インドも中国も多民族国家であることであり、その他のアジア諸国もほとんどが多民族国家であることである。このとき、私は民族運動を近代ヨーロッパの帝国主義への反対の契機でみすぎていたことになる。多文化主義、多民族主義に気づくのは、1980年代に大学院生の指導を通じてである。その反面で、私は比較的早めに台湾、韓国などの経済成長に注目していた。アジア・ニーズ(NIES)の輸出志向型工業化戦略は、従来の経済理論では予測できないものであった。 ③ 冷戦の国際的体制 私が大学院に進学した1960年(昭和35年)は、安保闘争の年であった。修士課程の1年生のときは、前期は、かなりの回数を安保反対デモで、国会に向かっていた。これは、当時の大学院生として、ごく平凡な行動であった。6月15日は、東大生の樺美智子さんが、国会敷地内突入でなくなった日であるが、その日の夕方、私は「きょうはなにも起こらないだろうな」と思って、国会デモから帰ってきた。やや遅めの夕食を東大前の落第横丁のラーメン屋で取っていたとき、テレビで彼女の訃報を知ったことを覚えている。私の理解では、安保闘争のデモが盛り上がったのは、安保の細かい内容よりも、反米意識と、岸内閣の非民主的態度への怒りであった。しかし、沖縄の米軍基地周辺の人々にとっては、安保体制は、米軍機の離発着、米軍の軍事演習、さらには一般市民への暴行など、人々の日常的安全を奪うものであり続けている。 冷戦での米ソ間の対立点は、イデオロギー、社会体制、パワー・ポリティクス、および勢力圏の争いであった。対立は、冷戦のプリズムでもって、すべてを解釈する冷戦史観によって、強化されていた。いま反省してみると、私は冷戦の国際的枠組みをみるのに、イデオロギー、社会体制、勢力圏争いに目が行き過ぎていて、単一の国家としてどこの国にも認められるパワー・ポリティクスを軽視していた。 いまになってみると、社会主義国の計画経済は、結局成功しなかった。今日では中国もベトナムも市場原理を採用している。しかし、少なくとも、1960年代までは、ソ連の経済成長は目覚しいものがあったことも事実である。 ④ 冷戦の中の朝鮮戦争とベトナム戦争 朝鮮戦争は、ちょうど私の中学時代であった。上述のナトコ映画以外に、田舎の中学生として、それ以上の関心をもちようがなかった。しかし、戦後日本経済の回復に、朝鮮戦争の特需があったことは、大学に入ったころには、知識としてもっていたように思う。 ベトナム戦争反対では、東京でデモに2~3回行っているかもしれないが、デモに行った記憶はあまり強く残っていない。1969年(昭和44年)9月から1971年(昭和46年)8月まで、アメリカ・シアトルのワシントン大学に留学していたが、1970年秋に大学で学生間にベトナム反戦運動が盛り上がり、集会が開かれ、シアトルの市街へもデモが繰り出された。このとき、デモのなかにいて逮捕されると、留学生として厄介なことになることを恐れて、デモと一緒に歩道を歩いていたことを覚えている。 アメリカに行く以前は、アメリカ人をすべて反米の色眼鏡をかけて見ていた。しかし、アメリカで、アメリカ人にも、いろいろといることを学んだ。自国のベトナム戦争に反対するアメリカ人の存在は、ある意味では衝撃的であった。アメリカ人をすべて一色で見ていけないことを知ると同時に、自国政府への反対の声を国内で認めるアメリカ民主主義の強さをみていた。 ベトナム戦争にソ連のアフガニスタン侵略(アフガニスタン戦争、1979年末~89年)を合わせてみると、ベトナムの民族解放統一戦線、アフガニスタンのムジャヒディンと、ゲリラは侵略者に対して強かった。かつての日中戦争で中国紅軍のゲリラ戦も強かった。しかし、ここで付け加えておくべきことは、冷戦終結後の世界各地の内戦や民族紛争で、ゲリラの性格が変わってきていることである。ゲリラには、反人民的な側面が出ていることである。同じゲリラといっても、時代によって、性格が変わることを、この頃、感じている。 ⑤ 冷戦の中の核戦争の危機 私は、核兵器廃絶を支持する。通常兵器の大幅削減を支持する。しかし、他国が核兵器を持っている(あるいは持ちそうである)という状況で、一国が一方的に核兵器を廃絶することはないと思っている。通常兵器についても、同様のことがいえる。 どこの国の核兵器は許されて、どこの国の兵器は許されないかという議論(かつての原水協・原水禁の対立)は、私は好まない。むしろ大切なことは、兵器があっても、それが使われそうにない政治的・経済的・社会的状況をつくり出すことである。現在、米ロとも大量の核兵器をもっているが、米ロ間で核戦争の危機が叫ばれていない。この関連で危険なのは、どこにも見られる声高なナショナリズムである。 私としては世界に伝えたいことは、(1)核兵器には通常兵器と違って残留放射線や体内被曝があること、(2)今日の基準で言えば、小型の戦術核兵器に相当する広島・長崎の原爆(TNT火薬換算で13kt、22kt程度)でも、あれほどの被害をもたらすことである。 1962年(昭和37年)10月~11月のキューバ危機については、私の危機感は薄かった。このことは、認めておかねばならない。それは、遠い世界のことと思ったからかもしれない。 ⑥ 社会主義国間の対立 私の思想には、マルクス主義の影響が強い。マルクス主義によれば、社会主義国間では戦争は起こらないはずであった。しかし、中ソ論争・対立、中ソ国境での武力紛争や、中越戦争が起こった。とくに、1979年の中国のベトナム侵攻は、衝撃的であった。 1959年~1960年の中ソ論争・対立、1969年の中ソ国境紛争は、新聞、雑誌、書物で知ってはいても、リアリティに欠けていた。このことを思い知らされたのは、1990年代に、中国からの留学生の教え子に山東省青島を案内してもらったときに、山に掘った横穴が商店街になっているのだが、それがもともとソ連から攻撃を受けた場合の防空壕であると教えてもらったときである。北京の地下鉄が深いところを走っており、それが対ソ戦むけのシェルターであることは、まえから知っていた。しかし、青島の防空壕は、対立の深刻さを象徴しているように思えた。国家間のパワー・ポリティクスは、国家体制に関係なく、強固である。このことは無視できない。 ⑦ 先進国間の国際協調 第二次大戦後に、帝国主義戦争が起こっていないことは、素晴らしいことである。アジア・ニーズ、アセアン諸国、中国、インドの経済発展に注目すると、かつては帝国主義の侵略の尖兵であった外国資本の意味が違ってきている。それは、正確には、資本の性格が変わったからというよりも、外国資本を受け入れる側の国家体制が確立したからであろう。もう一つ大切なことは、国際関係で、NGO、市民運動や個人など、トランズナショナルなアクターが登場していることである。戦後の国際社会で、国際人権の思想が強まってきていることも、見落とせない変化である。 ⑧ まとめ この時期には、戦争そのものへの接触や実感はない。例えば、キューバ危機への危機感は弱かった。戦争に対する態度は、少年期までの学習と、大学生からの勉強と研究によって形成されている。平和憲法を支持するのは、戦前の体験から形成された平和主義にもとづいている。大学生からの知識吸収は、ほとんどがテキスト、研究書、研究論文などの学習によっている。そこには、マルクス主義の影響と、アジア民族の独立への期待が強く、ゲリラ戦に現れる民族的抵抗の評価が高かった。これらに加えて、私の見方を補強してきたのは、アメリカでの民主主義の実感、沖縄の現地で感じた米軍基地からの日常的暴力性や、学問と現地で見聞した世界各地の多民族主義、多文化主義の事実と傾向である。しかし、その反面で現実の国際政治・経済をみるときに、パワー・ポリティクスや市場経済で見る視点が弱い。私も、現実の国際関係が国家間の暴力と利益の場であると思っている。私の立場は、このことを認めたうえで、非軍事的解決方法を探るものである。そのためには、できるだけ普通の人々、あるいはNGOや市民運動から問題を考えるようにしている。ただし、ナショナリズムのもつ排他性については、きわめて否定的である。また、問題の軍事的な短期的解決よりも、経済的、政治的な長期的解決の方が、結局政治的に効果的であると思っている。 結びに代えて 以上のように、私の個人史を振りかってみると、「戦争と平和」に関連して、私の体験、見識、知識が大変に限定されたものであることが、明らかになった。皆さんのまえで、お話できるほどの内容を持たないことを知り、赤面のいたりである。 皆様方は、それぞれ立派な個人史をお書きになれるのでないか、と思う。藤田敬治監修『脳を活性化する自分史年表』(出窓社、1365円)を使われると、年ごとに見開きで左ページがその年の出来事、右ページが罫紙で白紙、書き込み用となっていて、大変にまとめやすいであろう。個人史のすすめが、ここで申し上げたいことの第1点である。 次に私の個人史を全体的にみて、反省点を述べておく。私の場合、そしておそらく大多数の日本人にとって、戦争に関する事項が、1945年を境として、まったく変化していることである。戦前は、日本の戦争であり、戦後は、日本が関係していても、間接的なかかわりの戦争である。戦前期では、非戦闘員であった私の記憶は、戦争の被害に傾いていく。しかし、戦争が他国の人々に与えた被害については、私の目を向けにくい。戦後直後の平和主義が、戦争の被害者としての視点に大きく支えられている。他者に与えた被害を知るのは、個人の実体験よりも、後年に学んだ知識であった。さらに戦後期には、戦争の危険が私にとって、もっと間接的になる。したがって、戦争と平和を論じる視点が、抽象化された理論に左右されてしまう。個人というミクロの実体験と知識体験からだけで、自分の周囲の事実を理解し、解釈してはいけない。もっと個人の体験、見聞と、国家の政策との間のつながりを確認していくことが、大切である。これは、自分の反省点である。 第三に、私の態度に見られるジレンマについて、言及しておきたい。私は、長期的にみて、軍事力では政治問題、社会問題は解決できない、と思っている。長期的見通しなしに、軍事力を使うことは、戦前の日本、ベトナム戦争でのアメリカのように、関係諸国の人々に種々の意味で悲劇をもたらす。しかし、短期的にみて、軍事力を無視できないことも事実である。戦前日本の軍国主義を止めるには、アメリカの軍事力は有効であった。しかし、アメリカの日本占領が成功したのは、アメリカの政治理念の力、経済の力、文化の力であったからである、と思われる。明治の思想家中江兆民は『三酔人経綸問答』のなかで、理想主義についても、武力主義についても、「過慮」を戒めている。極論が非現実的になることに注意している。私もこの立場に賛成である。しかし、すべての視点を相対化してしまうことはできない。戦後で考える場合に大切なことは、通時的な現象で、目に見えにくい現象に注目することである。先進国間の戦争がないこと、外国資本の機能する政治的環境が根本的に変化したこと、さらに国際的人権思想が世界的に確立しつつあることを見落してはいけない、と思う。これに加えて、パワー・ポリティクスとか、市場原理とか、古典的な政治原理、経済原理が今日でも強力であることを、認めておかねばならない。ナショナリズムは、今日でも強力であるが、国際関係を不安定にするものである。不変のことと、変わっていることの両方を見据えて「戦争と平和」の問題を考えることは、至難のことであるが、これからも続けていきたい。 最後に、関門トンネルと関門橋について、「戦争と平和」という視点から、私見を述べておきたい。門司駅は、鹿児島本線と日豊線の終点であり、山陽本線の終点は下関であって、門司と下関の間には、連絡船が行き来していた。しかし、すでに1942年(昭和17年)11月に山陽本線の関門トンネルで、旅客の運輸営業が開始されており、門司駅はかなり西側に移り、これまでの門司駅は門司港駅に改称された。関門トンネル開通の話は、幼い時の記憶に残っている。現在も門司港駅は立派であるが、かつての賑やかさはない。現在、その周辺はレトロ観光の名所として復活してきている。 戦後、1958年(昭和33年)3月に関門国道トンネル(上は歩道、下は自動車道)が開通し、1973年(昭和48年)11月に関門橋が開通している。海底トンネルが戦争時の象徴とすれば、大橋は平和時の象徴といえる。空爆された場合、橋は落ちやすいが、地下トンネルは空爆しにくいからである。もっとも最近の鉄道は高架線が多く、高架線は橋の連続であるから、地震だけでなく、戦争にも大変に脆弱であることになる。 私が大変に好きな場所として、下関の火の山がある。その回転展望台から関門橋と壇ノ浦を見下ろしていると、時間の経つのも忘れる。ぜひ、レトロ門司を観光され、それと合わせて、門司・唐戸間の連絡船で下関にわたり、火の山に行ってください。そこには平和で静かな世界がある。
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