平成17年度
熟年大学
第9回
一般教養公開講座
於:SAYAKA小ホール
平成18年2月16日
古代日韓の文化交流について
~前方後円墳を中心に~
元高野山大学 教授
堀田 啓一 氏
講演要旨 中国大陸の古代王朝の盛衰が、朝鮮半島や日本列島の周辺諸国に王権の強化による古代国家形成を進めました。 この国家形成過程を、考古学的資料を通じて墓制を中心に文化交流の真実をあきらかにしてみたいと思います。 |
||||
14時7分講演開始~ 韓国では、全羅南道から全羅北道にかけて前方後円墳がありますが、前方後円墳という呼び方に抵抗を感じる研究者も居られ、古墳のカタチが韓国や朝鮮の太鼓(チャンゴ)に似ていることから長鼓山(チャンゴサン)と呼ぶ人が多いようです。 日本では昔から、前方後円を茶臼山とか車塚という具合の呼び方をしています。 1999年に韓国の前方後円墳に関る国際シンポジュームがあったのですが、百済研究所長のソン・ツーテク氏が送ってくれたレジメと、2000年の全羅南道地域の古墳群測量報告書がありますので、会場に回しますからご覧ください。 問題の所在 学問はある程度の時間と、資料、歴史に対する関心度や、歴史環境による変化が重要な役割を持って進んでいきますので、韓国に前方後円墳が一地域にしかないと言うことは、ある時期を限って日本の文化と密接な交流をしていたことを実証する考古学的な研究材料といえます。 最近韓国では自分たちの歴史を再発見して、先祖が作り上げてきた文献にない実体をあきらかにしようとする動き強いのです。 同時に最近の学者の中には、日本列島や高句麗や中国大陸との関連性が如何なるものであったか、朝鮮半島という中国大陸と日本列島の橋渡しをする地理的に重要な位置の地域でどのような古代の文化があったのかを、真剣に考える学者が最近増えています。 時間的歴史環境の変化が背景となる姜仁求氏の業績「嶺大新聞」(1983・6・22)固城・松鶴洞1号墳、前方後円墳発見の意義を「三国時代墳丘墓研究」(1984・1.30嶺南大民族文化研究所)2002年9月東亜大調査(3基の円墳) 14時47分~ さて、今日の本題の前方後円墳に絞ってこれからお話します。 その順序をつぎの Ⅰ.前方後円墳の実体と歴史・地理的環境 Ⅱ.前方後円墳の出土遺物の検討 Ⅲ.前方後円墳の被葬者 三点に絞ります。 以下レジメに従った平行説明展開 Ⅰ.前方後円墳の実体と歴史・地理的環境 1.韓国の前方後円墳の実体(現在の発見例は総数が12基)②表1参照 A) 墳丘規模: 海南・長鼓嶺古墳76m全長最大(高さ10m)。成平・長鼓山古墳全長66m各片高敞・七岩里古墳55m、咸平・新徳1号墳51m(計2基)40m級3基(杓山46,月桂洞1号45.3m、龍頭(マルムドム)里古墳40、30m級5基で50%を占める特徴。 B) 外部施設: 周堀・痕跡7基(58.3%)円筒形土器・埴輪5基(41.7%)葺石3基(25%) (小結)内部構造に石室10基(83.3%)倭と比較し中小規模。5世紀後半~6世紀前半首長層 2 古墳の歴史的・地理的環境 ①の分布図2参照 A) 立地条件 ①全羅北道西南(高敞一基)海岸の最北端、他は全て全羅南道の海岸部と栄山江と光州直轄市域と周辺部に点在する。 ②海岸部近辺(河川部含む)六基。栄山江流域とさかのぼった内陸平野部六基の比率5:5 B) 歴史・地理的環境: ①前方後円墳の出現は、従来の在地勢力や首長古墳が見られらい地域に、突如として出現造営されている。 ②出現地域は5世紀代の古墳空白地域 (小結) 墳形、規模からみて、北部九州や有明海沿岸地域の首長古墳と密接な関係。 Ⅱ.前方後円墳の出土遺物の検討 1.発掘調査された古墳(試掘調査一基を含め合計六基)②④⑤⑥資料参照 A) 新徳古墳: 装身具、武器、武具、馬具、農工具、棺金具、土器類、多数の出土品。 装身具(明花洞、月桂洞1、2号、チャラボン) 武器(明花洞、月桂洞1号、チャラボン) 馬具(明花洞) 農工具(明花洞、月桂洞1、2号、チャラボン) 棺金具(月桂洞1号) 土器類(明花洞、月田、チャラボン、長鼓峯) B) 埴輪(円筒形土器)(朝顔形)(壷形)(形象)四種、七基前方後円墳より出土。 1. 円筒のみ(明花洞、咸平、長鼓山、マルムドム、七岩里四基) 2. 円筒と朝顔伴出(月桂1,2の二基) 3. 円筒と形象?(長鼓峯一基、壷形埴輪(全て円墳で在地系首長層の喪葬儀礼) C) 木製品(楯形、笠形2種)と月桂洞1号墳の周濠出土遺物。 楯形、石見型木製品は頭部退化形式。 笠形木製品は裏面に方形孔特色(六世紀 第二四半) (小結) 在地系、百済系、倭系の文物混在。 最多の年代六世紀第1四半期に前方後円墳築造時期。 Ⅲ.前方後円墳の被葬者像 (林永珍「韓国長鼓墳の被葬者と築造背景 『考古学雑誌』89-1 向井克也訳 平成17年1月 日本考古学会) A) 土着勢力説(7人の見解) a) 日本人:土生田純之1996、岡内三眞1996、小栗明彦2000、田中敏明2000 b) 韓国:朴淳霞1998、金洛中2000、申大坤2001、「栄山江流域に散在土着勢力が百済の南下の圧迫の中、倭と交流して前方後円墳を突破口に導入した」 B) 百済から派遣された倭人説 a) 日本人: 山尾幸久2001、柳沢一夫2001 b) 韓国: 朱甫敦2000、 朴天秀2002、「百済の熊津(公州)遷都(475)後、栄山流域の支配力低下を牽制するため、倭系百済官僚が築造したとする見解」 C) 少数見解 a)日本から派遣された倭人説(東潮1995) b) 日本から亡命倭人説(林永珍1994,1996) 磐井の反乱(527~8) 大伴金村の失政)(欽明)加耶滅亡(562) 【総括と展望】 栄山流域と百済新羅加耶抗争(朴天秀「栄山流域における前方後円墳が提議する諸問題」(『日本史の研究』206.山川出版社2004・9より。 倭国内での大和政権と北九州勢力の葛藤とか、瀬戸内中央部地方の吉備の反乱とか、こういういろいろな連合政権や大王権が確立していく動きが、こういった地域(前述の韓国全羅南道に)前方後円墳を作らせていった、そのように考えて行くことにひとつの意義が見出せないだろうか、私はそのように考えています。 ~16時7分 |