私たちは没後8年のいまも司馬さんを読み、感動します。また、司馬さんをもっと知りたいと慕う人も数多くおられます。ちょうど今から一週間前の、2月12日は司馬さんの命日で、第8回菜の花忌の催しが東京・日比谷公会堂で開かれましたが、定員2000人の会場がほぼ満員でした。
菜の花忌の催しは、東京、大阪で交互に開かれていますが、このように毎回、多数の人が参加されます。
書店をのぞきますと、書棚の「司馬コーナー」は依然として広く開設されていますし、司馬さんの本が再編集されたり、装丁を改めたりして、新刊書のようにうず高く並んでいます。司馬文学の研究書も、毎年、多く出版されております。
研究書のほとんどは司馬さんへの賛辞に包まれています。最近、司馬さんを客観的に評価しようと試みる書物も出てきましたが、その文中にも、これを司馬さんに読んでほしかった、という敬慕の言葉が見られることがあります。
文学の評価で、どれほど多くの人が読んだかということのほかに、どういう人々が読んで感銘を受けたか、ということがあります。司馬作品は日本の政財界、文化界のトップクラスがほとんど愛読書にあげています。また海外の指導者たちでも、司馬さんを読んでいる人が少なくありません。もちろん、私自身のような一般の市民も広く読んでいるわけで、これを踏まえて、司馬さんは明治以降、最も重要な作家であり、思想家である、という向きさえあります。
▼そのような重要な存在である司馬さんは、どのようにして形成されたのか。
司馬さんは大阪市浪速区の生まれですが、生後まもなく、二上山の麓にある母の実家に預けられ、三歳までそこで育ちました。乳児脚気の治療のためといわれます。
ここで司馬さんは肉親の愛情だけでなく、近隣の人々からの愛情も受けながら育ちました。それが司馬作品の、合理的なしかしすべての人への優しさに溢れた特質になって表れたとみることができます。
育った所が歴史の遺産に恵まれていたこと、司馬さんの家庭が規格どおりの学校教育より、自由な発想を尊んでいたこともまた司馬さんに影響したと思われます。
▼その司馬さんは私達に何をもたらしたのか、ということですが、その前に、司馬さんの作品を年代別におさらいしてみます。
初 期 直木賞受賞以前
第1期 忍者小説 「梟の城」「最後の伊賀者」など。
第2期 歴史上の人物を描く小説 「竜馬がゆく」「燃えよ剣」「国盗り物語」など
第3期 歴史の流れを重く見た小説。「坂の上の雲」「菜の花の沖」など
第4期 文明批評的なエッセイ。「この国のかたち」「風塵抄」など
に分類されるでしょう。
第1期はその面白さで読者を魅了しました。第2期からはその主人公の活躍で読者を励まし続けました。日本人全体が励まされました。 第4期の文明批評ではニッポンという国の未来を絶えず心にかけていました。
司馬さんは、自由な気分に溢れた大阪人でしたが、戦争で無残に押しつぶされそうになりました。学徒出陣で満州の戦車隊にいたころ、南方の第一線への派遣を志願しました。それが拒否され終戦の直前に本土防衛のため内地へ送還されました。戦後になって初めて人間としての自由を取り戻しました。従って、戦後民主主義を高く評価していました。ところが、高度成長が極まって土地ブーム、成金ムードが日本を覆いました。外国に行っても非常に傲慢な日本人が見られました。
もう日本は発展しないのではないか。その憂いが亡くなる間際まで続きました。 それが、生を終える直前まで書き続けるエネルギーの源になったと思われます。
▼司馬作品以外にも、歴史小説、時代小説は数多くあります。そのなかで司馬作品はなぜ高い人気を保ちつづけるのか。それは、司馬作品は過去を扱いながら現代を感じさせるからです。読者は過去の出来事をあたかも現代の身の回りのことのように読んでゆけます。いつの間にか、現代の同じような出来事、同じような人物と引き比べて読んでいるのに気づきます
たとえば「坂の上の雲」「竜馬がゆく」には、頑迷な上司が出てきて、若い有望な人の芽を摘み、生命までおびやかす状況がでてきます。これを読む現代の人々は自然に、自分たちの上司や会社の組織と比べて見ることになります
ここで歴史小説が、現代小説になるわけです。現代を読むことは、未来につながります。司馬作品は、歴史と現代と未来をつなぐ立体構造として読まれることになります。小説だけでなく、評論でも同じ現象が発見されます。
▼いまコンピューターの普及で、地球上で同じことが同時並行的に進むパラレル・リアリティの世界が現れてきたといわれます。司馬さんの作品はコンピューター時代以前にスタートしながら、すでにこのParallel Realityの魅力である、時と所を越えた同時進行現象を含有していた作品群である、とも言えます。
ここにおいて、いま日本が置かれている状況について、司馬さんはどう言われるか、うかがいたい気になるのは私だけではないでしょう。
最後に朗読いたします。司馬さんが小学生の国語教科書に書き下ろした作品のひとつ、「21世紀に生きる君たちへ」という長い文章の一部です。
私の人生は、すでに持ち時間が少ない。例えば、21世紀というものを見ることができないにちがいない。
君たちは、ちがう。
21世紀をたっぷり見ることができるばかりか、そのかがやかしいにない手でもある。
もし「未来」という町角で、私が君たちを呼びとめることができたら、どんなにいいだろう。
「田中君、ちょっとうかがいますが、あなたが今歩いている21世紀とは、どんな世の中でしょう。」
そのように質問して君たちに教えてもらいたいのだが、ただ残念にも、その「未来」という町角には、私はもういない。
この「田中君」とは私自身に呼びかけられているのか、と錯覚することがあります。もちろん、そうではなく、すべての若い世代に呼びかけられているのですが、私も21世紀をたっぷりみて司馬さんに報告したいと思います
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