第9回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA大ホール
2025年2月20日

『日本書紀』の世界
ーヤマトタケルノミコトの物語からー

 

皇學館大學研究開発推進センター教授
荊木 美行 氏

講演要旨

『日本書紀』という古典には、どんなことが書かれているのでしょうか。

今回の講演では、悲劇の皇子ヤマトタケルノミコトの物語を取り上げ、その真実に迫りたいと思います。 


記紀とはなにか? 
 はじめまして。ただいまご紹介にあずかりました皇學館大学の荊木です。本日は、この大阪狭山市熟年大学一般教養公開講座にお招きいただき、嬉しく存じます。私は、駆け出しのころ、この南海高野線沿線の大学に出講していたことがございます。車窓から沿線の風景を眺めていますと、懐かしい昔が蘇ってまいります。

 さて、本日の私のお話は、『古事記』や『日本書紀』(この二つを併せて「記紀」と称することがあります)といった歴史書に記された12代景行天皇(代数は記紀に拠っています。以下もおなじ)やその皇子ヤマトタケルノミコト(実名は「小碓命」。漢字だと「日本武尊」「倭建命」など複数の表記がありますから、カタカナで書くことにします)が、国土平定のために奔走したという伝承を取り上げたいと思います。

 お二人の伝承についてお話しする前に、あまり馴染みがないと思いますので、そうした伝承を記した『古事記』『日本書紀』という書物について、少し説明しておきます。

まず、『古事記』ですが、こちらは全3巻からなる歴史書です。上巻は神代、中巻は初代の神武天皇から15代応神天皇、下巻は16代仁徳天皇から33代推古天皇の時代、をそれぞれ取り扱っています。『古事記』の材料となったのは、神話を筆録した「旧辞」と、歴代天皇の事蹟を綴った「帝紀」という書物です。

『古事記』は、7世紀後半に天武天皇が編纂に着手しましたが、天皇はその作業を全うすることなく、崩御されました。今に伝えられる『古事記』は、残された草稿をのちに太安万侶が整理したもので、和銅5年(712)に完成しました。

いっぽう、『日本書紀』のほうは、『古事記』に遅れること8年、養老4年(720)完成した歴史書です。『古事記』とおなじく神代の昔から筆を起こし、神武天皇から40代持統天皇までの歴史を全30巻にまとめています。こちらも、天武天皇の発案により編纂が始まった書物で、帝紀・旧辞を材料としているところは『古事記』とおなじです。しかし、『日本書紀』は、ほかにもたくさんの資料を駆使していますから、『古事記』より内容が豊富です。おなじ天皇の時代に企画され、ともに帝紀と旧辞を主たる材料としていることからもおわかりのように、記紀は密接な関係にあります。ただ、両者の関係性については不明な点が少なくありません。

景行天皇とヤマトタケルの物語 
 今日のお話の主役であるヤマトタケルノミコトは、先にもふれたように、景行天皇の皇子です。景行天皇とヤマトタケルノミコトのことは、『古事記』にも『日本書紀』にも詳しく記されています。記紀の記すところでは、崇神天皇(10代)・垂仁天皇(11代)、そして景行天皇の治世は、ヤマト王権の勢力が飛躍的に拡大した時期ですが、とりわけ、景行天皇朝は、天皇やその皇子であるヤマトタケルノミコトが東奔西走して、ヤマト王権の版図を拡大した時代として描かれています。

この点についてもう少し詳しく申し上げますと、景行天皇については、九州地方に親征したことが『日本書紀』に出ていますし、ヤマトタケルノミコトについても、九州の熊襲や東国の蝦夷を平定したという話が『古事記』と『日本書紀』とも載せられています。

ただ、景行天皇・ヤマトタケルノミコト親子の東征・西征伝承は、記紀のあいだで少し出入りがあります。

 まず、『古事記』には景行天皇の西征の話がみえません。あるのは、ヤマトタケルノミコトの西征と東征の話だけです。女性に扮して宴会に紛れ込み、熊襲建を討つ話や、相模で野火の難に遭われたとき、叔母の倭姫命からもらった火打石と草薙剣でピンチを脱した話はよく知られています。また、弟橘比売命が人身御供となって入水する話は、以前に上皇后陛下が『橋をかける』というご本で紹介なさったことがありますから、ご記憶のかたも多いかと思います。

 つぎに『日本書紀』のほうですが、こちらは、まず『古事記』にはない景行天皇の西征譚を掲げ、ついでヤマトタケルノミコトの熊襲征伐譚を記しています。さらに、九州から帰ったヤマトタケルノミコトは、休む間もなく蝦夷征討に赴いた話があげられていますが、彼の西征・東征伝承は『古事記』とほぼおなじです。

 ただ、『古事記』では、西征の帰りにさらに出雲に入り、出雲建を騙し討ちしたことになっていますが、この話は『日本書紀』にはみえません。しかし、『日本書紀』では、崇神天皇の時代に武渟川別命と吉備津彦という、別な人物が出雲振根を討った話がみえています。『古事記』の出雲建征伐の話は、これがヤマトタケルノミコトの手柄話として語られた異伝です。

 このように、ヤマトタケルノミコトの武勇伝には記紀のあいだで多少の出入りがあるのですが、私は、ヤマトタケルノミコトの熊襲征伐は、景行天皇のそれをもとに作られた話ではないかと考えています。すなわち、彼の熊襲征伐の話は、「ヤマトタケルノミコトも父上〔景行天皇〕のように九州征伐に赴かれたはずだ」という人々の思いから生まれた物語で、実際に西征に赴かれたわけではないと思うのです。

 記紀を読んでいきますと、景行天皇の西征譚にはリアリティがありますし、ヤマトタケルノミコトの東征譚も具体的です(記紀ともに、内容はほぼおなじ)。これに対し、ヤマトタケルノミコトの西征譚は、自身の東征や景行天皇の西征の話にくらべると、内容が貧相です。映画の『日本誕生』にもありましたが(当日、一部を上映)、女装して熊襲建兄弟を討つという話も、なんだか芝居がかっていてリアリティに缺けます。

詳しくお話しする餘裕はありませんが、私は、古くから伝えられていたのは、景行天皇の西征譚とヤマトタケルノミコトの東征譚の二つで、それが伝承の過程で次第に改変され、膨らんでいったのではないかとみています。ヤマトタケルノミコトは、国土平定に力を尽くした〝英雄でしたから、後世、いろいろな人の事蹟が彼の手柄話のように語られることがあったのではないでしょうか。

遠征は史実か? 
 では、私が比較的古い言い伝えではないかと考えている景行天皇の西征譚とヤマトタケルノミコトの東征譚とは、どこまで史実を伝えたものなのでしょうか。つぎに、この点についてお話ししたいと思いますが、記紀の記述だけでははっきりしたことはわかりません。そこで、別な角度からこの問題を考えてみましょう。

 征討譚の史実性を考えるうえで私が注目しているのは、各地に存在する「畿内型古墳」です。

古墳、わけても前方後円墳は全国各地に分布していますが、それらは一定の規格にもとづいて築造されています。「前方後円」という特殊な墳形だけでなく、埋葬施設や副葬品においてもきわめて画一的な様相を呈しています。

こうしたヤマト王権特有の墳墓を「畿内型古墳」と呼ぶのですが、そこに統一的な規格がみられるのは、各地の地域政権がヤマト王権と従属的な同盟関係を結んだ結果だと考えられます。言い換えれば、各地の豪族は、ヤマト王権の傘下に入ることによって、彼らのシンボルともいえる墳墓を営むことを許されたのです。

興味深いことに、景行天皇の西征譚とヤマトタケルノミコトの東征譚の経路として記紀に登場する場所には、4世紀代の「畿内型古墳」が濃厚に分布しています。今すべてを紹介することはできませんが、西征のルートで
いうと、赤塚(あかつか)古墳(大分県宇佐市高森赤塚)・石塚山(いしづかやま)古墳(福岡県京都郡苅田町富久町小熊山(おぐまやま)古墳(大分県杵築市狩宿亀甲山(きっこうさん)古墳(大分市志手)・猫塚古墳(大分市大字本神崎字中ノ原)・七ツ森号墳
(大分県竹田市菅生(すごう))・仏原千人塚1号墳(大分県竹田市久住町大字久住)、そして生目(いきめ)古墳群(宮崎市跡江地区)などがあげられます。また、東征の例でいうと、松林山(しょうりんざん)古墳(静岡県磐田市新貝)・谷津山(やつやま)古墳(静岡市葵区柚木・春日・沓谷)・三池平(みいけだいら)古墳(静岡市清水区山切)・大丸山古墳と甲斐銚子山古墳(山梨県甲府市下曽根町)・南社(みなみやしろ)古墳と中社(なかやしろ)古墳(名古屋市守山区上志段味東谷)能褒野大塚(のばのおうつか)古墳(三重県亀山市田村町)などがあげられます。

このなかでとくに注目されるのが、生目古墳群にある生目3号墳と三重県亀山市の能褒野大塚古墳です。

まず、生目3号墳ですが、この古墳は4世紀後半に築造されたとみられるもので、墳丘長が143㍍もあり、九州最大規模の前方後円墳です。しかも、その墳丘は、王族墓特有の三段築成です。記紀には、景行天皇がながく日向に滞在し、土地の豪族の娘を妃にしたという伝承が記されていますから、ここに生目3号墳が存在することは見逃せません。

つぎに、能褒野大塚古墳ですが、こちらも4世紀後半の築造とみられ、やはり三段築成です。記紀によりますと、ヤマトタケルノミコトは伊勢の鈴鹿郡の能褒野で亡くなったとありますから、ヤマトタケルノミコト終焉の地と伝えられる土地に、王族墓とおぼしき前方後円墳が存在することは、偶然とは思えません。現に、この古墳はヤマトタケルノミコト墓の有力候補と目されています。

問題は、こうした古墳が築造された時期と、景行天皇朝の年代とが合致するかどうかです。

時間の都合で詳しくご説明できないのですが、私は、記紀に景行天皇・ヤマトタケルノミコトとしてみえる王族は、実年代でいえば4世紀後半の人物だと推測しています。以下、そう考える理由をご説明します。

初期の天皇の実年代(暦年代)を把握するのは、容易ではありません。『日本書紀』には、神武天皇以後の歴代天皇の即位年が干支で記されていますから、理窟のうえでは、これを西暦に換算すれば実年代が得られるはずです。しかし、『日本書紀』の古い時代の干支は、同書が編纂されたときに新しく与えられたものですから、そのまま利用することはできません。また、『古事記』には、一部の天皇について崩年干支(崩御の年を干支で記したもので、33人の天皇のうち15人について記載があります)というものが載せられていますが、こちらもたしかなものではありません。

では、これらが信用できないとすると、ほかになにかよい手立てはあるでしょうか。

実年代を推定する方法はいくつか考えられますが、私が採用しているのは、天皇の平均在位年数を用いるやりかたです。

飛鳥・奈良時代の天皇の平均在位年数は10.88年ですが、これを用いて、1代につき10.88年遡ることで、過去の天皇の実年代を推算するのです。安本美典先生が、この方法を用いて、記紀神話に登場する天照大神を邪馬臺国の女王卑弥呼の記憶であるという假説を発表されたことは、よく知られています。本日はこの安本説にはふれませんが、私も、こうした推算によって、初期の天皇のおおよその実年代を把握することができるのではないかと思います。

この方法で重要なのは、遡及の起点を何処におくかという点ですが、私はそうした定点を西暦478年にもとめています。この年は、中国の年号でいえば、昇明2年にあたり、21代雄略天皇(倭王武)が南朝の宋に使者を派遣した年です。私が478年を採用するのは、これが古代天皇の実年代としてはもっとも古く、確実なものだからです。

景行天皇は雄略天皇の9代前の天皇なので、雄略天皇の100年ほど(10.88年×9代≒100)前の天皇(大王)です。そこで、起点となる西暦478年から100を引いてやると、378という年代が得られます。これが景行天皇朝のある年となるわけですから、これによって、景行天皇の治世は4世紀後半に収まると考えてよいでしょう。

 こんなシンプルなやりかたで、本当に実年代が把握できるのかと訝るかたもおられるでしょう。しかし、ほかに適当な方法がない現状では、こうした推算も、大雑把な年代を把握するにはそれなりに有効です。

 ところで、こうした推算によって、景行天皇朝が4世紀後半だとすると、それはうえに紹介した「畿内型古墳」の築かれた時期と符合します。景行天皇らの遠征の結果、各地の政治集団がヤマト王権の傘下に入り、それによって、その首長が「畿内型古墳」を築く資格を得たと考えれば、文献と考古学の成果を整合的に解釈できます。ですから、記紀にみえる景行天皇やヤマトタケルノミコトの征討伝承も、まんざら作り話とは云えないのです。記紀の伝承には、4世紀後半にヤマト王権の勢力拡大に奔走した実在の大王や王族の姿が投影されていると判断してよいのではないでしょうか。

征討伝承の虚実 
 もちろん、こうした伝承は、それを伝えた人々が、自分たちの都合のよいように改変することも考えられます。ヤマトタケルノミコトは国土平定の英雄的存在ですから、彼に対する思い入れが話を歪めることもあったかも知れません。

 私も、記紀に記された話がすべて真実だなどとは思っておりません。一連の征討伝承のなかには、のちに附加されたり、書き変えられた箇所もあったでしょう。しかし、その核心部分には史実が潜んでいるように思うのです。

まもなく戦後80年を迎えようとしています。戦後の日本古代史の研究は、記紀批判から出発したといっても過言ではありません。戦前の皇国史観への反発から、戦後は一転して記紀が厳しい批判に晒されました。その結果、歴代天皇の実在性や事蹟を否定する学説が一世を風靡しました。  

記紀の記述を鵜呑みにすることは慎まねばなりませんが、現代からみて理窟に合わないことを切り捨てて顧みない、戦後の古代史研究には反省すべき点が多いと思います。私は、記紀に書いていることがらの史実性をみずからの手でたしかめることを研究テーマの一つとして、日本古代史の研究に勤しんでまいりましたが、本日みなさまにお話ししたことは、私の研究成果の一端でもあります。いささか専門的な話に流れ、理解しづらい点もあったかと思いますが、微意をお汲み取りいただければ幸いです。

 お約束のお時間も参りましたので、私の話はこれで終わりにさせていただきます。長時間のご清聴、本当にありがとうございました。


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