第4回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA大ホール
2024年9月19日

狭山を通る三本の高野街道
西、下、中高野街道

 

大阪府立狭山池博物館 学芸員

中山 潔 氏

講演要旨

 河内国を南北に通る四本の高野街道とそれらが河内長野で合流し高野山に至る様子と高野詣でについて

お話しします。    


4本の高野街道

河内国には、次の四本の高野街道が通っています。

東高野街道 淀・八幡~洞が峠~生駒西麓~石川左岸~河内長野

中高野街道 (上高野街道)天王寺~平野~松原~美原~狭山~河内         長野

下高野街道 天王寺~田辺~鷹合~矢田~布忍~美原~北野田~狭山         池~狭山

西高野街道 堺~三国丘~中百舌鳥~福田~岩室~茱萸木~河内長野


地理的関係から「東」「西」そしてこの二つの間にあることで「中」と呼ばれていますが、中高野街道は高野街道と対比して高野街道と呼ばれることもあります。すべての道は河内長野で合流し、紀見峠~橋本~九度山~大門(町石道)か、神谷~極楽橋~不動ロ(京大坂道)に至ります。下高野街道は正式な街道ではなく名称も通称あるいは俗称と言えます。いずれも高野山、金剛峯寺を目指す街道でした。このうちの「中」「下」「西」の三本が大阪狭山市を通っています。東高野街道は狭山を通りませんが、石清水の八幡から、筒井順慶が山崎の合戦の際日和見をしたとされる洞が峠を超えて生駒の山裾を南へ下がり東大阪、八尾、柏原を通って大和川を渡り石川谷の谷筋を遡って旧170号線を河内長野までたどる道です。京都から高野山への最短の道筋ではあります。

中高野街道は四天王寺から平野区を通ってまっすぐ南に下り松原に入り三宅から美原を抜けて狭山に入ります。大阪狭山市駅前の踏切から線路沿いに進んで河内長野に向かいます。現在の309号線沿いに加えて府道河内長野美原線を南下する形です。

下高野街道は正式な街道として江戸幕府に認可されたものではなく、記録も残っていません。庶民が便利のために自然と形作ったものです。天王寺に出かけたり、天王寺から田辺や布忍、北野田、狭山などと往来するための街道でした。ちょうど半田交番、報恩寺の前で中高野街道と合流しています。

西高野街道は堺から現在の310号線の元のルート、ちょうどこれが泉州と河内の国境です。岩室付近で天野街道と別れ、今熊に降りて茱萸木の中を進み河内長野を目指します。

東高野街道を加えた4本の街道はすべて河内長野で合流し、紀見峠を越え、橋本を通って九度山に進み、慈尊院から一町ごとに道標の立っている180町の町石道(ちょういしみち)を進んで高野山の大門を過ぎて檀上伽藍にある一町石に向かいます。この道標は、現在は石でできていますが平安・鎌倉時代には木製の五輪塔のようなものでした。文永・弘安年間、ちょうど蒙古襲来のころに鎌倉幕府の上級武士たちが寄進して石のものに換えたものです。番号の付け方は最初が180町で1町(109m)歩くごとに数が減っていくように置かれています。数が減っていく方が励みになるという知恵だろうと思います。これが、空海が高野山を開いた時からの正式な高野参りの道です。しかしこのルートはほぼ1日仕事でかなり労力がかかります。

江戸時代には近道が利用されました。京大坂道と呼んでいます。橋本から直接小さな峠を越えて紀伊神谷から極楽橋を通って不動坂口女人堂に上がる道です。一番の近道で、ほとんどの人はこの道を使ってお参りしていました。


女人禁制

高野山はご承知のように明治5年まで女人禁制でした。しかし高野山の7つのそれぞれの入り口(高野七口)にある女人堂まではいくことができました。かなり多くの女性たちがお参りに行っていたようです。しかし奥の院のある中心部には入れないので女人道を通って一泊あるいは二泊して高野山の盆地をとりまく尾根筋にある女人堂巡りをして高野山の参拝としたのです。
 

高野参りの始まり

修行者以外の高野参りの始まりは平安時代の中頃でした。元来高野山は空海が修行の場として設けたものであり、人里離れた厳しい自然条件や生活条件の中で修業を終えた僧が京都の東寺に迎えられました。高野山と東寺は一対のものと考えられていました。東寺では都の貴族のために加持祈祷をおこなっていて、真言宗の中では出世コースでした。修行僧の出身はやがて天皇家や藤原摂関家などが増加して厳しい修行を避けるようになり、高野山は廃れるようになりました。落雷のため伽藍が焼けてしまっても再建の資力もない、僧が集まらないという状態でした。ちょうどそのころ祈親(きしん)上人という方が、空海が夢枕に立ち、「高野山は私が即身成仏して今も暮らしている。高野山に来て生身の空海と結縁するならば来世の極楽往生は間違いない。弥勒浄土へ往生できる」と告げられたと言い、都の貴族に宣伝して回りました。そして東寺で加持祈祷をしている僧たちに高野山詣でを勧めるようになります。治安三年(1023)に藤原道長がまず高野山詣でに出かけました。そのルートは先にあげた四つの街道はいずれも使わず、京から奈良へ下り、明日香、五条を通って高野山に向かいました。このルートは大和路と呼ばれています。『扶桑略記』にその記録があります。帰路では河内の道明寺に立ちより、四天王寺に参って京都に帰っています。その後、貴族の間で高野山詣では一つのステータスとなり、金峯山(大峰山)での修行と同じく一生の間に行うべきセレモニーとなっていきました。藤原頼通も大和ルートで参拝したことが『宇治関白高野御参詣記』に載っています。さらに院政時代には白河上皇が詣でたことが『高野山御幸御出記』として残っています。大和路以外に和泉路(京都~四天王寺~熊野道・山中越~紀の川~船で遡上~九度山慈尊院~大門)も使われたことが分かっています。これは京都から船で大阪八軒家浜に着いて四天王寺・住吉神社にお参りし、後は熊野街道を使って小栗街道を通って和歌山に入り、そこから船で紀の川を遡り高野山に至るルートです。

当時は金峰山や熊野に参詣する前に50日から100日の精進を行うことになっていました。御岳精進(みたけそうじ)・熊野精進(くまのそうじ)と呼びました。生臭いものは食べない、精進潔斎をして、水を浴びて体を清める、女性との関係も断つなど極めて厳しい難行・苦行をこなしてから参拝しました。しかしながら祈親上人は、高野山詣ではそれほどの厳しい精進はいらないということにしたのです。亡くなった血縁者の供養のために参拝し、遺骨・遺品などを仏像と一緒に預けることができて、生身の弘法大師・空海に結縁するお参りとして特に生活に余裕のある貴族たちを中心に宣伝したのです。こうして道長以降どんどん広がっていきました。鎌倉時代以降になると、高野聖が全国を巡り、死者の供養を勧めるようになっていき、現在の奥之院の景観が作られていったのです。


 参詣に利用されたルート

 東高野街道が利用された記録はほとんど残っていません。中と西の高野街道の記録が残っています。一番遠いはずの西高野街道の記録がかなり多く残っています。

 中高野街道については仁和寺御室聖惠法親王(しょうえほっしんのう)の従僧による「御室御所高野山参詣日記」に記録されています。(仁和寺は代々天皇家から跡継ぎ以外の子弟を住職として迎え入れていたので、仁和寺御室と呼んでいました)

 この日記には「久安4(1148)610日桂川から船で下り、窪津(八軒屋)で上陸、四天王寺にお参りして太秦の広隆寺(仁和寺の末寺)の荘園であった松原庄(河内松原付近)で宿泊し、翌11日松原を立ち、石瀬(いわせ、河内長野市)の仮屋で休息し、慈尊院政所に宿泊し、12日朝、町石道を通って笠木から御影堂に着きました」と書かれています。

仁和寺御室では年中行事として高野参詣を行い、5件の記録が残っていますがこのルートを使ったのは1回だけでした。

 西高野街道を使った例の方が多く、京都の大堰川の港・草津で乗船、窪津で上陸、輿か騎馬で四天王寺に参り、その後「大野の野口」を通り長野に出て、紀伊御坂山(紀見峠)を越えて九度山の政所に泊まるルートでした。大野の野口とは現在の野尻町、大野芝、初芝あたりになりますが、もともとの大野とは狭山の大野(台)から北は現在の初芝あたりまでの広い地域を言います。野尻は大野尻、初芝は大野の芝地の入り口という意味です。鳥羽院に関しての藤原宗忠の『中右記』(長承元年(1132)10月14日天王寺泊15日政所)、藤原頼長による『台記』(久安4年3月天王寺泊~住吉政所泊)などにその様子が描かれています。そして花山院(かさのいん)忠雅・中山忠親の2人が母の藤原家保女の納骨供養のために高野山に参拝した際の中山忠親の日記「山槐記」(往路・保元3年(1158)28日天王寺深夜出発・同日政所に宿泊)によると、30日の復路(政所未明出発・酉刻長野着・宿泊)では魚肉を献じられても食すことなく旅を続け、淀川下流にある遊郭・江口まで行って精進あげをしたと記されています。当時の日記というのは子孫に読ませる意味もあって範を示したと考えられます。(ちなみに藤原忠親を初代とする貴族の家はのちに中山という貴族になります。明治天皇の御母堂の実家です。)このように最低2日は掛かる大和路に比べて天王寺から政所まで50キロをほぼ1日(20時間ほど)で到達しています。

中山忠親については奇しくも700年後の文久三年(1863)、明治天皇の叔父にあたる中山忠光が天誅組の総大将として堺で結集し、五条を目指して同じ道をたどりました。西高野街道を南下して狭山池の堤防を通り、狭山藩陣屋の前、報恩寺で休憩して狭山藩の家老・船越外記を呼びつけて、全国一斉に攘夷の挙兵をするが協力するかと迫りました。困りはてた家老は献金のみを行い狭山の地を後にしていただいた、と記録にあります。忠光は大阪狭山市の駅前から吉野街道のルートを取り、廿山を越えて富田林の甲田に入ります。河内の天誅組の中心人物であり、国学の支持者であった水郡氏宅に集まり観心寺にお参りした後千早峠を越えて五条の代官所へ討ち入りを決行します。警備の薄かった代官所は脆く、代官・鈴木源内は打ち取られました。この中山忠光も奇しくも700年前の忠親と同じ高野街道をたどったことをお伝えしておきます。


 下高野街道を利用した記録は一切見つかっていませんし、正規の道としては記録されていません。堺から根来へ行った記録はあります。室町時代後期に三條西実隆が根来寺に参り、さらに高野山に参詣しています。


 国絵図に載っている官道

江戸時代、4本の髙野街道のうち3本が幕府の管轄下に置かれていました。幕府による正式な国絵図には当時の国道にあたるもの、幕府が管轄している道が載せられています。西に西高野街道、長野に行く途中で合流している中高野街道、さらに長野で合流する東高野街道で、よく見ると地図には黒い点が道の両側に見えますが、これは一里塚です。日よけにケヤキやエノキなどの木が植えられていました。道中奉行が管轄している官道(今日の国道)であるという証拠です。五街道に対して「脇往還」と呼ばれていました。南北ルートでは水越越えの道(309号線)、東高野街道(現在の170号線)、中高野街道、西高野街道だけでした。長野で合流して紀州へ越えていきます。「きのめ越え」と記録には出ていますが紀見峠のことです。

官道には宿場も設けました。目的は「人馬継立て」で、幕府関連の行列に次の宿場まで行くのに必要な人と馬を無償で差し出す義務がありました。宿駅制度と言います。宿場は宅地の年貢(固定資産税)の免除はありましたが、負担が大きく不満が募ってきて「御定賃銭」が払われるようになりました。それでも不満は収まらず近隣の村からの援助が許されるようになりました。これを「助郷」と呼びます。さらに特権が与えられて、お目こぼしで旅籠に「飯盛り女」を置いてもよいということになりました。当時は公娼制度であったので黙認したということになります。

整備された時期は江戸幕府の初めのころ、慶長年間ですが、東海道・中山道については慶長6年(1601年)からです。その後中高野街道は「間道」に格下げされ、人馬継立や宿場としての特権はなくなりました。

そのため西高野街道については人馬継立の場は堺にあり、その次は三日市までありませんでした。そしてその次は橋本でした。東高野街道もやがて「間道」に格下げされて、結局は西高野街道だけが官道扱いとして残りました。

ついでながら、堺から大和に行く道は、長尾街道(当時は長谷街道)、そして堺市を東西に横切って古市を通って屯鶴峯(どんづるぼう)へ越える道は、穴虫越えの街道、これを現在は竹ノ内街道と呼ぶ人が多いです。もう一つは、堺から黒山を通って平尾からさつき野・梅の里を越えて喜志へ出て上ノ太子前を通過して竹ノ内へ出る街道があります。これが竹ノ内越え(竹ノ内街道)です。幕府の作った地図に載っているので間違いはありません。
 

終わりに

以上のように街道の歴史を調べてみると様々な興味深いことが分かります。

 下高野街道は幕府にこそ認められない道ではありましたが庶民が利用した近道であって西除川沿いに南北に通っていて狭山池番水の道、水の見張り役が通う道でした。富田林の寺内町から藤井寺の南大門に至るまっすぐな道も人々の記憶の中にのみ残っている巡礼街道、お遍路さんが通る道でした。人々が利用する道は必ずしも官道ばかりではなく、こういう道もあることを知っていただければ幸いです。

 ご清聴ありがとうございました。


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