第2回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA大ホール
2024年6月20日

与謝野晶子における戦争と平和
『君死にたまふことなかれ』をめぐってー

 

与謝野晶子倶楽部会長 天理大学名誉教授

太田 登 氏

講演要旨
  明治・大正・昭和という激動の時代に生きた晶子が、 自己の思想形成として<戦争と平和>の問題をどのようにとらえて いたのか、「君死にたまふことなかれ」をとおして考えてみたい。

はじめに

与謝野晶子は堺の和菓子商「駿河屋」の娘として誕生しました。10代に日清戦争、20代に日露戦争、そして30代には第一次大戦、60歳の頃に日中戦争が勃発し、62歳の晩年には第二次大戦が起こりました。
このように晶子の65歳の人生は戦争が続いた時代とともに生きたと言えます。

 晶子と戦争にかかわるエピソードを紹介します。当時の和菓子商には「菓子税」が課税されていましたが、日清戦争の後、「菓子税」が撤廃されて「国税」に変更されました。そこで父親が浮いた「菓子税」を遊興とか投資等につぎ込みすぎて、家運がおかしくなり晶子は家業の立て直しに専念しました。晶子の生い立ちからすれば、日清戦争は人生の大きな節目になったと思われます。

それから数量的な問題になりますが、日清戦争では約2万人、日露戦争では 約20数万人、第一次大戦は約3700万人の死傷者が、また日中戦争では日本人だけで約44万人、第二次大戦では日本軍で約230万人の死傷者が出たという記録が残されています。今も中東、ロシア、ウクライナでも戦争による死傷者がたえませんが、戦争の近代化に伴って桁違いに死傷者が増えるという悲惨な状況が続いています。こういうことをふまえて晶子が生きた「戦争と平和」を振り返ってみたいと思います。 

1.与謝野晶子という女性表現者について 

本題の前に、晶子という文学者をどのように捉えるかを一つのキーワードにすれば、「女性表現者」であったという捉え方です。晶子自身の言葉で「我は人である。男女の区別はあっても、人としての価値は対等である。男女は共同生活の基点である」という発言があります。この言葉が発表されたのが19111月の「太陽」という総合雑誌で、思想をもつ女性として登場します。そして同年に短歌で「母として女人の身をば裂ける血に清まらぬ世はあらじとぞ思ふ」と表現しています。一つは評論で、もう一つは短歌で女性としての自分の思いを我々に伝えています。晶子は、人間は男女の区別はあるが、皆対等である、男女共同参画の基本精神を、約100年前に先見性のあるメッセージとして伝えています。そして母としてこの時は30代で7人(34女)の母親でしたが、2度の双子の出産体験をしており、2度目で1人を死産した苦しい生死の出産の思いをこの「母として」に表しました。女性が生死をかけて生命をかけて出産するからこそ、生命を奪う戦争に対する不信や嫌悪をリアルに表現し、平和への祈りが伝わってくるように思えます。

 2.日露戦争と「君死にたまふことなかれ」

 次に皆さんに理解して頂きたいのは、晶子が1911年に発表した短歌と評論のメッセージの意味です。実はこれから「君死にたまふことなかれ」を取り上げますが、結論から言いますと敵国ロシアの大文豪トルストイとの共感から生まれたものでした。つまり評論も短歌もトルストイが191011月に死去したことを伝え聞いて彼の死に捧げるメッセージとして発表しました。それはトルストイへの思想的な共鳴から生まれた評論であり短歌であることを理解してください。蛇足ですが、晶子の「母として」の歌碑が今も堺市の「フェ二―チエ堺」の前庭にあります。

 さて、今日の本題の「君死にたまふことなかれ」という詩を取り上げたいと思います。

 ああをとうとよ 君を泣く 

君死にたまふことなかれ

 末に生まれし君なれば 

親のなさけはまさりしも

 親は刃をにぎらせて 

人を殺せとをしへしや

 人を殺して死ねよとて  

二十四までをそだてしや

この詩は日露戦争が始まった明治37年の「明星」の9月号に発表されます。この詩は戦地に出兵する弟に対する想いを綴った作品です。ここでいう君は弟である駿河屋の3代目当主籌三郎のことです。

先程は晶子がトルストイの思想に共鳴していたと言いましたが、この「君死にたまふことなかれ」もトルストイの影響をうけています。トルストイは、神意に背く無謀な戦争はやめなければならないという壮大な論文を発表しました。しかしロシア国内では認められずに英語版で「ロンドンタイムズ」に発表されます。そしてこの論文は、「日露戦争論」、「汝悔いあらためよ」として日本でも広く読まれました。この詩は時期的に見ますと日露戦争は19042月から起こりますが、晶子が弟の召集を知るのが7月、トルストイの論文を読むのが8月、そして9月に「明星」に発表と時間的にゆとりがありませんでした。そこでトルストイと晶子の共通項を考えてみますと、トルストイ自身は20歳の頃にクリミア戦争を体験し、その体験を50年後に「日露戦争論」として発表します。その平和主義者のトルストイの思いを晶子は自分なりに反芻し、咀嚼し、かみしめてこの詩を発表しました。つまり、「戦争と平和」の問題を文学と詩で表現した最初の女性表現者が晶子であるということです。この詩のメッセージは彼女の母校である大阪府立泉陽高等学校の中庭に詩碑として刻まれています。

 君死にたまふことなかれ  

すめらみことは戦ひに

 おほみづからは出でまさね  

かたみに人の血を流し

 獣の道に死ねよとは  

死ぬるを人のほまれとは

 大みこころの深ければ  

もとよりいかで思されむ

この詩は当時皇族に対する冒涜、あるいは国家の刑罰を受けるに値する罪悪であると徹底的に批判されました。そして「太陽」では、大町桂月によって①皇室批判②戦争に対する愛国精神がないという二点で糾弾されましたが、晶子はあらゆる批判、攻撃に対し微塵も揺るぎなく自己の信念を貫き通します。この彼女の不屈の精神を支えたのは実はトルストイの平和思想であった。あるいはこの詩はトルストイに捧げるメッセ-ジであったかもしれません。

 3.第一次世界大戦と大正デモクラシー  

次に晶子の思想を大きく変えていく戦争が第一次大戦(19141917)(大正37年)です。実は晶子は明治45年に一人でヨーロッパに出かけますが、大戦前夜を実体験していました。いつ起こっても不思議ではない戦争を我がこととして捉え、緊迫した空気を肌で感じて日本に帰ってきます。

前年に夫の寛がパリへ出かけて毎日のように晶子に恋文を送り渡欧を促しますが、当時晶子は出産と子育て(66女を養育)で大変な時期でした。普通なら行けそうにもない状況ですが、晶子は一人でシベリア鉄道を利用してパリに行きました。

晶子は大戦前夜の経験をふまえて、1917年「新時代の勇婦」の評論に、「せめて婦人だけは婦人自らの為、人類の為、子孫の為に、かう云ふ時に、男子の現に為しつつある所に比べて、より立派な、より高い、より聡明な立場に踏み止まって行動することが必要ではありませんか。さうすることは、男子が文明の逆流(戦争)に浮沈して居る間に、婦人に由って文明の本流(平和)が清く保たれる訳では無いですか」すなわち、男達が戦争で躍起になっている時にせめて女性は平和を保つために頑張りましょう、と晶子の熱いメッセージを同時代の女性に向けて提言します。

1911年の「婦人と思想」の評論の一節に、戦争は世界の文明の中心思想に縁遠い野蛮性の発揮であると述べています。これはトルストイの思想の文脈を晶子なりにレイアウトしたものです。また1917年の「新時代の勇婦」では、「戦争の名に由ってせられる殺人行為は、最早今日、人道を解して居る男子の内心に於て野蛮時代の遺物として背倫非理の行為として否定されつつあります」と述べています。日本ではまさに大正デモクラシーの時代でもありました。この時代の思想的風潮である大正デモクラシーによって、第一次大戦における晶子の平和思想の形成が地固めされたことは間違いありません。

 19183月の「戦争に関する雑感」では、「戦争は何時の世にも聡明を以て任じて居る男子が始めるのです。さうして、男子の性情の最も醜な、最も残忍な、最も野蛮な部分を露骨に実現したのが戦争です。敵の男子も味方の男子も、戦争が非人道的行為であることをしみじみと実感して、一斉に人を敵として殺傷しようとする残忍性が希薄にならない限り、世界は容易に平和を回復しないでせう」と、出口の見えない第一次大戦の終戦期に未来志向のメッセージを発表しています。つまり暴力の連鎖でしかない戦争を抑止できるのは平和思想であるという主張も、トルストイの「日露戦争論」の思想に導かれたものでした。

 ところで、晶子が生涯歌人として詠んだ短歌は知られている限り約5万首と伝えられていますが(参考:万葉集約4千首、石川啄木も延4千首)、この他に多数の評論を雑誌・新聞に掲載しています。そして晶子が一番熱意を込めたのが第一次大戦の大正デモクラシーの時代の評論であります。

 19185月の「平和思想の未来」では、「現に世界初って以来の狂暴な戦争が進展して居るからと云つて、戦争の必然性を断定し、平和思想を空想視するのは、余りに限界の狭い意見ではないでせうか。私は寧ろ、此の狂暴無比な戦争の惨禍が平和思想の実現を促進するものとして考へて居るのです」と述べています。

 晶子は第一次大戦の最中に「国際平和主義」を提唱します。そのキーワードは愛、正義、自由、平等ですが、晶子のこの時代の思想形成の根本であったと考えられます。愛と正義は人道主義で、自由と平等は民主主義であり、この二つの主義を損なうのが戦争である。そして、四つのキーワードによって形成された二つの主義を中核とした「国際平和主義」が当時の晶子にとって最高価値でした。

 そうした晶子があえて「思想は統一されるもので無い。人類をして均一に同じ思想を持たせ得るもので無い」と主張する背後には、大正デモクラシーの思潮に対する国家や政府の危機感がありました。具体例をあげますと、教育の問題です。大正69月に内閣直属の臨時教育会議が設置され、高等教育は男子に限られて女子には不必要であるという答申案が出されますが、晶子は真っ向から反対します。寧ろ教育の民主主義化に向けて男女共学で女子の高等教育化の推進を提言します。実際に晶子の教育論をふまえた日本で最初の男女共学の文化学院が大正10年に神田駿河台に設立します。そして、晶子の思想形成の背景には、当時の大正デモクラシーに相反する女子教育の差別化をもくろむ国家の教育施策を批判するメッセージが込められていることを理解してください。

 さて、19183月の「何故の出兵か」は、「戦争を以て『正義人道を亡くす暴力なり』とするトルストイの抗議にも私は無条件に同意する者です」とトルストイの思想に共鳴した評論です。すなわち晶子は平和思想を損なう戦雲に敏感でした。先の見えない第一次大戦に日本も加担していることを察知し、またロシア革命が勃発している中、日本軍のシベリア出兵に真正面から反対します。1918年に東京帝大を中心に若い世代の「黎明会」を発足させ、大正デモクラシーのオピニオンリーダーであった吉野作造も批判的立場にありましたが、晶子は「黎明会」の考え方に同調する唯一の女性会員でした。しかし晶子は吉野の思想的立場に共感しつつも、吉野の唱える普通選挙論には同調することなく、男女の区別なく平等に参政権を与えるべきであると主張します。その主張の根底には、晶子のめざす大正デモクラシーの男女平等論があり、それを阻む軍事的動向を批判する揺るぎない信念がありました。

 4.日中戦争から第二次世界大戦への激流と『新新訳源氏物語』

 晶子の揺るがない信念がどこから生まれたかを視点を変えて考えてみたいと思います。今、NHKの大河ドラマで放送中の『源氏物語』の現代語訳を最初にした歌人が晶子です。私は、晶子の戦争と平和という思想形成にかけるエネルギーと『源氏物語』の現代語訳にかけるエネルギーは別物ではないと思っています。つまり、この異なる二つのエネルギーは晶子の内なる創造的エネルギーとしては一つのものであると考えています。晶子は明治45年にヨーロッパへの渡航費を捻出するために『新訳源氏物語』を出版しますが、それとは別に10年かけて書きためた講義原稿(約1万枚)が関東大震災で文化学院に保管していた書籍等と共に灰になります。その心情を詠んだのが「十余年わが書きためし草稿の跡あるべしや学院の灰」です。

 源氏物語は紫式部が夫の死後に書き始められますが、その紫式部に比べれば私は年老いて書くエネルギーはないと、夫寛の死後に「源氏をばひとりとなりて後に書く紫女年若くわれは然らず」と詠んでいます。

 しかし、乳飲み児を抱えた一人の女性として、現代語訳を継続するエネルギーは大震災で途切れても不思議ではありませんが、晶子は違っていました。ここから『新新訳源氏物語』の執筆に取り組み、そして昭和14年に完成させました。そういうエネルギーの創造は、日中戦争、第二次大戦、太平洋戦争へというきびしい時代状況のなかでもとだえることはありませんでした。

5.「君死にたまふことなかれ」120年のいま、平和への祈り

 19319月に満州事変が起り、晶子の世界平和思想そのものが後退していくなかで、満州国建国による関東軍の拡大策を支持し、国際連盟脱退にも賛意を表明し、戦争がなくなるということが非現実的であると認識します。そして晶子の思想形成の歩みが変わる大きな要因は、192864日の張作霖の列車爆殺事件でした。その事件の現場にいた晶子は、その時の心境を「ホテルは深夜にも汽車の出入りする汽笛や響きの為に殆ど眠られなかった。翌朝私は早く起きて東京の子供に送る手紙を書いていると、へんな音が幽かに聞こえた。」また「私達は初めて今先のへんな爆音の正体を知ったと共に、厭な或る直覚が私達の心を曇らせたので思わず共に眉を顰めた。」と語っています。晶子は昭和3年に旅順に2度行っていますが、夫寛と共に二百三高地に足を運んでいます。ここが日露戦争の激戦地であったことを噛み締めて2日に奉天に帰ってきて4日の爆殺事件に遭遇します。この歴史的体験がその後の晶子の戦争と平和の問題をよりリアリティーにしていきます。

たとえば次の日中戦争直後の「いと猛く優しく子をばおほし立て戦に送る日の本の母」や、また第二次大戦が始まった直後で大政翼賛会が発足したことによる「神武よりこの大御代にいたるまで数ふる業の楽しかりける」などの表向き愛国者という思いで作られた短歌があります。

 そして、我が子を戦場に送る晶子が亡くなる数ヶ月前の昭和171月に発表された最後の作品と言われている「水軍の太尉となりてわが四郎(5男のオーギュスト・ロダン)み軍に往く猛く戦へ」という短歌も詠んでいます。

今、読み上げた3首だけをみると、愛国心が前面に打ち出されていると理解されますが、実はそのほかにも埋もれた沢山の作品があり、晶子の母として、女としての内面の思いが表だって発表される時代状況ではありませんでした。

 最後に、「厭な或る直覚」とは、張作霖の列車謀殺事件によって日本は出口のない戦争に入って行くと予感し、と同時に日本は世界から孤立するであろうという不安をあらわすものでした。そして、晶子はかつての日露戦争に詠んだ「君死にたまふことなかれ」の平和への思いを新たにしたことを想起しながら、世界が平和な社会であることを念じて講演を終わりたいと思います。


2024年6月 講演の舞台活花



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