第1回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA大ホール
2024年5月16日

「近世大坂の二重行政
~大坂町奉行所と惣会所~


 

大阪資料調査会事務局長

野高 宏之 氏

江戸時代の大坂は徳川家の城下町でした。この城下町の行政を担当した機関は二つあり、 一つは幕府旗本が長官を務める大坂奉行所、もう一つは町人の代表が監督する惣会所です。大坂の都市行政はこの官民二つの機関によって運営されていました。 そこではどのような役割分担がみられたのでしょうか

 

はじめに町人の町、大坂そして城下町としての大坂についてお話します。

1町人の町 大坂

江戸時代の大坂というと商人の町、商業の街というイメージが強いのですが、実際のところは徳川幕府の城下町です。例えば大坂の代名詞となっている天下の台所という言葉がありますが20世紀初めまでは天下の台所という言葉は文字の記録にはまだ見つかっていません。似た言葉として諸国の台所、諸国のまかない所、また諸国相場の元方、出船千艘入船千艘という言葉がありますが諸国相場の元方は全国の相場の指針であったことの形容です。大には全国からいろんな物資が運ばれてきます。代表的なのは米です。例えば金沢から運ばれてきた米がいくらぐらいなのかをどうやって決めたらいいのかを考えたときなかなか難しい。実際には大坂でそういった値段が決められていきました。あるいは先物取引をすることによって値段が決められていきました。大坂で決まった値段を全国で参考にしたのです。金沢の米がこれぐらいだったら佐賀の米はこれくらいと決められました。全国の問屋が考えるときの目安になる価格が大阪で決められたことを形容して諸国相場のもと方という言葉があります。出船千艘入船千艘というのは大坂には全国から海の船(海船)が集まってくることを表現したものです。いずれにしても町人が商業活動をしていたことを表しています。

2徳川の城下町 大坂

1)それに反して大坂が徳川の城下町ということを表す言葉はひとつも見当たりません。武家と大坂の関係を考えたときによく引き合いに出されるのは蔵屋敷です。中之島にたくさんの蔵屋敷が集まっていましたが、これは全国の大名が大坂で年貢米を現金化するための蔵屋敷で蔵屋敷は徳川のものではありません。徳川以外の大名の屋敷が蔵屋敷であって、大坂は徳川の直轄地でありながら諸国大名と町人のつながりが密接でありました。大名家と大坂の関係より話題になることが少ないのが徳川家と大坂との関係でありました。幕府の天領である大坂は密接な関係があるはずなのに、なぜか明治以降忘れ去られています。徳川幕府から主要都市に遠国奉行を派遣する町として江戸、駿府、京都、大坂、佐渡、長崎、山田、奈良があります。遠国奉行のタイプとして地名に町奉行をつけるものと地名に奉行をつけるものがあります。「町奉行」は江戸町奉行、駿府町奉行、京都町奉行、大坂町奉行です。そして「奉行」には佐渡奉行、長崎奉行、山田奉行、奈良奉行があります。これらはどのように区別しているのでしょうか?

大都会が「町奉行」でそれ以外が「奉行」と考えたくなります。京都・大坂は別格で江戸時代は30万人から40万人の人口を抱えていました。これは問題なく大都会ですが、問題は駿府です。駿府が長崎・堺(人口5万人)より大都会かというとそうも言えません。正解は江戸、駿府、京都、大坂には徳川のお城があったということです。江戸城、京都の二条城、駿府城(家康の隠居所)、大阪には大阪城があります。お城のある城下町である都市には町奉行を置きました。佐渡、長崎、山田、奈良、堺の城下町でないところには奉行を置きました。なによりも大阪は徳川の城下町であることを確認しておこうと思います。

2)大坂の役割

江戸時代の大坂にはどういう役割があったのでしょうか。幕府にとって、大名にとって、町人にとって大坂はどういう役割があったのでしょうか。

A①水陸交通の結節点

大坂は古代から明治時代に鉄道ができるまで、陸上交通と水上交通を結びつける位置にあり

ました。大阪湾から東側は陸上交通です。江戸時代は大阪から京都・江戸まで東海道が通じて

いました。人々が江戸から大坂に来るときは歩いてくるのが普通でした。一方、大阪から西側に移動するときは船に乗って物資を運ぶことが多かったのです。例えば歴史の教科書に載っている奈良時代の九州の防人は関東平野の武蔵の国あたりからてくてく歩いて大阪湾までくると、大坂から船で九州まで連れて行かれます。江戸時代は四国、九州の藩は大坂に蔵屋敷を持っています。江戸の藩屋敷から国元へ手紙を送る時どういうルートをとるかというと江戸から大阪までは東山道または東海道を飛脚が運びます。江戸で発送した手紙が大坂の蔵屋敷に届くと、そこから船で国元まで送られ届くことが多かったのです。このように大坂は水上交通と陸上交通が接する場所で、こういうふうに輸送手段がかわります。場所は古今東西どこでも商業、交易が発達する場所であり、そのひとつが大坂でした。

②物を商品にすることと③物を金に換えることは同じことの表裏です。

物は全国から大坂に運ばれてくると、大坂ではじめて物に対して価値、相場が生まれます。

その際、その物は売っていいものか悪いものかの見極めもします。江戸時代は地方の問屋はサンプルを見て注文するのが難しい。大坂でその商品に相場が立ち、売買の取引が行われることで、地方の問屋は安心して仕入れることができるのです。大坂に全国から集まってくるもので商談が成立していないものはまだ商品価値が無く、大坂で取引されることによって商品として信用を得て全国で取引されるのです。また年貢米を商品に換えていくのも、大坂の役割です。

④金融の拠点

大坂で両替商、今の銀行業が発達していき、全国の荷主や問屋に融資をすることで日本全国の流通が円滑になっていきます。

B幕府にとっての役割

   幕府の西国支配の拠点

1600年代後半に九州で島原の乱が起こったとき、江戸から軍隊を派遣した。その軍隊を一時プールする場所として大坂城がありました。また1800年代の幕長戦争(長州征伐)で幕府が長州藩を攻撃する際幕府軍が長期滞在するのに使われた場所が大坂城でした。

②江戸に物資を供給

幕府は参勤交代の制度によって大名を江戸に集めます。全国の大名の半分は江戸にいて半分は国元にいます。交代で120から130の大名が必ず江戸にいます。そのため江戸の武家人口は50万を超えます。江戸の総人口は百万人を超えていました。大名を含めた武家の日常生活を維持しなければいけません。食べるもの、着るものの日常生活品を安定的に供給する必要があります。江戸幕府が出来た頃の関東はそれだけのものをつくる生産力を持っていませんでした。そこで上方の京都、大坂、奈良から物資を集めてきて江戸に送りました。あるいは日本全国から大坂に物資を集めてきて江戸に送るという制度を作り上げました。大坂は反権力で自分たちの力で経済力を高めていったと言いますが、それは正しくありません。江戸時代の大坂から江戸に送る枠組みを作ったのはあくまで幕府でした。具体的には航路、海で物資を運ぶ廻船の航路の維持管理を支えたのは幕府でした。これによって大坂は経済的に繁栄しました。

   長崎貿易

大坂は長崎貿易の重要なポイントでした。大坂がなかったら1700年代半ば以降、長崎貿易は難しかった。長崎貿易の輸入品は生糸、絹織物、薬種(薬の材料)、本、絵の具の顔料など贅沢品でした。一方、輸出品としては江戸時代の初め頃は鉱山から取れる金や銀を輸出していましたが1600年代後半に金銀は取れる量が減少し、替わりに銅、俵物のふかひれ、干しあわび、なまこなどを輸出しました。銅は日本全国の銅山でとった粗銅を集めてきて精錬して、金の延べ棒のような形にして長崎に送るのが大坂です。大坂には銅の精錬工場、銅吹き屋というのがあり、その代表が住友です。銅を買い付けて長崎に送ることを行っていたのを銅座といいます。銅座は金貨・銀貨を作る金座や銀座と違い輸出用の銅を管理している場所です。長崎貿易に参加する権利のある本商人は長崎で輸入品を落札して代金を払わなければならないし、落札代金を大坂の唐物問屋に売りまたは前借して大坂の銅座に支払っていました。銅座は貿易の決済機能を持っていて、長崎貿易を円滑にしました。

④上方支配の拠点

河川の管理は藩単位で管理ができないので幕府が管理しました。幕府は日本全国に通達(触れ)を出しました。大坂の町奉行所は上方の4つの国(播磨、摂津、河内、和泉)の広域行政及び裁判を担当しました。

⑤天領管理の拠点

大坂周辺および近畿地方には多くの直轄領(天領)があります。天領の年貢米は江戸に送られるものを除いて二条城と大坂城の2か所で保管していました。天領を管理するために大坂には代官所が置かれました。

C大名の役割

①米・特産物の集荷と換金のために大名は蔵屋敷を持ってい ました。

②資金の調達

資金繰りが苦しいときの対策のひとつに大名貸しがあります。大名は大坂の商人からお金を 借りていました。江戸時代の初めは大名と商人の縁故によって担保なしにお金を貸していました。大名の経済状況が悪くなると商人に「お断り」と言って借金を返済しないことを通告します。返されず「お断り」を宣告された商人は泣き寝入りするしかありませんでした。大名にお金を貸すとき形式的に商人は大名の家来になり、給料(年間100石または200石)の米をもらう。そのため「お断り」に対して幕府に訴えても、家来が主人を訴えるとは何ごとか、といって処罰されました。そのため17世紀、大名貸しをしていた商人は軒並み破産に追い込まれます。これに対し、江戸時代半ば以降の大名貸しは、利子は返ってくるが元本は返ってこなくても構いませんでした。その代わりに蔵屋敷の物産を扱わせてもらう。あるいは蔵屋敷のお金を管理する。現在の商社あるいは銀行の仕事をさせてもらいました。これで充分元が取れる形に変わっていきました。

D町人

町人にとって大坂とはどんなところか?

①物を商品にする②商品の相場を決める。③買い手を見つ ける。

大坂の問屋にとって一番大切なことは倉庫を持っていることです。地方の荷主さんが大坂の商人に販売を委託する。大坂の問屋が荷物を預かって荷主の代わりに売り先を見つける役目をして手数料をとっていました。このように大坂の問屋の収入は倉庫業と取引の手数料でした。④日常品の製造

大坂は商業の都市だけでなく原料を加工する製造業の都市でもありました。町人は、灯油の原料である菜種を仕入れて、それを絞って油にしていく、あるいは木綿の場合は綿から糸を取り、織物に仕立てていくという加工業も発達していました。大坂には全国からお米が集まってくるのでお酒も造り、大坂のお酒は地元売りに徹しました。

⑤両替・為替(キャッシュレス)・融資

町人の商取引で大坂の通貨である銀貨はいちいち重さを量る必要があり扱いにくいために、キャッシュレス手形為替取引が発達しました。

⑥船の管理

大坂にはたくさんの船が集まってきて船関係の職業が発達しました。造船、錨づくり、船の解体、船の修繕管理の役割もありました。

3城下町・大阪三郷

1)城下町の要素・城

大坂の城下町で全国に共通する要素は、城があり、武家地(城南)があり、寺町(天満、)があり、それから町人地(三郷)があることです。淀川(大川)のほとりにお城があって、東横堀川、西横堀川、道頓堀に挟まれた北の方を船場といいます。南の方を島之内、現在の市役所がある辺りを中之島と言います。大坂三郷とは武家地と寺町を除いた町人地を指します。三郷は北組と南組と天満組に分かれます。この区別はどこに税金を払うかによっています。税金のことを公役と言います。大坂の税金には2種類あって、土地にかかる税金と人にかかる税金の2種類で、土地にかかる税金を地子といい、これは免除されるが公役は残ります。公役をどこに払うかによって所属する組が決まってきます。

2)三郷の概要
                  元禄11年頃  文化5年 割合

   北組(本町以北中之島を含む)    236     250   5

   南組(本町以南)          241    261   5

天満組(大川以北の天満、堂島を含む)    71    109           2

             合計        548               620

町を(まち)とよぶと大坂全体を指し、町とよぶと620ある一つ一つを指します。

3)幕府の諸施設・役所

①大坂城本丸

②大坂城米蔵(難波と造幣局あたり)

③お金蔵

④武家屋敷

城代(大坂城大手門警備)定番(京橋門、玉造警備)

大番衆(本丸を警備。旗本の中から大番200人くらい)

加番(大番衆を応援する大名)など、大坂城を警備する人たちの屋敷および槍奉行他各奉行の屋敷

⑤船奉行

大坂の廻船を監督する役所

⑥大坂代官

徳川家の直轄領を管理する役所

⑦大坂町奉行

東町奉行と西町奉行所があります。最初は京橋に2つありましたが西町奉行所は本町に移転します

⑧銅座   今の高麗橋あたり  

俵物会所 北浜あたり

 

4)大坂町奉行

(1)東町奉行所 京橋南詰

西町奉行所 京橋南詰から本町橋詰に移転

(2)役割の変化

17世紀は大坂城の営繕や畿内広域支配に重点を置き、大坂の町行政に関してあまり関心がありませんでした。東町奉行・西町奉行・京都所司代・高槻藩藩主など上方の主立った幕府役人8人が集まって共同で上方の広域を支配します。

②18世紀に大坂という都市行政に力を入れるようになりました。

(3)与力の役職

同心支配役

A三役 ①地方役 ②宗旨役(寺社役)③川役

B六役

①御金役 大坂城のお金を管理
大坂城で仕事をする時に船を出す、馬を 出す、人足を出す調達管理
②御蔵目付 米蔵の管理 ③御買物役 幕府が管理する建物その他のメンテナンス
瓦職人 大工の調達 職人の名簿の管理
④御塩噌役 兵糧賞味期限切れの味噌(兵糧)などの売却
⑤御石役  大坂城を造る時に集め、使われず放置された石の管理
⑥御普請役 営繕の仕事

4 町奉行所 惣年寄 町惣代は下記の仕事をしていた
1)町奉行は幕府御用として
①宿次文書の輸送 老中から大坂城代への文書はまず大坂町奉行所に届き町奉行所から大坂城代に届けられる
②大坂城の維持管理(六役+人足の手配)
③広域支配(川筋管理・触の伝達・西国公事を管轄)を行ない

2)次に町方支配として
①大坂三郷の人・土地・生業の管理(水帳(検地) ・人別帳・株仲間)
②警察・司法(盗賊吟味役 目安役 証文方)
③当番所を管理した。

3)それに対して惣年寄は幕府御用として
①来坂貴人の応接(街路の清掃、御用宿の手配)
②町奉行所、惣会所人足の手配
③公役の徴収の管理を行ない

町方支配として
①町触の伝達 町奉行から惣年寄に触が渡され惣年 寄りから各組の町の町民代表者を集め伝達する
②公事(裁判)の扱い(取次ぎ)
③宗旨巻(それぞれの町内の代表者の名前を書いたもの)
④株仲間、川船、茶屋、煮売屋
⑤市況 米の全国からの集まり・大阪から江戸への送り内容等の商況調査を行った。

4)町惣代は幕府御用として
①人足 伝馬 飛脚 
②宿次文書(人足・船) 
③案内御用(御用宿)を行ない


町方支配として
①支配銀の徴収 ②公事取次 ③案内御用 ④諸調査 ⑤入札の管理
を行った。

                                  以上



2024年5月 講演の舞台活花



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