第6回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA大ホール
2023年9月21日
「千利休の生きざま」
堺ユネスコ協会 会長
川上 浩 氏
講演要旨 天下人4人全てに関係し、堺を茶の湯の聖地にした千利休。 何をするにも研ぎ澄まされた完全主義だけでも利休を語れません。 商人としては機を見て敏、政治家としては平和な世を目指しました。 エピソードの数々で利休の生きざまを探ります。 |
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「千利休」は当時自由貿易都市として栄え、世界からの文化の窓口であった、宝石のような町「堺」で1522年、豪商「ととや」の長男「田中与四郎」として誕生しました。千利休屋敷跡は産湯をつかった「椿の井戸」が残っているだけですが。利休の全ての始まり、そして今も脈々と受け継がれる利休の美学の原点は堺であり、この場所です。今や、この地は茶の湯の聖地になろうとしています。茶の湯は堺の町で禅をはじめ異国の文化の影響を受けながら利休が日本独自の文化として大成したものです。茶の湯の精神は「和敬清寂」の4文字で表わされています。世は戦国。全く反対の戦嫌濁騒の時代にあって、人が人らしく生きるための指針です。茶の湯の精神が単に茶人だけのものではなく、人から社会へと伝わり、それが日本のみならず世界に及ぶことにより、真の平和が達成されるのです。
利休は、名物狩りをする信長の面前で「美は私が決めること、私が選んだ品に伝説が生まれます」と言い放ちました。これこそが利休の生きざまの原点であり、この発言によって利休ブランドが生まれ、利休が良いと言ったものは高値で売れ、転売に転売がつづき、値が上がるようになりました。これこそがブランド商法の先駆者とも言われる所以です。
利休は納屋衆と呼ばれる倉庫業の長男です。茶人としてだけで捉えると迷路に入ってしまいます。ブランド商法の先駆者でもある商人でもあり、戦国時代の4人の天下人すべてに関係を持った政治家なのです。 その後の元禄時代、例えば、元禄8年に堺が、現在で例えるならば国勢調査を行っています。それを記した堺鑑によると、濠之内の人口は6万3千人でした。人がいっぱいになることで全国に疎開していき、小樽から長崎までのあちこちに堺の地名が残るようにもなりました。全国には今も50か所以上も堺町があります。
17才。今まで親の言うことを素直に聞かなかった「与四郎」が、父親から、お前も商家の主になる身なのだから「茶の湯」でも習って教養や品位を身につけてはと言われて「はい」と素直に答えました。そして父親の友人の「北向道陳」に1年程預けられましたが、その後武具・馬具を扱っている豪商で茶の湯の師匠「武野紹鴎」を紹介されて師事をします。初めて紹鴎宅に招かれた際に庭でもきれいにと言われて、利休はモミジの木をゆすった。その散ったモミジをみた紹鴎がこの御仁は見た目だけでなく心に染み入る美の感覚の持ち主だと感心して、一目置くようになったそうです。 「武野紹鴎」は大和の人で当時の「茶の湯」の第一人者で堺の臨光寺と南宗寺にお墓があります。紹鴎の心の師はわび茶の祖「村田珠光」という人です。村田は「一休宗純」の弟子でした。「村田珠光」は人間としての成長を茶の湯の目的とし、茶会の儀礼的な形よりも茶と向き合う精神を重視しました。そして、大部屋では落ち着かないので座敷を屏風で囲った事が後の茶室の基礎となりました。紹鴎は珠光が説いた「不足の美」を不完全だからこそ美しいという禅の思想を取り込んで高価な名物茶器を有難がらず日常使う茶器を用いて茶の湯の簡素化に努め精神的な休息を追求し、わびを具体的に表現した人です。 利休は紹鴎の教えをさらに進めて、わびの対象を茶道具だけでなく、茶室の構造やお手前の作法等茶会全体の様式にまで拡大していきました。それまでは大半が中国や朝鮮から輸入していた茶器を、日本で製作するようにし、掛軸も「枯淡閑寂」の水墨画を選んでいました。また、これ以上何も削れないという極限まで無駄を省いていぶし銀の緊張感を生み出し「村田珠光」から100年をへて、わび茶を大成したことになります。 利休と紹鴎が禅の修行をしたのが、堺の「南宗寺」でこの二人が出会った事がわび・さび追求の第一歩となり、ここで初めて「千宗易」の名を頂きました。「南宗寺」がわび・さびの境地を確立した場所と言われる所以です。 「南宗寺」には三千家(裏・表・武者小路)の家元の供養塔があり、南宗寺で茶会を開くという事はお茶を学ぶ人達のステイタスになっています。 19歳。父親が亡くなった後の利休は「ととや」の跡継ぎとして日頃の商いを見ながら、商売のセンスをいろいろ築き上げていき、商品を鑑定する素養が身についていったのではないかと言われています。
利休23才。奈良の豪商漆屋の「松屋」が茶の湯の歴史約120年間を記録した安土・桃山・江戸初期の「松屋会記」に初めて「千宗易」の名前で1544年に茶会を開いたと記されています。 1558年.三好実休が自分の土地を提供して建てたソテツで有名な「妙國寺」の朝茶会に北向道陳と共に利休が招かれました。その後利休は六地蔵の灯籠を寄進しています。実は南宗寺に紹鴎が六地蔵の灯籠を寄進していますので、同じ事を利休は妙國寺にした事になります。 そして、信長は堺と京都を戦の場にしてはならないと言った事で、堺は戦国時代のピースゾーンとして、自由自治都市を謳歌しました。 三好長慶の世、今井宗久がある会合衆の集まりで、次は信長の時代が来ると言ったが誰も信用しませんでした。利休は「ワシは政治の事はわかりまへん、でも宗久さんの言葉を信じます。」と答えたそうです。その後、堺の情報を少しずつ信長に伝えていたので、信長の世になった時、いきなり茶頭に抜擢されました。 1564年に三好長慶が病で43才で亡くなります。利休はその翌年「松永久秀」の多聞山城の茶会に招かれています。誰彼となく幅広く付き合っているのが特徴のひとつです。 さて、1568年信長が上洛し勢力が増していくとともに、堺や京の町衆を中心に名物狩りが始まりました。信長は略奪はしません。必ず支払いはします。ただし価格は、買い手(信長)が決めるという信長独特の考えで支払いをしていました。茶の湯の名物道具を集める一方で、堺の茶人を茶頭として取り立て、特定の家臣に茶の湯を許可していきました。 「名物狩り」には利休も呼ばれています。各豪商達の取引が終了したので、同席していた「山上宗二」(利休の一番弟子で秘書的存在として多くの文章を残している人物)が催促しましたが、わざと少し遅れて信長の元に出向きました。そして、信長の前に盆を出してその中に竹筒から水を入れました。信長がのぞき込むと同時に利休も盆を信長の方に押します。揺れている水面に月が写ったのです。信長は「美しいなぁ」と褒めたそうです。それに応えて利休は前述した「美は私が決める事、私が選んだ品に伝説が生まれます」と答えたと言われています。もし月が出てなかったら別の方法を考えていました。それが利休の言葉で「降らずとも雨の用意」、すなわちどんな時でも対応出来る用意をしておきなさいという意味です、暫くは、この場所に信長と同席していた「木下藤吉郎」が震えて歯がなる音だけがカチカチカチ。少し間が空いてから信長は「お前は、悪よなぁ、天下を狙える奴が現れよった」と言ったと伝わっています。 さらに、利休が大切にしていた香房があり、それを秀吉が小判1000枚で取得を試みましたが、私の使っている物はお金には換えられませんと言って断ったそうです。 1577年7月16日に妻の「いね」が、亡くなりました。利休は大徳寺の聚光院で生前永代供養をしておりました。そこには利休、三好長慶のお墓もあります。
利休に纏わる逸話が多くありますが、今日は前述した「椿の井戸」を紹介します。ある茶人に朝会に招待された時、呼ばれた場所の井戸が凍っていて、井戸水が使用出来ないのを知った利休は「汲み置きの水で私に茶を点てるのか」と怒り、帰ろうとしましたが、亭主が朝採りの京都「左女牛井」(醒ヶ井)の水を用意してありますと言ったので機嫌をなおし、茶を飲んだところ堺の水より「おいしいな」と思い、その後、水のいろんな研究をした結果、水に椿の消し炭をいれ、それが活性炭の役目をはたし堺の水が美味しくなった事から利休関係の水場は、椿を入れるので「椿の井戸」と言われるようになったという事です。 茶の湯の聖地、堺の一般人が使った茶葉は南花田付近産、利休自身は宇治の茶葉を使っていました。今も残っている茶葉です。(商品名割愛) 1583年62才。利休にとっては生涯において画期的な年になりました。お茶を嗜む武士にとっては良い茶道具を持つ事がステイタスであり、武士の出ではない秀吉にとってはお茶をよく知っているかの様に見せたかったと考えられています。そして、秀吉や信長が利休を買っていたのは、何とも言えない先を読む商売のセンスの持ち主であったということです。また、秀吉は利休を相談役として側におき、小田原征伐とか、天皇を招いた禁中茶会にも同席させました。そして利休は次第に政治の片腕となっていきます。その年の2月津田宗及・山上宗二と共に秀長の茶会に招かれました。これが運命的な出逢いになりました。さらに9月の秀吉の宮中における茶会で正親町天皇から「利休居士」と命名され、すなわち62才でやっと「千宗易」から「千利休」になったのです。利休の利は鋭いという意味で利器と書いたら包丁の事で、天皇は「おまえは鋭すぎるから休み休みやった方がよい」という気持ちで名付けたらしいです。日本の伝統的芸事は天皇の御前で披露することによって天下の公認となるのが恒例です。茶の湯はこの時、日本の芸事となったのです。 政治や軍事上の機密にも携わり、理解者の秀長が「内々の儀は宗易に、公儀ののことは秀長存じ候」といい、豊後の大友宗麟は「宗易ならでは関白様へ一言も申上ぐる人これ無しと見及び候」(関白様=秀吉に意見できるのは利休以外にいない)
天正19年正月の利休の茶会に秀吉は石田三成の辞退要請を退けて、前田利家と出向きました。そこで利休は秀吉に黒茶碗でのお茶を出したことで一悶着があったものの利家のフォローで機嫌をなおし飲み干したそうです。 そして利休の元に秀長の死亡が伝えられた二日後訪れた家康との茶会が最後の茶会になりました。「私は秀吉に茶人ではなく民として意見を言いますが、場合によっては命を落とす事もあります」と伝えたそうです。 数日後、利休が秀吉に呼ばれた席で聞きたい事がある、大徳寺の山門にお前の像があり、俺はその像の下をくぐるのかと言ったと。これは三成の利休を何とかしたいとの作り話と言われています。そして利休は秀吉から罪人であると言われますが謝る事なく、秀吉の今の考え方を批判したことから切腹を命じられました。70才。利休の死を報告された秀吉は自分に対して「バカヤロ-」何て事をしたのかと嘆いたと聞いています。 本日は有難うございました。 |
2023年9月 講演の舞台活花
活花は季節に合わせて舞台を飾っています。
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