第4回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA大ホール
2023年7月20日
「アジアモンスーン地帯の溜池」
大阪府立狭山池博物館 館長
小山田 宏一 氏
講演要旨 アジアモンスーン地帯は、さまざまな溜池が発達した。古代日本を代表する狭山池もそのひとつ。講座では、おもにスリランカ、中国、韓国の溜池とその特徴を紹介します。 |
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1.アジアモンスーン地帯の溜池概観
狭山池は、築堤工法と築造年代が判明した学術的価値のある溜池であり、古代日本と古代東アジアの溜池文化を探る糸口になる貴重な文化遺産である。
アジア地図を広げると、東に日本、南にスリランカがみえる。この東アジアから南アジアにかけて地域はアジアモンスーン地帯に属し、雨季と乾季にわかれる。詳細にみると、雨季と乾季がはっきりと分かれる地域と、はっきりしない地域があるものの、アジアモンスーン地帯の特徴のひとつは、農業用水を確保する溜池が造られていることである。
日本、韓国、中国、スリランカ、デカン高原は溜池地帯である。カンボジアにもアンコールワットのそばに「バライ」と呼ばれる大きな貯水池があり、今でも輪郭が残っている。「バライ」の中で今に残っている西バライは、農業用水、生活用水として使われている。こうした事例からカンボジアは、溜池地帯であるという考えがある。しかし熱帯モンスーン地帯は雨が多く、基本的に農業用水は天水でまかなわれている。アンコールワットの研究によると、大規模バライはクメール王朝において11世紀に出現したヒンズー教の天地創造の空間であり、農業用水の確保を第一とする溜池とは性格が異なるものと考えられる。
注目するのは、カンボジアとその周辺に「タムノップ」という水利施設があることである。「タムノップ」は川を堰き止めて、溢れた水を周辺の農地に送る水利施設である。「タムノップ」の分布をみると、アンコールワットの近くにたくさんあることがわかる。カンボジアは、「タムノップ」を用いた河川灌漑(堰灌漑)が主流であったと復元することができよう。
アジアモンスーン地帯の溜池は共通点が多い。まずスリランカと日本、続いて日本、韓国、中国を比較してみる。私は、古代日本の溜池は朝鮮半島から伝わった、朝鮮半島の溜池は中国からその文化と技術が伝わったとみている。こうした広がりについて「古代東アジア溜池ロード」と呼んでいる。
溜池の比較で大事なキーワードが3つある。①どういう場所に作っているのか、平地か谷かという地形環境である。②土木技術の比較である。朝鮮半島と日本の古代溜池は、盛土に木の枝である粗朶を敷き詰め、堤や地盤を強固にする「補強土工法」で造られていることが大きな特徴であり、技術系譜を探る鍵になる。③溜池が中国、朝鮮半島、日本へと拡がっていく歴史的背景である。溜池の土木技術は古代においては王権が掌握する先端的土木技術であり、その拡散した背景には、国家間の技術交流が想定できる。
2.スリランカと日本の比較
日本とスリランカの溜池の類似点を述べる。かつてのスリランカはインドと陸続きであった。スリランカの面積は北海道の0.8倍である。スリランカとは「光輝く島」を意味し、仏教寺院の光輝く金銅仏に由来するという説がある。スリランカは、2,000m 級の山岳地帯によって北と南に分かれる。海岸沿いの平野部はきわめて狭く、塩害で農業に適していない。稲作は、山岳地帯の北にひろがる高原地帯が中心である。この地域は乾燥ゾーンに分類され、モンスーンの季節になっても雨が少なく溜池が発達した。また「文化の三角地帯」と呼ばれる地域で古代王朝が栄えた。
スリランカでは、溜池を「ウェア」と呼ぶ。構造をみると、丘陵の谷の出口を締め切るタイプと、川から引水して貯水するタイプがある。訪問したナックチャダワ・ウェアの下流では、溜池から幹線水路と支線が整備されている。支線には鉄板を上下して水を入れる水口があり、水口の先には小区画水田が広がっている。水田の畔は所々が途切れており、田に入れた水は田越しに広がっていく。日本の弥生時代の水区画水田と同じ仕組みである。
スリランカの溜池は農業用水を貯めることが基本だが、王都のアヌラーダプラにはジッサウェアという溜池がある。溜池の下は古代寺院、大塔など仏教施設が集中しており、この溜池には王都を守る治水ダムの役割があったのではないかと思う。スリランカの溜池は、インド南部がそのルーツになる可能性がある。1~3世紀には、王と王の一族が小規模な溜池を造っている。王族の溜池は、仏教教団と強固に結びついている。
川から引水するタイプは、川に堰を作って溜池に水を引く。溜池は個別に独立するのではなく、連珠式につながる。こうした連珠式は、上流の溜池の余水を下流の溜池に貯めることによって灌漑用水を反復利用している。
今に伝わる水利慣行をみると、スリランカで大多数を占める小規模な溜池は村人の共有財産であり、水田の面積に応じ池水を順番に配る。また水を取る順番を守る約束事のもとに、勝手に堰を造って取水することは盗みであり、水と同じ価値の弁償をはらわなければならいという。
こうした水利慣行は、近世狭山池にもみられる。近世狭山池では、上流から下流に石高に応じて、池水を公平に配分する番水が行われていた。西除川を水路に利用した西樋筋では、水下の村が水を引き取る時、水上の村は水を取っていない証として村の樋の取水口を泥で塗り固めた。
スリランカと近世狭山池を比較して、アジアモンスーン地帯では地域や時代をこえて水資源を公平に分配するという慣行があったことが見て取れる。基本的に雨水(天水)を利用するデカン高原の溜池についても、個々の溜池がすべて水路で繋がっており、水の溜まりを均一化して、公平に分配する仕組みである。
1)狭山池の価値 狭山池は、築造当初のコウヤマキ製の樋管が見つかり、その年輪年代から 616 年頃に誕生したことが明らかになった。築堤の土木技術では、盛土の中に木の枝である粗朶を敷設した補強土工法が確認された。特に古代東樋付近は、表土ブロックと併用して基礎を固めているのが大きな特徴である。古代日本の溜池は狭山池の発掘調査によってはじめて科学的な年代が与えられ、古代東アジア世界の中で土木技術系譜や歴史的意義が具体的に探求できるようになった。
補強材として粗朶を敷設する補強土工法は、当初、「敷葉工法」と呼ばれていたが、葉付きの木の枝を使っているのであって「敷葉」ではない。「敷葉」は、単に葉を敷くものと誤解される恐れがあり、私は地盤工学の補強土工法という用語を用いている。
補強土工法は、盛土の中に木の枝を敷設して土の滑りを防ぐ。狭山池の堤は高含水比の土を使っているが、土中の余分な水は粗朶を通じて排水され、その後、荷重により締り安定した盛土になる。また基礎部の粗朶と表土ブッロクを積む工法は、地盤を補強する役割がある。特に韓国で発掘された古代の溜池では、基本的にこの粗朶を敷設した補強土工法を採用していて注目される。
2)韓国の溜池 三国時代から高麗時代の溜池は、開発対象地の水利環境から台地開発型、沖積平野(氾濫原)開発型、沿海低地開発型の三つのタイプに分かれる。
台地開発型は、水掛りの悪い台地開発の水源として建設された。典型例は河谷を塞ぎ止めた義林池である。沖積平野開発型は、小盆地の出口を塞ぎ止めた旧位良池、丘陵間の狭窄部を塞ぎ止めた恭倹池、山地の谷筋を塞ぎ止めた薬泗洞、丘陵の谷筋を塞ぎ止めた菁堤(慶尚北道永川市)などがある。
溜池は一般に、水路を通じて水を送るが、恭倹池に関しては、川に流したあと井堰で堰上げる灌漑システムが復元できるもので(近世狭山池の西除川を利用した西樋筋と同じである)、河川灌漑を補完・増強する溜池である。旧位良池も、河川灌漑を増強する機能がある。薬泗洞は堅固な取水設備を建設する土木技術が未発達で、大規模河川から収水することが困難であった氾濫原を開発する水源として建設された。菁堤の堤下には、河川灌漑のむつかしい氾濫原が広がっていたと推定される。菁堤も、氾濫原開発の水源である。
台地開発型・沖積平野開発型は三国時代に始まるが、沿海低地開発型は高麗時代以降の築造であり、半島の西海岸に位置する南大池(黄海道延安市)、合徳堤(忠清南道唐津市)、そして防潮堤から溜池に改造された碧骨堤(全羅北道金堤市)などで、いずれも海岸近くの谷底平野を塞ぎ止めて建設されている。開発地は、感潮河川の河口部に発達した沿海低地(潮汐平野)である。
3)義林池と狭山池 築堤工法と溜池の類型からみて、三国時代の溜池では台地開発型であり、表土ブロックと粗朶を併用して基礎と固める百済の義林池が狭山池と共通する点が多い。
狭山池の誕生より少し前になるが、倭王権は百済から寺工や瓦博士など専門技術者の派遣を受けて四天王寺、飛鳥寺など古代寺院を建造した。このことに関連して『日本書紀』推古 10 年(602)条にある「百済僧観勒が来朝し、暦本、天文地理書、遁甲(占星術)・方術(占術)の書を貢ぎ、書生三・四人が観勒から暦法、天文・遁甲、方術を学び学業をなした」という記事に注目したい。当時の暦法には測量、面積計算、土量計算など専門的な土木技術情報がふくまれていた。溜池についても、義林池に代表される百済ダム式溜池の築造技術が日本に伝えられて狭山池が築造されたという可能性が高い。
『日本書紀』が僧観勒の記事で「貢ぐ」としたのは、倭国の一方的な歴史観にもとづく表現である。その実情は、各種の基盤整備事業を進めることが急務であった当時の倭王権が、友好関係にあった百済に要請し、土木技術情報の提供を受けたと解釈できる。つまり百済から倭への技術移転は、国家間の技術供与であったと考えてよかろう。狭山池もその事例の一つである。
4)義林池のルーツ 義林池は三国時代の半島に突如として出現した完成度の高いダム式だが、半島の中で、その技術系譜をたどれることはできない。義林池のルーツは、溜池灌漑が発達していた中国の、しかもダム式溜池が優勢である江南が有力な候補地である。また百済が建設した防潮堤の碧骨堤にしても、ルーツは防潮堤建設の先進地である江南に求められる。
こうした先端的土木技術は、日常的な交易で伝わったものではない。百済は江南の六朝(特に東晋)と友好関係があり、その外交関係を通じて将来されたのだろう。これも義林池と狭山池の関係でみたような「国家間の技術供与」である。
5)中国の溜池 次に古代中国の溜池を概観しよう。古代中国で灌漑用大型溜池が成立したのは、良渚文化期の治水ダムから、三〇〇〇年近くの歳月が流れた漢代である。有名な安徽省の安豊塘は、自然の沼沢地を利用した遊水池を改造して灌漑用の池が成立したものである。文献史学の成果によると、こうしたプロセスを経る水利開発は、大規模河川灌漑が盛んになった戦国時代に始まるという。良渚文化期と漢代は年代が大きく隔たる。漢代の灌漑用大型溜池の系譜を、良渚文化期の治水ダムに求めることはむつかしい。
北魏の地理書である『水経注』は、かなりの数の溜池が収録されていて、古代中国で溜池灌漑が盛んであったことがわかる。中でも、溜池の数が圧倒的に多いのが、淮河と長江の流域である。溜池は、地理的環境からタイプが異なる。低平地がひろがる河南省から安徽省北部にかけての淮河流域はダム式が少なく。河道跡の窪地に堤を築き、龍骨車などの揚水機を使って水を取りだす低地型が優勢である。
一方、江蘇省南部から浙江省北部にかけては、山地からの川が扇状地、沖積平野をつくり、河谷型のダム式溜池が多い。年代は鑑湖(140年創建、浙江省紹興市)のように、後漢時代にさかのぼるのも少しはあるが、その多くは江南の人口が増加して農業生産力が飛躍的に向上した三国時代以降になる。
溜池のタイプと分布から、朝鮮半島や日本のダム式溜池の故郷は、江蘇省から浙江省あたりになりそうだ。現地調査の中で、典型的なダム式溜池に出会った。三国時代頃に成立したと推定される浙江省余姚市の穴湖(現在は穴湖水庫)であり、湖面の特産のヤマモモの緑樹が映えていたのが印象的であった。
4.おわりに
駆け足で江南から半島、そして日本へのびる東アジア溜池ロードをみてきた。改めて強調したいのは、①ダム式溜池は農業基盤整備の主要施設であり、その築造技術は先端的土木技術として国家が管理していたこと、②国家間の技術供与によって、江南の東晋から半島の百済、百済から倭国へと広がってきたと考えられること、③そして年代と築造技術が判明した狭山池は、古代東アジア溜池ロードの復元に大きく貢献する溜池として評価できることである。今後とも、狭山池への応援、よろしくお願いします。
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