第3回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA大ホール
2023年6月15日

「雑賀衆と鉄砲


 

元和歌山市立博物館 統括学芸員

太田 宏一 氏

講演要旨

 戦国時代末期、多数の鉄砲を持ち織田信長や豊臣秀吉を苦しめた紀州の雑賀衆。彼らはどういった人たちなのでしょうか。本講座では、鉄砲の関わりを含め、雑賀衆の実像に迫ります。


Ⅰ 雑賀地方と雑賀衆

1      古代・中世の雑賀

・「雑賀」について、古い時代の記録はあまりないが、万葉集には、聖武天皇 が神 亀元年(724)和歌浦に行幸した際、宮廷歌人山部赤人が詠じた長歌に「雑賀野」 とみえる。

・中世では高野山の所領雑賀荘として関白藤原頼道が高野山参詣の途中紀の川を下り和歌の浦に立ち寄った記録がある。

・当時の雑賀は物流拠点であり廻船や港湾関係に従事する人々がいた。

・高野山に運ぶ物資を海船から川船に載せ換える時に高額の通行税を取り立てていた。

2      戦国期の雑賀

  ポルトガル宣教師フロイスの「イエズス会日本年報」(1585年)にある雑賀

紀伊の国の住民の四分の一は雑賀に住み富裕な農夫であったが、軍事において当 時海陸ともに武勇で著名であった根来に劣らぬ評価を得ていた

雑賀衆は坊主ではないが、織田信長が6年間攻囲した時に大坂の市と城を領有してその軍隊に大損害を与えた

一向宗本願寺の宗主顕如が最も頼りにしたのが手許に有した雑賀の六、七千の兵であった。 

雑賀衆はその宗旨熱心から衣食や軍需品を全て自費で提供した。

   雑賀衆とは

雑賀衆とは村→荘・郷→組から成る地縁による結合集団である。

・狭義の雑賀と広義の雑賀がある。

狭義の雑賀は雑賀荘
広義の雑賀とは雑賀荘のみでなく十ケ郷、宮郷、中郷、南郷の五組の総称内陸部は真言宗徒が多く農業が主体。
沿岸部は真宗門徒、浄土宗徒が多く漁業、廻船業、商業が主体。

    浄土真宗と雑賀

・紀伊真宗の起源
南北朝期 覚如上人が和歌浦に来訪
室町期 仏光寺派信徒が増えた。
文明期 蓮如が文明18年(1486)来遊し本願寺派の勢力を拡大 蓮如が宿泊した布教の拠点となりその後何回かの移転の後、永禄6 年(1563)に鷺森が本願寺派の布教拠点となる。このような寺基の北遷は、本願寺と雑賀衆との関係強化を示している。

    宇治の地

近世期になっても鷺森には中世期の町割りが残った。

市の開設 鷺森周辺では市場、三日市や六日市などの「市」に関する地名が残った。つまり、商業地であった。

雑賀鉢の製作  雑賀鉢兜も作られ工業の町でもあった

    雑賀衆と雑賀一向衆

雑賀衆とは雑賀五組に住む人々の地縁的集団(雑賀惣国)であり、一方雑賀一向衆は浄土真宗門徒集団であり、4系統に分かれていた。

雑賀一向衆は地域ごとのまとまりはなく、雑賀惣国の決議には関係なく行動した。  

Ⅱ 鉄砲衆としての雑賀衆

 1 鉄砲伝来

    日本への鉄砲伝来
「鉄砲記」説  天文12年(1543)ポルトガル人により種子島に鉄砲が伝えられた。「鉄砲記」はその63年後に領主種子島時尭の功績を称えるために書かれており慎重に扱う必要がある。

倭寇説 天文12年以前から日明貿易が盛んであり、密貿易として倭寇により鉄砲が日本各地に波状的に伝えられたという見方がある。

    紀州への鉄砲伝来 

・「鉄砲記」説 天文12年根来杉之坊の指示で、紀州小倉の土豪津田監物が種子島に渡航し鉄砲1丁を譲り受け紀州に戻った。

・「鉄砲由緒書」説 津田監物が中国に行こうとして遭難し、種子島に漂着して領主の娘と結婚。娘が死亡し、鉄砲を譲り受け紀州根来へ持ち帰る。そして芝辻清右衛門に鉄砲を模造させる。

    雑賀への鉄砲伝来

根来杉之坊から根来全山に広まり、雑賀衆の一角をなす土橋家の持ち寺である泉識坊を通じて雑賀衆へ伝わった。

本願寺を介して紀州へ鉄砲が導入された可能性
1551年には本願寺の下間氏が鉄砲を保有
1552年には将軍足利義輝が大坂本願寺を通じて焔硝を取得。
当時から雑賀衆は番衆として本願寺に上山している。

雑賀のほか、高野山、熊野方面にも鉄砲は伝播。

粉河では夜中に鉄砲を撃ってはいけないと記した記録(永禄3年=1560年)があり、一般人も所有していた。

2    石山合戦(大坂本願寺戦争)

   勃発・経過
永禄11年(1568)信長と足利義昭入京三好三人衆追放

大坂本願寺に5000貫の矢銭要求

元亀1年(1570) 石山合戦勃発 雑賀衆や根来衆は信長方につき鉄砲3000丁使用。

天正1年(1572)紀伊国守護畠山秋高が家臣に殺害され、このころから雑賀衆が本願寺側につく

天正5年(1577) 信長雑賀を攻撃鉄砲戦

天正6年(1578) このころから雑賀衆が播州方面に渡海

天正8年(1580) 顕如、石山退去。

3    雑賀衆の鉄砲

保有数

顕如らが紀州門徒らに膨大な数の鉄砲を要求

天正6年(1578)「耶蘇会士日本通信」ジョアン・フランシスコが大坂城(大坂本願寺)には8000挺の銃があると報告

    多数の鉄砲を持ちえた理由

地元雑賀荘の甲冑師が鉄砲製作した可能性はある。

・堺職人の紀州への移住。
慶長15年(1610)鎌倉屋藤兵衛が紀州に居住。
元和5年(1619)以前に榎並屋清兵衛が紀州に居住。

・紀州製火縄銃と同じ形態を持つ堺製火縄銃がある。このことは紀州と堺の鉄砲職人の交流があったことを示す。

    戦国期の鉄砲射撃法

・「的場源四郎事跡」では、一撃離脱的な戦法。

・「信長紀」では、騎馬隊を防ぐ木柵を使用した戦法。

・「佐武伊賀働書」では、連射時に射撃手や薬を詰める人、弾を込める人など役割を決め、鉄砲を取り替えて撃つ戦法。

・「陰徳太平記」の示す50人一組で25人に一人の小頭をつけ、2段射撃のような戦法は、江戸時代に語られた戦法。

以上雑賀衆と鉄砲について述べてきたが課題はある。 
例えば素材となる鉄や火薬の供給はどうしたのかなど分かっていないことも多い。
また、雑賀衆の実態は、その大多数が漁夫や農夫など一般庶民であり、成文化された史料が少なく、その動向などを知るには本願寺などの史料に依拠するほか手立てがない。

以上、長時間の聴講ありがとうございました。


 


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