第10回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA大ホール
2023年3月16日
「物語としての義経ジンギスカン説」~明治から令和まで~
大阪大学 文学研究科教授
橋本 順光氏
講演要旨 源義経がジンギスカンになったという説は、明治時代から流行します。この説は、どれだけ歴史学で否定されても、今日にいたるまで繰り返し物語として描かれてきました。その経緯と理由を探ります。 |
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1. 源義経=ジンギスカン説とは何か
今日お話しする義経ジンギスカン説は、ユーラシア大陸にまたがる巨大なモンゴルの帝国を築いたジンギスカンが、実は源義経だったという話です。歴史家には完全に否定されていますが、これまで繰り返し登場して、多くの人々を魅了しました。それは近代日本が欧米の列強と肩を並べて帝国になろうとした際、彼らを征服したようなモデルとなる日本の英雄を見つけられなかったことの裏返しでもあります。そんな近代日本の海外雄飛の願望を語っている点で、義経ジンギスカン説は、歴史というより物語といった方が適切でしょう。今日は、こんな荒唐無稽な物語が過去を舞台にして、どのように作り上げられ広められたのか、その経緯をお話ししたいと思います。
2. 北海道から広がった義経伝説
そもそも判官びいきという言葉があるように、義経は衣川で死なずに生き延びたという伝説が古くからありました。それが江戸時代の半ばくらいになると、義経は北海道に渡ってアイヌの女性と恋に落ちたとか、アイヌの女性に求婚されたが大望があるからと中国大陸へ渡ったという伝説が語られるようになります。それはロシアの南下に備えて、北海道を日本のものとし、アイヌの人々を日本化するという意識と密接に結びついていました。
この説が原型となって、義経は、北海道どころかヨーロッパを脅かすほどの大帝国を築いたという義経ジンギスカン説が、明治になって流行します。そのきっかけを作ったのは、末松謙澄という官僚でした。末松は伊藤博文の娘婿で、ケンブリッジ大学を卒業し、日本の近代化を牽引しました。1879年、イギリスの日本公使館で働いていた末松は、義経ジンギスカン説について英語で書いてロンドンで出版します。おおかたのイギリス人にとって、日本と中国がほとんど区別されていなかった頃のことです。日本は大国にふさわしい実力があるという国威発揚のために書いたのです。この本を内田弥八という文筆家が見つけて翻訳します。末松の名を伏せて『義経再興記』と題して、1885年に出版したのです。日清戦争のおよそ十年前、これから大陸に打って出ようと日本政府が着々と準備を進めていた頃です。島国から大陸へと雄飛する日本人のモデルということもあり、本書は大人気となります。
こうした影響は、北海道の有名な民謡である江差追分からもうかがえます。村田彌六の『純粹の江差追分節』(1920)を見ると、「日高平取、義経様はプリカメノコの縁結び」と、義経伝説を歌った例は容易に見つかります(村田によればプリカメノコは麗しい女性の意味だそうです)。村田の本を参考に挙げる小早川秋聲の『蝦夷地の旅から』(1920)にも、逃げてきた義経がアイヌの女性と恋に落ち、女性は父に斬られたものの、義経は満州へ逃れたという伝説を紹介しています。積丹半島の神威岬には、今も同じような話が伝わっています。岬の先に人のように立つ岩が海中から突き出ているのですが、これは自分を捨てて大陸へ逃げてゆく義経を呪い、そのまま岩になったアイヌの女性だと語り継がれているのです。この伝説は志賀重昂のベストセラー『日本風景論』(1894)にも紹介されているので、よく知られるようになったのでしょう。『蝦夷地の旅から』を書いた小早川秋聲は旅好きな日本画家で、こうした伝説を参考にして大正の後期に《追分物語》という屏風絵を描いています。荒波の船の中、アイヌの女性が思い詰めた表情で立っているのですが、ひょっとして彼女の心中には義経の姿があったのかもしれません。
3. 義経=ジンギスカンの墓探しと帝国支配の正当化
日本がすっかりアジアの帝国になった1920年代、義経ジンギスカン説は日本の大陸進出だけでなく、満洲支配の正当化に使われるようになります。その転機をもたらしたのが、小谷部全一郎という著述家でした。小谷部は、先にお話しした末松の翻訳である『義経再興記』を愛読するあまり、本人の自伝を信じるなら、北海道を経由してベーリング海峡を越え、アメリカにまで渡った豪傑です。アメリカで小谷部はハワード大学を卒業し、帰国後、北海道でアイヌの人々のための教育施設である虻田学園を創設します。ハワード大学は、主にアフリカ系の人々に開かれていた大学でしたし、ネイティブアメリカンのための「保護政策」もありましたので、それらに触発されたのかもしれません。
そんなふうにアメリカで学んだ小谷部が、1924年になると『成吉思汗ハ源義経也』を刊行し、欧米への批判を強めるようになります。義経がジンギスカンになったという内容は、末松の著書のほぼ繰り返しですが、日本はアジアの人々を率いて欧米に対抗しなければならないという、人種衝突を前に押し出したところが最大の違いです。これは、小谷部の学んだアメリカで、いわゆる排日移民法が決まったことが影響しています。アメリカへ移民できなくなった日本人は、満州を本拠地にして欧米に対抗する帝国を拡大すべきだというわけです。
この小谷部の著作は大ベストセラーとなり、否定する学者たちと論争になります。ただ小谷部は、学問的に正しいかどうかよりも、これからの日本人がジンギスカンのような気概を持つことの方が重要と開き直ります。当然ながら議論はすれ違いに終わります。この本によれば、小谷部がアイヌの人々を教育したのも、いずれ義経のように彼らを大陸へ連れて行くつもりだったといいます。おそらく満州を日本の勢力圏にするための先遣隊として送り込もうとしていたのでしょう、もちろん計画は失敗しました。
代わりに盛んになるのが、ジンギスカンの墓探しです。小谷部は1920年の夏に、ジンギスカンの足跡を求めて大陸を調査しています。義経のササリンドウの紋を見つけたと称して、これぞジンギスカンが義経だった証拠と『成吉思汗ハ源義経也』で主張するのですが、専門家は否定的でした。ここで注目したいのは、こうした調査が、当時、極めて政治的だったことです。ジンギスカンほどの英雄の墓がまだ見つかっていないとなると、その墓探しはロマンティックに聞こえるかもしれません。しかし、調査する場所はロシアと中国にまたがり、中央アジアがその典型ですが、日本やイギリス、ドイツなどの列強が虎視眈々と狙う、生々しい角逐の場でした。ジンギスカンの墓を探すというのは、敵情視察の隠れ蓑にもなったでしょうし、逆に勢力を拡大する口実にもなりえたことでしょう。
それは日本以外の国にとっても同じでした。1927年には、ソ連の探検家ピョートル・コズロフが、ゴビ砂漠にあるカラ・ホトの廃墟でジンギスカンの墓を発見したという報道が出て、世界中で話題になります。実際にはジンギスカンとは無関係だったのですが、以降、ジンギスカンの墓をめぐる物語が、盛んに作られるようになります。墓を見つけることが、ジンギスカンの継承者になることのように結び付けられたのです。満州事変直後に製作されたアメリカ映画の『成吉斯汗の仮面』(1932年)は、まさにそんな話でした。おそらくこの映画を参考にしたのでしょう、翌年には山中峯太郎という人気作家が、『万国の王城』(1933年)という小説を発表しています。コズロフの「発見」に触れつつ、列強の妨害をかわしてジンギスカンの墓を見つけるや、それは義経だったと判明するという物語です。噓から出た実というべきか、1937年には満州日日新聞が、満州で義経の墓が見つかったという一連の記事を発表します。やはりジンギスカンは義経だったのかというわけで、小谷部は大喜びし、『成吉思汗ハ源義経也』の改訂版で紹介することになります。
満州が建国宣言をした1932年以降、ジンギスカンはますます日本の理想の英雄のように眺められるようになります。実際に、そんな日本の自画像としてジンギスカンを描いて、満州の建国を祝ったのが、先にアイヌの女性を描いた小早川秋聲です。その《絶目盡く吾が郷》は、ジンギスカンが馬によりかかって遠くを見つめる絵です。見渡す限り自分の故郷という意味の題名は、志賀重昂の『日本風景論』冒頭にある「江山洵美是れ吾が郷」という愛郷心と比較できるかもしれません。しかし、《絶目盡く吾が郷》では、ジンギスカンが何を見ているのかは描かれていません。つまり、どんな土地であっても、それは自分の土地になりうるという、巨大な帝国の始まりを読み込むことも可能でしょう。
こうした日本画は、当時、例外ではありませんでした。ダイナミックな大作を得意とした川端龍子という日本画家は、義経ジンギスカン説を信じてモンゴルを渡り歩き、その名も《源義経》(1938年)と書いてジンギスカンと読む屏風絵を発表しました。ラクダに囲まれた甲冑姿の義経が左の方をにらむ絵で、日本から中国大陸、さらにはその奥へと「西方」を見すえる構図となっています。1930年代、満州や蒙古との結びつきを強調するため、やたらとラクダが描かれましたが、その多くが見ている者を誘うように左を向いています。これは 川端龍子の日本画でも、『万国の王城』のような小説の挿絵でも同じでした。このあたりは『日本文学の翻訳と流通』(2018年)という本が収録する一文で詳しく書いたので、関心のある方はご覧になっていただければ幸いです。
4. 悲恋と英雄の物語としての戦後の復活
このように義経ジンギスカン説は、日本の海外への雄飛や帝国の夢を語る小道具として、物語や絵画で何度も描かれてきました。戦後、そんな帝国の現実を思い知らされるようになると、今度は生き別れの悲恋の物語として語りなおされます。江戸時代や明治時代に広まった悲恋の伝説が、再び脚光を浴びるようになりました。生き別れた静御前を忘れられないまま、アイヌの女性に求愛され、義経が板挟みになる物語が登場するのです。
義経のことはまったく触れられていませんが、映画『君の名は』第二部(1953年)は、義経伝説そのものです。真知子と春樹がすれ違う旅の北海道編で、春樹はアイヌの娘であるユミに恋慕されるのです。ユミにはサロムというカムイに誓った男がいて、その誓いを破れば恐ろしい目にあうと言われているのですが、物おじすることはありません。しかし、春樹は真知子を忘れてはいないと思い知り、ユミは摩周湖に身を投げ、それを助けようとしたサロムも湖に沈んでいきます。
似たような生き別れの悲恋の物語へと義経ジンギスカン説を見事に作り変えたのが、高木彬光の推理小説『成吉思汗の秘密』(1958年)です。これも内容はほぼ末松や小谷部の著作の使い回しです。成吉思汗の名前には静御前への思いが込められているという落ちはやや苦しい解釈なのですが、帝国主義と結びつけられた義経ジンギスカン説を義経と静御前の生き別れの物語として蘇らせた手腕は特筆してよいでしょう。植田紳爾の宝塚歌劇『この恋は雲の涯まで』(1973年)などにも転用されて、その後も何度か上演されたので、どこかでご覧になった方がいるかもしれません。
その一方で、日本人の自画像としてのジンギスカン像を巧みに継承したのが、井上靖の『蒼き狼』(1960年)です。もちろん井上は、義経ジンギスカン説のことなど書かないわけですが、日本人の立身出世談のようにジンギスカンをとらえるのは末松や小谷部と同じです。例えば井上は毎日新聞の美術記者だった時に、先に述べた川端龍子の《源義経》を見ていて、「いじけた窮屈さのない明るい健康さ」と記事に書いているので、義経ジンギスカン説の延長で書いたということもできるでしょう。
同時代でそれをすぐに見抜いたのが、フィリピンで壮絶な戦争体験をした作家の大岡昇平です。大岡は、「明治以来日本軍が大陸に足を掛ける毎に、「成吉思汗は義経なり」説が出たが、今日でも同じ歌を繰り返す推理作家が現れる始末」と、明治からの義経ジンギスカン説のきな臭さを指摘し、高木彬光の『成吉思汗の秘密』は陳腐と皮肉りました。大岡は続けて、ジンギスカンは極東出身で「はじめて白人を征服した人物」なため、秀吉のような立志伝の主人公としてもはや「なかば日本人」になっていると述べています。それだけに井上の『蒼き狼』も『成吉思汗の秘密』同様に二番煎じでしかない、と批判したのでした。
このあとに続く井上と大岡との論争は省略しますが、日本でジンギスカンの物語は、海外に雄飛した英雄の立志伝として読まれたという大岡の指摘は、重要です。ちょうど同時期のTVドラマで、ジンギスカンの末裔という白頭巾の主人公が、義経を示唆するササリンドウの紋をつけて活躍する『豹の眼』が子供に大人気だった頃です。露骨に義経ジンギスカン説を英雄伝に担ぎ上げはしないものの、世界を股にかける国産ヒーローとなるといまだ義経ジンギスカン説に頼らざるを得なかった事情が透けて見えます。
5. 伝記の変遷と義経ジンギスカン説の終焉
大岡の指摘は、最近では義経ジンギスカン説があまり流行らず、特に若い人には知られてさえいない現状を説明してくれるように思います。そのヒントは書店にあります。
書店で偉人伝のコーナーをご覧になったことがあるでしょうか。ご家族のために見に行ったり買われたりした方はご存知かと思いますが、この2-30年、ひと世代が入れ替わるあいだに、偉人伝の中身もすっかり入れ替わりました。アレキサンダー大王やナポレオンといった偉人伝を想像していると、およそ知らない人ばかりで驚かれるかもしれません。一つには、女性が増えたことがあります。主に女性の読者に向けて、それまでは男性ばかりだった職業への扉を、初めて切り開いたパイオニアの女性を発掘する伝記が増えたのです。もう一つには、文化人が増えたことが挙げられます。ファッションや漫画、最近ならIT系など、独創的な商品を作って、業界だけでなく世界を変えてしまった偉人たちです。
もうお気づきでしょう、すっかり軍人が減ったのです。代わりに登場したのは、ココ・シャネルや手塚治虫、スティーブ・ジョブズのように、独自の作品や商品で基準となるスタイルを作り上げた偉人たちです。軍事力で支配する帝国より、みんなが進んで使いたがる文化やITのシステムを作りあげ、象徴的な帝国を作る方が重要になったと言えるでしょう。もちろん織田信長とかの伝記はまだありますが、貧しい環境から身を起こし、電撃戦で巨大な帝国を作り上げたジンギスカンのような英雄に、出る幕はありません。義経ジンギスカン説が、もはや多くの人々を引きつけなくなったのも同じ理由でしょう。
このように振り返ってみると、義経ジンギスカン説は、富国強兵と海外雄飛に躍起になっていた日本で、一つのロールモデルとして参照されたことが想像できます。明治時代、日本も欧米列強にならって海外に打って出て帝国を作りあげようとしたものの、偉人伝に使えるような人物が日本史には登場しないわけです。ヨーロッパの国々と対峙した時、日本は鎖国政策をとったので、ヨーロッパの国々を攻めていったジンギスカンが再評価されたのは無理もありませんでした。ジンギスカンは実は日本人だったという説は好都合でしたし、これから欧米に対抗する帝国を作り上げようというかけ声にも使えたからです。 そんなふうに義経ジンギスカン説を広めた中心人物は末松と小谷部ですが、二人はともに欧米の大学を卒業した知識人でした。彼らにはどこかで欧米を一泡吹かせたいという願望がひそんでいたのかもしれません。武力で帝国を支配するのがすっかり時代遅れになったことを考えると、また日本で義経ジンギスカン説が流行ることはおそらくないでしょう。書店の本棚を眺めていると、別の形で復活するかもしれないとも思えてきますが、このまま忘れられていくよう、むしろ祈るべきなのかもしれません。ご清聴ありがとうございました。 |
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