はじめに
私が大学4年生の時に卒論のテーマが沢山ある中で「春画」のテーマの研究を選んだ理由は、一つは絵との出会いであり、もう一つは京都が大学で何かをやりたい時に学問の自由な気風の場所であり、また以前籍を置いていた日文研が世界から春画の資料が集まるところであったからです。
近世文学のゼミでレポートを書くため江戸文化の本を見ている中でふと目にとまる絵に出会いました。それは江戸時代後期の浮世絵師歌川国貞の『絵本開談夜之殿』でした。その内容は若い女性の水死体に筵が掛けてありその上に2羽のカラスが止まって、その傍らに男が拝んで立っているというものです。
これは心中の後男だけが生き残るかなりインパクトの強い本(えほん)で、解説を読んでいくと実はこれは「仕掛本」であるということが書かれ、江戸時代から作られている、その仕掛けがこの本にも施されており、頁をめくっていくと女性が男性の性器をくわえ睨み付けて天に昇る恐ろしい幽霊のグロテスクな絵が描かれています。
この江戸時代の「春画」はこれを見て男性が楽しんでいたエロ本であろうと考えられていたようですが、ただのエロ本として片づけていいものか、これを見て本当に興奮していたのかという疑問を感じ、一体こういう表現が出てくる江戸時代の春画というのは何だろうかと考え始めたのが春画研究の第一歩です。ただ男性だけが楽しむ絵本として片付けしまうにはあまりにも表現が面白すぎやしないかと素朴な疑問がスタートでした。そして春画に描かれている男女の色恋ものでなく、そこから外れていく表現は何だろう、又春画とかかわる文化とか幽霊とか生と死等を入り口にして研究を始めていきました。そして春画を見ていく中で必ず頭の中に浮かんでくるのが「笑い」というもので、今日は江戸時代の春画の文化と「笑い」について述べていきたいと思います。
「春画」って何だろうということで、呼称、形式、特徴の順で話をします。
春画・艶本の呼称
現在呼び方は春画が一般的また学術的に使用されていますが、江戸時代以前、古くは偃息図(おそくず)/枕絵/笑い絵が一般的に使われていて烏滸絵/つがい絵も使われていました。又、本の形態から艶本/絵本/笑本/会本/咲本があり、すべて「えほん」と読みます。これらの本/絵の中に笑いがあって呼称の中に含まれている本質、特徴を表しています。つまり春画は笑いの絵でもあると言う事が呼称からも見えてきます。
春画には、ありえない、思わず笑ってしまう、又のどかで、微笑ましい激しい様々なレベルの笑いが含まれている特徴があります。 江戸時代の春画を考える前に笑いが春画の中に必ず含まれてくる日本文化のルーツを考えてみたいと思います。
笑いの源流が何処にあるかを見ていきますと『古事記』の「天岩戸の伝承」にいきあたります。
その内容は、天宇受売命(アマノウズメノミコト)が神がかりして胸の乳を露出させ、裳の紐を女陰までおし垂らし、裸の状態で踊っているのを見て、数多の神々がどっと笑ったので、岩戸が開き天照大神が出てきたという話です。つまり性器が事態を好転させる力を持っていて笑いを起こさす描写が『古事記』『日本書記』の中に確認できます。
そして、性器が力を持っている事は現在の日本の文化の中にも残っており、その一つがお祭りです。愛知県の田縣神社では毎年3月15日の豊年祭で大男茎形(おおおわせがた)を奉納して、万物育成、子孫繁栄を祈願する神事が行われています。
この様な神事は古来より日本各地で行われていて、農耕と性器とが強く結びついて子孫繁栄等を拝む考え方が残されています。それを示す幕末(天保3年/1832)の資料が日文研蔵の『陰陽神石図』という印刷物で、これを刷ったのが下総国(今の千葉県)の松澤村の名主である宮負定雄という人物です。当時飢饉等で農民が苦労していた状況に対し、子供を産み子孫繁栄をと考えて各地にある男女の性器を型取った陰陽石を描き、それを拝めば子宝に恵まれるということを説諭したものです。性器に対しての考え方には春画のような娯楽的なものがある一方で、もっと切実な願いもあり、それらの認識が様々な印刷物の中に表れています。そういった絵画や書物を読むと今私達が持っている性器に対する考え方と異なる生活の中に根ざした考え方があることがわかります。
春画・艶本の形式
大きく2つに分かれます。1つは古いもので肉筆(1点もの)による絵巻、掛軸、屏風などで、もう1つは江戸時代に花開いた出版技術による版画(複製)、版本(複製)です。特に後者ではほとんどこの浮世絵師達が春画・艶本を描き多種多様の表現が生まれてきます。古いものとして肉筆と言いましたが、今記録の中で残されているのが最も古い偃息図(おそくず)と呼ばれる春画です。それが「恒禎親王伝」という平安時代中期頃成立したものに出てきます。その内容は親王が図画を好む人物で、ある人が偃息図を薦めると、親王はこの様な辱なものを好まないとして直ちに焼いてしまったということが書かれています。偃息とは中国からきた言葉で、横になって休むという意味で横になっている絵(男女が寝ている絵)で偃息図が春画を示す内容の絵であったと考えられています。
平安時代は偃息図が絵巻物として描かれていました。例えば江戸時代に模写されたこの絵巻の原本は13~14世紀に宮中のスキャンダルを描いた『小柴垣草紙』というものになります。また、屏風という形で残されているものもあり、これは限られた上層階級の人達しか見られませんでした。
一方、版画や版本になると読者層が商人や町人の一般人に広がっていきます。版画の最初は墨摺一色のモノクロでしたが、時代を経て多色摺が開発されてカラフルな春画が作られるようになっていき、鈴木春信や喜多川歌麿、鳥居清長、歌川広重など当時の有名な浮世絵師たちが一流の版元、彫師、摺師と共に手掛けていきました。江戸時代には一流の絵師は勿論の事、様々な絵師達が春画を描いていましたが、ただ写楽の春画だけが見つかっていません。見つかれば大きな発見になると思います。絵師達にとって春画というのは美人画や名所絵などと同じ、数ある浮世絵のジャンルの中の一つであった事が裏返して言えると思います。
春画・艶本の特徴
春画は男女の性的興奮を促すことが第一義の目的であると思いますが、ただ
それだけでないのが春画の面白さです。春画を見ていますと笑いの部分が目につきますし、一流の彫り師、摺師の技術が春画を完成させるために施されている面白さが目につきます。春画を見るには浮世絵を研究する事が大事で、ひいては合わせて江戸文化を考えていくことが重要になっていきます。春画の中には死がしばしば描かれることがあり、それに対応して生というのが描かれて、そして性と生と死が、又祝祭・まじない・神話・信仰の中にも描かれていますし教育/指南書という部分にも見られます。
次に笑いの部分で春画の特徴の一つである性器を大きく誇張した表現をするのはどういった所からくるのでしょうか。昔は海外で春画イコール歌麿と言われ、彼の春画は男性器が大きく描かれ、海外の人達は、日本人はなんて凄いんだとの逸話がありました。性器を大きく描く表現はどこからきているのか、遡って考えますと、「陽物比べ(ようもつくらべ)」という絵巻物で、これは春画ではありませんが笑いと春画、春画と性器を考えるには重要な絵の源流になっています。このように絵の中で誇張しているのは、古くは偃息図にも有り、鎌倉時代の『古今著聞集』の文書に「ありのままの大きさで描いて、何が面白いのか、絵空事と言う言葉がある通り誇張して物の本質を示して描く」という文章が出てきます。この文章から平安時代から誇張された表現が描かれていたと考えられます。このような表現について春画研究の早川聞多先生は『春画の見かた』の中で、「18世紀後半以降男女の性器はそれぞれの顔と同じ大きさで描かれて、しかも顔と同様に精緻な描写がなされている」と面白い指摘をされています。春画の構造として正面を向いた男女の顔、性器それぞれに平等に視線が注がれる様に描かれているのが大きな特徴の一つです。
近代になり写真が登場してくると、男性の顔が正面を向かないものがでてきますのでそのあたりがわかりやすい違いだと思いますが、日本の春画では顔を正面に向かわせたい為に如何に身体のねじれを自然に描くかは絵師の腕の見せ所であったのかなと思います。
話がずれますが、幕末に多くの浮世絵、春画がヨーロッパに渡り北斎の描いた絵の影響でジャポニスムが起こり、春画も彼らを驚かせました。ピカソも春画を収集し学んで絵を描いていたとジャポニスムの研究者は言っています。
次に性器がどんな笑いを生んできたかをお話ししていきます。
パロディ/見立てと言われる諸法があります。それは誰もが知っている事を利用して茶化して、もじって春画にして笑いを生む方法です。
一つ目に江戸時代中期に活躍した勝川春章が描いた『百慕慕語』(ひゃくぼぼがたり)を見てみましょう。本書は様々な幽霊、妖怪等を春画的にもじって表現したものです。その内の一図では浄瑠璃の『播州皿屋敷』をモチーフにして描いていて、タイトルは「播州皿屋敷」ではなく「播州まら屋敷」と書かれています。よく見ると幽霊のお菊さんの顔が女性器になっています。
また冒頭でお話しした『開談夜之殿』の図は、1776年に大坂で初演された浄瑠璃「桂川連理柵」の心中場面を題材にしてアレンジしたもので、春画は一般的に流布している浄瑠璃や歌舞伎等で表現できない部分を表現する1つの捌け口になっていると思っています。
また大英博物館に所蔵されている「涅槃図」の春画はお釈迦様の寝ている姿を男根で表現し、その回りを女性器及び精力のつく動植物で描いて細かいパロディを作っています。その昔、大英博物館には秘密のコレクションがあり、その中に幕末に訪日した英国人が「あじま神社」から持ち帰った木型の男根があります。日本の各地の神社には下半身の病気を癒やす為奉納する習わしがありました。春画の中にはこういう風習をモチーフにした不思議な神様を描いたがあります。例えば、江戸後期に歌川豊国が描いた『絵本開中鏡』の中では男女の性器でかたどられた神様の周りに木型の男根が表現されていて、春画にはこういう風習を取り込んで思わず笑ってしまうというパロディもよくみられます。
そして本草書のパロディとして書かれた艶本もあります。
江戸時代初期に出版された『和歌食物本草』という本は、様々な動植物を題材にしてどんな和歌があるのかを説明したものですが、その140年後に出版された磯田湖龍齋の艶本「笑翔/色物馬鹿本草」はその本をモチーフとしています。例えば、「鳥の部」の文章には「開鳥、この鳥のひなをめくってうと云う、ひよこに頭の毛はへずして、とさか紅をさしたるがごとし、全体水鳥にしてぬれごとを好む嘴の先に肉有り、頭に赤ぐろきとさか有り、頭の毛黒くちじれ背のあたり玉茎(男根)の如き紋有り、陰陽合体の鳥也、鳴き声ぴちゃぴちゃ、すこすこ、
ふうふう、と鳴きて白き水をはく、夜はもっぱら鳴き、昼はまれなり」とあり、こういう動物がいれば面白いねという馬鹿馬鹿しい春画の表現が見えてくると思います。それから、江戸の中期以降でオランダから入ってきた地図を基にして作られた「蘭学系世界図」を題材した春画もあります。
司馬江漢の「地球全図」(国立国会図書館蔵)に代表されるに「蘭学系世界図」の特色として①東西両半球図が圧倒的に多い事②図形の精密化並びに地理的新知見の吸収に関心が払われていることが挙げられます。これを基に大坂の戯作者暁鐘成(あかつきのかねなり)が「両根式略全図」という春画を描いています。この絵は男性器と場性器をそれぞれ半球の形であらわしてそれが世界を成しているのだということを示しており、春画に対する性器の考え方がわかりやすく表現されています。単純に性を交える絵だけでなく、こういう発想の先には日本の昔からの神話・信仰、祭り等の考え方がチラチラ見えていて、幕末の出版物の中の身体の表現に繋がっていることが良く解ると思います。
最後に
『女大学』のパロディを見ていきたいと思います。『女大学』は女性は規範的にあるべきと説いた本で明治時代まで読まれたものですが、春画はこの本すらパロディにしてしまいます。大坂の絵師月岡雪鼎(つきおかせってい)は、自身が描いた『女大学宝箱』(1716年)をパロディ化して、『女大楽宝開』(1756、57年頃)の艶本を作成しました。また、絵だけでなく本文もアレンジしています。例えば「古より今に至るまで人を養うもの百姓の農作にはじまる」と書かれたものを、「古より今にいたるまで人を作り又その人の楽しみとなる事、この道に勝ることなし、その道とは元より色道は百姓農作に表して、男を天(陽)とし女を地(陰)として男より種をおろし従い地の女より子を産む也」とかえています。この文章では解りやすく端的に男女の営みを百姓の営みになぞらえています。日本の春画が男女の交わりを描いてきた考え方、思想の一端がここに表れていると思われます。
春画では絵師、戯作者達が権威のある書物を真面目に不真面目に手を替え品を替えて色々と表現していますが、中途半端にパロディ化しないという事が重要ではないかと思います。
まとめますと、春画というのはある側面だけでは語れないものだということを長年春画をみてきて思うところです。楽しく男女の性を描いて性的興奮をうながしているだけでなく、豪華本、パロディの笑いがあったり、性の指南書とか、生と死のグロテスクなもの、男女の養生書の機能があるもの、又贈答品としての春画等様々なものがありますが、それが一度近代化にあたって我々の感覚と断絶してしまった部分が多々あるかなと思います。そして、江戸時代の春画を理解するためには
近代以降の考え方、価値観を脇において当時どのような社会で、人々はどのような事を考えていたかを考えながら春画を眺めていく事が重要になってくると思います。そして、一つの入り口となるのが笑いの部分かと思います。
最後に日文研で所蔵されている笑える手間暇かけた小さな着せ替え人形の一枚を紹介し、江戸時代の人達はどのように春画を楽しんだのだろうと皆さんに考えて頂だければと思います。
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