第8回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA大ホール
2023年1月19日

「講談の世界」~その歴史と可能性について


 

なみはや講談協会 副会長 講談師

旭堂 南海氏

講演要旨

講談とは講釈とも言われ、その演者を講談師あるいは講釈師と唱える。「講釈師見てきたような嘘をつき」とも揶揄された芸能だが、一体どうやって生まれ、今日まで(細々とではあるが)生き延びてきたか?南海が口一つで「見てきたように」お話しします。


講談師について

  今のご時世では、意外と高年齢の方でも講談知らない方が当たり前のようになっていますが、近頃なんとなく「ああ  講談ね」とこう言われるようにまでなりました。プロとして活動をしている講談師の数は、東京で80名少し、関西も30人位なので、合わせて120人位かと思います。

一龍齋貞鳳という方が昭和40年頃に本をお書きになり、その本のタイトルが『講釈師 ただいま24人』でした。東京で22人いらっしゃって、大阪では2人だけだったのです。しかもその数年後には東京でご老体だった方が5、6人お亡くなりになって、関西でも私の師匠のお父さん、二代目旭堂南陵が亡くなり、講釈師は20人を切るどころかもう滅んだ・滅びたとまで言われていたぐらいです。けれど細々ながらもなんとなく講談、講釈というものが生きながらえて来ました。こういうところも今日は少しだけお話ができればと思います。

講談師はどんな人

講談・講釈師は芸人です。不思議なことに落語は一定の年数が経ちますと師匠、師匠と呼ばれますが、講談の場合は先生と呼ばれます。私たちの年齢の人間が十人も楽屋に集まると先生だらけになり、まるで職員室みたいになります。なぜ先生と呼ばれるか、落語家、噺家というのは家という字を書きます。落語家は落語をおしゃべりする一家の一人ですよという意味合いで。講談の場合は講談家とはなかなか言いません。言う場合もたまにはありますが、通常は講談師と言います。この師は師匠の“師 ”なんです。弁護士の“士”とは違うのです。弁護士の方も先生と言いますが、あれは多分先生と呼んじゃダメなのです(笑)。師匠の師をつけている人のことを先生と呼ばなきゃならないという…漢字の成り立ち、意味合いからは、そこは明確に区分すべきと思います。弁護士の士という武士の士ですが、なぜ弁護士にあの“士”をつけたかというと、依頼人にとことん寄り添い、依頼人のために尽くして弁護をする人だから弁護士の士は武士の士なのです。武士というのは殿様に命をかけて仕えるますよね。一方、私たち講談師は医師と同じです。医者と同業というと多分お医者さんは怒ると思いますが(笑)…何故、同じ師をつけているかというと、師を使う医師は患者に寄り添いはします、施しをするということ、あるいは医学の知識を教えて病気を治してあげるという何かを授けるという人です。講談師は単にこの時間帯をおもしろおかしく聞いてもらおうというのも当然ありますが、それに少しプラスしてあなた方に知識というものも少しお授けいたしますよという職業でもあります。歴史の話をしゃべると、知らないことがあって、それをあなた方は今日知ることができる、なぜならば講談師が教えてくれるからです。そんな意味合いがあって武士の士ではなく、医師の師という字をあてがうんだと、このように亡くなった師匠から教えてもらいました。

講談の世界

講釈師のおしゃべりは、どこまでが本当で、どこまでが嘘なのか、聞く人はよくわかりません。講釈師は歴史の話を見てきたようにおしゃべりする商売だからです。本当のことだけおしゃべりしていたのでは面白くありません。面白くしようとするところにフィクションが生まれ、そのフィクションの度合いをどれほどにするかで、「あの人の話は面白いけど多分嘘やね」とバレてしまったり、「あの人の話はなんか興味深いね」と思われてうまく騙せたりします。しかし騙すと言いましても罪のある騙し方をするわけではありません。本当のお話をよりわかりやすく知ってもらうためにフィクションというのを入れ込むわけです。

本来ですと座布団に座り、前に講釈の台釈台)があります。大阪の落語前に小さな机を置いているのをご存じでしょうか。釈台はあの机をもっと横に広げた大きな机です。日曜日の夕方日本テレビで笑点という番組があって、大喜利と言って何人もの方が並んでいますが、一番テレビ画面の左側に春風亭昇太さんがお座りになっている前に机があります。あの机が実は講釈の台で釈台です。昔は東京の寄席小屋には必ず、講談師も出演していたので、常設の釈台が置いてありました。ところが先ほど申し上げたようにどんどん講談が斜陽化して、落語のほうが全盛になってしまいました。小屋や演芸場では「この釈台、邪魔でしょうがない。何か使い道がないなら薪にして燃やしまおう」とか言われる中、大喜利の司会の机に使えのではとな、あのような使われ方をしているのです。ひどいことに講談の釈台なのに、笑点と彫り込まれてしまい、笑点以外に使い道がないということになっています(笑)。

講談師は釈台を前に置いてそして座っておしゃべりをする商売です。今日は講演なので立ったままおしゃべりしますが、手に持っているのは手ぬぐい、これは噺家さんと一緒です。それから白扇(扇子)これも噺家さんと一緒ですが、一つ違うところは和紙を巻いた張り扇というものを持ちます。あるいは張り扇と共に小さな小拍子を持つ方もいます。歴史的には小拍子を持つほうが古いです。その後、この張り扇というのを持つようになりますが、その間の時期には両方持つという方も出てきていました。和紙を巻いた上の方は糊を使っていて固いのですが、このたたく面のところは糊を一切使わないのです。巻いてあるだけなので土台の型紙との間に空気が若干入ります。この空気によって叩くと音が鳴ります。どういう時に叩くかと言いますと、見てきたような嘘が入る商売なので、ちょっとした嘘が入る時に一発、大嘘が入る時は乱打します。今日は南海電車で大阪狭山市駅を降りましたが、堺あたりとは雲泥の差で、お通りになる女性の方がただただ美しいこと……このような時に一発叩いてもいい局面になります(笑)。しかし、嘘が入る時に叩くというのも実は嘘です。そんなことをしていたら私の話は叩きっぱなしになります。本当のところは息継ぎの時に叩いたり、場面転換の時に叩いたり、たまに本当に乱打する人がいすが、この時は次何喋るか忘れた時です。

講談の舞台

さて今日お配りしているプリントですが、その絵の講談師の姿、黒の着物を着て前に釈台を置いて、右手には今僕が持っている張り扇を持っています。左側に小さな拍子木が置いてあり、真ん中に台本がある。その絵は江戸時代の終わり頃のものだろうと推測できます。なぜならばいろんなところにヒントがあるからです。今私が話してきた中で、歴史的に多分古いのは拍子木だろうと言いました。その後、張り扇が出来上がってきて、中間の時には両方持っていました。この絵は両方持っており、場所は屋内なので江戸時代も後期に入ってからということが分かるのです。元々、拍子木を講談師が使った目的は、お寺や神社の境内などの野外でやっていたので、今からここで始めるぞという意味合いで多分叩いていたのだろうと推測されます。江戸の後期には室内で高座をしつらえて口演する事が許されるようになりました。この絵にもあるように、高い座…それが高座です。この高座というのは落語の方が有名なようですが、実は講談の方が最初なのです。江戸時代は落語も講談も当然大阪などは野外でやっておりました。 野外でやる時にはお客さん方が立って見ていたり、床机に座ったりします。演者は地べたに近いところで喋っていたと言われています。けれど江戸の講談の先輩が、私たちは歴史の話をさせていただく稼業であり、その話の中には東照神君のお物語を申し上げる事がある。が、その際、講談師よりも高いところから見下ろすような一般の客たちがいて良いものだろうかと奉行所に上申した人がいるのです。持って行き方がうまいでしょ。東照神君と神様にまで徳川家康公の話も我々商売柄させてもらうのに、庶民が高い所から見下げるようなものじゃダメだよという上申書を出したので、奉行所はそれなら講釈の人間は高座を作るということを許すものなりとなって、これが実は寄席の高座の始まりなのです。落語が後にそれを真似するということになります。また、この絵にもあるように、釈台には台本を置いておりました。ですから、全く忘れてしまっても絶句してしまうということは多分なかったろうと思います。
 けれども江戸時代の終わり近くになると落語がやはり庶民の人気になってきました。落語も実は台を置いていたのですが、それを外す者が出てまいりました。どうして外すかと言うと、演者の目台本に行かず、客席を向きます。するとお客様は油断が出来なくなるのです。講師の先生がずっと下向いている、あるいはずっとお尻向けていたら、そっち側で弁当を食い始めるヤツとか寝るヤツとか出てきます。けれどそれができなくなると自然とお客さんは話に集中します。そしてページをめくるという手間などがなくなると両手が空き、仕草が付けられるようになります。また、今では当たり前ですけれど落語の方は一人芝居をします。こっち向いて Aさん、っち向いて Bさん、「(A)今日は」「(B)おぉ誰かと思ったらお前さんやないかというような言い方は、この台本がなくなってから本格的になったと言えます。落語はそれでまた人気が高まってきたとお考えください。講談は依然としてずっと本を置きながらおしゃべりをしていたわけですが、江戸時代の終わり近くになると、「俺は全部覚えたよ本を外す方が出てきました。するとその方のやり口というのは落語とよく似て、こっち向いたら武田信玄でっち向いたら山本勘助になるというわけです。
 世の中はやっぱりお客様主体です。下ばかり向いて喋っている人よりも、おもしろおかしく落語のように上下(かみしも)ってしゃべる。それまでは講談は男の人の声も女の人の声も全部一緒だったのです。また講談師は記憶との戦いに明け暮れることも多く、落語と違って覚えるべき固有名詞がやたら多いのです。例えば赤穂浪士の四十七士ですがその名前も一応我々は覚えます。東海道や中山道の宿場も私は全部覚えました。台本を外すと、そのような暗記物が物凄く多くなるのですが、一方で、落語のように仕草や上下を付ける事が出来て、お客により解りやすくなってきたのです。まっそれは落語に近づいていったとも言えるのですが。今では台本を置いて読むという形では無くなった講談ですが、その名残りはあります。私達は今でも「一席読ませて戴きます」と言うのです。落語は喋る、講談は読むと言われます。

講談のネタ(題材)

講談の歴史は室町時代ぐらいまで遡ることができますが、今の私みたいにこれを専門にしていたかというとちょっと疑問が残ります。おそらくお坊様とか神主とかが歴史の物語を一般の方々にでは無く、地位の有る方々におしゃべりをしていたと思います。大名などは、講談の内容がこれからの生き方や、戦の時に役に立つと考えて聞いていたようです。講談でどんな話をしていたかというと、戦国時代までは、中国の三国志、源平合戦の一ノ谷の戦いや徳川家康が敗戦となった三方ヶ原の戦い、あるいは楠正成の戦いとか合戦の話ばかりでした。江戸時代に入ると合戦というのがない時代となり、少し砕けた内容のお話…例えばお家騒動の話などをするようになりました。こうした話がなぜ受けたかと申しますと、聞く側は男性で庶民でした。大名は雲の上の存在であり、彼らがお金持ちでみんな仲良く暮らしているとなればむかつきますね。お金持ちだけどもめているというこれが一番ワクワクするのです。今も同じですね。週刊誌が売れるのと同じです
お家騒動には必ず若君様が登場します。その若君様を亡き者にして自分の息子を後継ぎにしようという悪人が出て来ます。が、すんでのところで義侠心篤い奥女中が登場し、若君を身を挺して守るという筋書きになります。でも、女中は大概殺されてしまいます。けれど、それでは余りに可哀想だと、講談師は、彼女は殺されたが、幽霊になって登場するというような筋にしたりしました。播州皿屋敷のお菊さんの話は有名ですね。皿屋敷の怪談は、主人が女中に思いを寄せるが振り向かないから、わざと皿を一枚隠して…という筋が有名ですが、元々は播州の小寺家の御家騒動のお話であると講談では唱えております。
 講談は今では落語と同じように二十分から三十分程度の一席物を口演するのが当たり前のようになってしまいましたが、本来は、長い物語を毎日毎日、続き読むというのが基本です。今の大河ドラマや朝ドラもそうですが、いいところで話を切り「この続きはまた明日」と言って、お客さんを引っ張っていました。また、元々はそう長い物語でも無いけれど、明日も来てもらおうと思う講談師がひねり出したスタイルもあります。主人公が全国を移動して活躍をするという漫遊記です。水戸黄門漫遊記が有名ですね。その他にも真田幸村や猿飛佐助なども漫遊させています。
 さてもう一枚のお手許のプリントですが、これは見立て番付と言います。今、東京で初場所が行われておりますが、あのお相撲さんの番付に見立てて作った明治四十年前後の関西の講談師の番付です。相撲の番付では力士名があり上には出身地が書いてありますが、この講談番付は、下に太字で芸名が書いて、あってその上に得意ネタが書いてあります。この番付が出来上がった頃は、講談人気はもう右肩下がりになり、斜面をずっと降りつつありました。一番隆盛だったのは明治20年ぐらいと言われておりますが、そこからなぜ斜陽化してしまったかというと、一つには浪曲という芸能が起こってきたことです。今一つは雑誌というものが誕生したということが挙げられます。雑誌に実は速記という物が載せられるようになり、速記本が出始めます。当初は落語でも出していたのですが、落語は3冊ぐらい出したらもう終わります。講談は長い物語なので、分厚い講談の速記本を出しても長く続きます。無尽蔵に講談のネタはあるぞというような感じだったので各出版社が多く作られ講談の速記本というのを売り出したのです。講談師は雑誌社が雇った速記者に、講談のネタ(読物)を提供して謝礼を貰ったのですが、実は、それが講談人気を陰らせたとも言えるのです。雑誌を買ったり、借りたり(当時は貸本屋によく置いていた)した人達は、それで満足して寄席へ足を運ばなくなったのです…。

講談の抱える課題

講談の速記本流行も終わり頃(明治の末近く)、野間清治と言う人は大日本雄弁会という会社の講談部門から講談倶楽部という雑誌を出し、ヒットさせました。大日本雄弁会の講談部門の雑誌は覆面作家によってバカ売れしたのです実は、野間さんは従来のように講談師から速記者が読物を速記したものを活字にして出版するという流れを変えました。講談師と速記者を外して、才能ある若い作家志望の人達に、講談のような物語を書かせて、表向きは講談ですと言って出版したのです。それが当たったのですね。もともと、大日本雄弁会は雄弁という演説速記の本を出すのが本来でしたが、それよりも講談の雑誌が売れるので、「本筋はもう要らないや」となって、社名の大日本雄弁会…これを外してしまい、講談部門だけ残したのです。そうして出来上がった会社名が講談社です。
 よくお客様にわれのはたくさんの読物がありましょうが、みんな古い話ばかりです。新しい講談を作れば“講談古臭いもの”とは思われないのでは?です。私達もそれは痛感していますが、新しく作ることは年々難しくなっています 第一に何が難しいかと言うと、講談師の私が知っている情報と皆様方の持っている情報がほぼ一緒ということです。下手したら皆さんの方が詳しかったりします。それでは、新作の講談を聴いて「へぇそうだったのか。知らなかった」とはならないのです。また現在はコンプライアンスがとても厳しくなっていますので、勝手に新聞記事や週刊誌なんかに載っている情報を使うと、著作権の侵害になります。また、個人的な事柄を講談に仕立てるとプライバシーの侵害ともなりす。新作ということになれば、出版社作者の了解当事者の全面的な協力とかが必要です。大会社の社長一代記を作ってくれというのがよくありますが、面白く仕立てようとすると、社長の良く無い一面?も入れたりしたくなります。けれど、往々にして、事前に原稿を提出せよという検閲が入ります。検閲から戻って来た原稿からは、悪いことは一切排除されて、いい事ばっかりの話になり、面白くないということになります。というところで講談の新作はなかなか手強いぞというところをもちまして本来なら一席何かおしゃべりしようと思った次第ですが、この続きはまた次回に詳しくということでちょうど時間となりましたご清聴ありがとうございました

 


2023年1月 講演の舞台活花



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