第7回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA大ホール
2022年12月15日

伊賀・甲賀忍者の足跡


 

三重大学 人文学部教授 

山田 雄司氏

講演要旨
伊賀・甲賀は「忍者の聖地」とされていますが、江戸時代初期には幕府をはじめ日本各地に忍者を輩出しています。忍者はどのように誕生して広がっていったのか、岸和田藩に仕えた甲賀者についても話していきます。

 1.はじめに

 私はもともと「怨霊」とか「祟り」とか中世の信仰についての研究をしていましたが、地方国立大学としての三重大学で、地域のことに取り組む一環として2012年から「忍者」の研究を始めました。忍者というと黒装束を着て手裏剣を投げ、女性忍者の「くの一」が活躍するイメージがありますが、どれも作られたイメージです。各地の忍者施設では、例えば伊賀には「伊賀流忍者博物館」がありますが、必ず手裏剣を投げる体験ができるようになっています。しかしいろいろな資料を見ても忍者が手裏剣を投げたという記述はありません。黒装束についても、もともとは盗賊が着ていて、歌舞伎等によって盗賊をまねた忍者のイメージが作られていったと思われます。「くの一」にしても、忍者は武士の一部だったので忍者に女性がいたとは思えません。「水戸黄門」で由美かおるさんが「くの一」として活躍しますが、女性の登場で見栄えすることで、「くの一」のイメージが作られたのでしょう。
ともかく忍者はどこからが本当でどこまでが作られたれたものか曖昧な部分が多く、研究する上ではしっかり資料を基に考えることが大事です。
 私は世界20ヵ国くらいで講演をしていますが、忍者はとても人気があり世界で通じる言葉になっています。忍者、忍術は海外では武術と捉えられている面があり、我々日本人とは認識の違いもあります。忍者は戦国時代から江戸時代の終わりまで、伊賀・甲賀だけでなく日本全国にいました。三重県に伊賀、滋賀県に甲賀がありその境界に位置する余野公園で、伊賀と甲賀の人達が集まって「掟」を作ったりしたと言われています。「伊賀の忍者と甲賀の忍者はどう違うのか」とよく聞かれますが、基本的に同じことをやっていて、忍者の技量や役割に違いはありません。

 .忍者(しのびのもの)とは

 塙保己一「武家名目抄」によれば、忍者(しのびのもの)は間諜であり、あるいは間者、諜者といい、いわゆるスパイといえます。他の国に密かに行ってその状況を調べること、敵の中に味方のふりをして間隙をうかがうこと、敵の城に火を放つこともあります。また刺客となったり、忍目付としてさまざまな情報を探ります。その出自はいろいろで、透波(すっぱ)・乱波(らっぱ)という盗賊の者や、土豪と呼ばれる有力な農民もいます。京都の近くや、伊賀・甲賀では地侍が多く、これらの地域では応仁の乱以降、「党」を作って日夜戦争をして、その中から間諜の術に長けた人が出てきました。伊賀、甲賀の間には交流関係があり一体となっています。伊賀、甲賀が畿内と畿外の境また東国との境になっていることも地政学上重要です。忍者の誕生は、「忍び」が文献として初めに登場する舞台が京都石清水八幡宮なので、京都であったと考えられます。そして忍者が高度に発達していったのは伊賀・甲賀であり、特に伊賀は都に近く、間諜の地として選ばれたと思われます。江戸時代になると、それぞれの藩では忍びが治安維持に携わりました。例えば参勤交代の時の藩主の護衛(特に就寝時)、門番、祭礼時の警護あるいは一揆の時にその状況を探索するといった活動になります。

 3. 忍者(しのびのもの)の役割と資質

藤林保道『万川集海』(1676年:全22巻)は、忍術書の中で一番まとまっていて、忍びの役割が平和の維持に変わっていった時代に、伊賀で書かれ甲賀にも伝わっていきました。この忍術書の中で、「“素晴らしい忍びの者”とは抜群の功を成し遂げる。その時には音を立てることも無く、においを残すことも無く、名前を残すことも無く、しかし天地を造るくらいのことを成し遂げる」「“本当に素晴らしい忍び”は名前を残さない。存在さえ残さない。それが一番大切なことである。誰がやっていると思わせないである方向に向かわせる。それが忍びの役割である」と言っています。

また小笠原昨雲『軍法侍用集』(1618年)によれば、忍びに遣わす人(忍びのもの)に必要な能力として、次のように記しています

一番目には智ある人(知恵のある人)、これが大事である。知力が大事で、さまざまな知識を持っていなければいけない。例えば忍者は火を使う時、風がどのように吹くかは重要で、これを知っておくと風上から火をつけて火事を広げることができる。また知識に加えて、その知識を臨機応変に使うことも大事である。

 二番目に記憶の良い人。例えば城の中の構造はどうなっているのか?そういうことを頭で覚えて後から書き記すことが必要となる。

  三番目に口のよき人。情報を聞き出す時、人と仲良くなって、相手を気持ちよくさせ聞き出す。
つまり人の心の中に忍び込むことが非常に大切である。普段は話せないようなことを相手から聞き出すことが大事である。(忍びはコミュニケーション能力に優れていることが必要である。)大名はその配下に忍びの者がなくてはやっていけない。大将がいかに戦上手であっても敵の状況を知らなければ攻め方もわからない。情報がなくては戦略をたてることすらできない。

  このように情報産業に携わっていたのが忍びのものであり、当時の最先端の科学技術を駆使していました。またいち早く鉄砲を取り入れたのも忍びのもので、火を使うのはもともと忍びの特徴的なものでした。伊賀・甲賀の忍びはこうした能力に優れていて、徳川家康は伊賀・甲賀の忍びを江戸に連れ帰り、上手く使って天下統一を成し遂げることが出来たと言っても過言ではありません。東京には今も伊賀・甲賀忍者に関わった場所が数多くあります。服部半蔵が住んでいた場所は「半蔵門」、新国立競技場は甲賀者が鉄砲を撃つための弾薬庫があった、神宮球場は鉄砲を撃つ練習をした場所等。
家康が伊賀・甲賀忍者を江戸へ連れ帰ったことは全国に知れ渡り、各藩も伊賀者、甲賀者を召し抱えるようになりました。

 次に「忍び」について書かれた他の書物をいくつか紹介しましょう。
尾張藩の兵学者であった近松茂矩が書いた『甲賀忍之伝未来記』(1755年)には、「忍びの術をあやしいと思う人が多いが「五間の伝」(孫子の兵法にあるもの)が一番重要である。相手方からどのようにして情報を取ってくるかが重要で、姿や形を変えたり、壁や塀を乗り越えたり、敵の城へ侵入するとかの末端のことにこだわって忍びの術が小さくなっていっている。」と書かれています。

 また西宮にある黒川古文化研究所蔵の『窃奸(=忍び)秘伝書』では、「武田信玄は忍び(出抜:デヌキ、スッパ)を左右の手のように自在に使ってすべての戦いに勝利することができた」と書かれています。

忍びの人にはどうような人がなるか、その資質として以下一から六までの記述があります。

第一に智のある人、第二に口のよき者、第三に覚えよき者、第四に無病なる者(健康な人) 第五に気情強き者(しっかりしている人)第六に早道なる人(道を早く走り歩き情報を早く伝える人)第七に物書者(ものがきもの;文章能力に優れている人)

一から三までは『軍法侍用集』と一致しています。

 名古屋の逢左文庫蔵、近松茂矩『用間俚諺』(1775)の記述では、「伊賀・甲賀は、忍びの中でも突出した存在であること。忍びの術は魔法・妖術というものと思われているがそうではなく、兵法者から見ても邪道なものではない」と書かれています。歌舞伎等で印を結ぶとカエルに変身する物語(児雷也)が紹介されたりしたので、忍術は妖術と誤解されたりもしたようです。

 永禄十二年『惣国一揆掟書』(1596)(織田信長が攻めてくるときに作った掟書)では、

・一味同心せよ(皆で団結せよ)

・攻めて来た時は鐘を鳴らして自分の持ち場に着く

・自分で兵糧弓矢など用意して伊賀の入り口に陣をかまえて準備せよ

・年令は上は50歳下は17歳までの男子が任務につきその他の人は国の安泰をご祈祷せよ
このような掟書に沿って、多くの山城が伊賀に作られて今も残っています。   
 大阪の岸和田にも忍びはいました。1640年に岸和田藩主となった岡部氏は、幕府から許されて江戸の「青山甲賀百人組」から五十人を召し抱えたのです。岸和田藩は紀州藩の押さえ(監視役)となり、大阪の南の守りとして重要な地域でした。この五十人は普段は甲賀に在村のまま仕官し、何かあると岸和田に馳せ参じることになっていました。

 岸和田甲賀五十人の職務としては、有事における藩主への供奉 鉄砲隊として組織化され 砲術の訓練、焔硝(火薬)の製造がありました。   

 最後になりますが、松代に行った時、「信太流忍術行法次第」いう資料を見つけました。左側に狐、狐と書かれていて呪術的な、まだ誰も知らない忍術書と思っています。まだ未発見の資料もありますので、これらを今後の研究課題として取り組んでまいります。本日はご清聴ありがとうございました。   

 


2022年12月 講演の舞台活花



活花は季節に合わせて舞台を飾っています。


平成24年3月までの「講演舞台活花写真画廊」のブログはこちらからご覧ください。
講演舞台写真画廊展へ