第4回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA大ホール
2022年9月15日
「日本人と鬼」
佛教大学 歴史学部教授
八木 透氏
講演要旨 日本人にとって鬼とは、如何なる存在なのだろうか、鬼について知ることは、人間について深く洞察することにつながるといえるだろう。 日本人と鬼との関わりについて、民俗学の立場から考えてみたい。 |
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はじめに ー鬼についてー ここ2~3年テレビ、映画、様々な書籍で鬼ブームが起こっていますが、そのきっかけは多分「鬼滅の刃」というアニメが大流行した為だと思っています。それはコロナの影響が一つの原因と思われ、近年の鬼ブームはこのコロナと「鬼滅の刃」が双方に作用して相乗効果をもたらしていると分析しています。 さて日本には八百万の神がいると昔から言われています。日本の宗教は多神教で神や仏で守られて日本人が今まで暮らしてきた歴史があります。しかし一方で我々人類に危害を加える恐ろしい存在が沢山いたと思います。我々は常に闇の中に見え隠れする狂気に怯えながら暮らしてきたといえます。 つまり、人間は恐ろしい存在である天変地異である洪水、地震、落雷、疫病、飢饉等の現象で過去に多くの人が死に至りました。これら天変地異変を総称して鬼と考えても良いと思います。 今、多くの人が抱く鬼のイメージは二本の角があり、口が裂けて、目が血走ると連想する日本人の多くが今持っている鬼のキャラクターですが、鬼はもっと沢山の顔を持っています。それを今日はいろんな角度から鬼の話をしたいと思います。 少なくとも、日本人にとって鬼は人に危害を加える悪の象徴です。例えば人間が人間を殺しますが食べません、でも人間と鬼との一番違うのは鬼は人を殺しますし、食べるという話が歴史の中で多々出てきます、ここが鬼が反人間的であり、反社会的、反道徳的な象徴でもありますし恐ろしさと言えるでしょう。 でも、鬼はそう単純な存在ではありませんし様々な顔を持っています。私は鬼は人間の写し鏡であると言っています。鬼を追求して調べていきますと、人間とはどういう存在なのかというところに行き着くと思いますし、つまり鬼の研究をする事は人間を研究することになります。 大江山の鬼―酒呑童子― 鬼は時には人間を助ける存在に変わるという事がありますし、あるいは変わらなくても人間にはなくてはならない存在する鬼もいます。これらまったく異なった性格を合わせ持った存在を鬼の両義性といい、また悪であった鬼が善に変わるという可変性を持っていることが鬼の面白さに繋がっています。 日本の鬼の歴史で今日まで名を轟かせているのは、大江山に伝わる酒呑童子の物語で、この物語は14世紀の南北朝時代に作られた『大江山絵詞』の絵巻物(池田市の逸翁美術館で収蔵)であり、その後変化を見せながら、能や歌舞伎等の題材にもされて、多くの人達の知ることとなりました。 物語の設定は10世紀の平安時代の一条天皇の時代で、京の都で貴族の姫たちが次々と何者かに掠われるという事件が起こりました。陰陽師の占いによれば、それは大江山に住む酒呑童子を棟梁とする鬼の仕業であることがわかりました。 そこで、天皇は鬼の討伐を源氏の総大将である源賴光に命じ、渡辺綱や坂田公時(金太郎のモデル)ら剣や武芸の達人たちを従えて修験者に扮して大江山に向かいました。一行は鬼たちを騙して酒呑童子の住む鬼の城に入り込み、酒を酌み交わし、頃をみて賴光は代表的な神々から授かった「神便鬼毒酒」―これは人間が飲めば力が漲るが、鬼が飲めば体が痺れて動けなくなるという魔法の酒―を都の銘酒と偽り飲まして酒呑童子が身動き出来なくなったところで一気に首を切り落としたという話で、最後に切られた童子の首は賴光の兜に噛みつきながら末期に「鬼に横道なきものを」と叫んだとされています。「横道」とは卑怯な行いで「鬼はおまえ達のような卑怯な真似はしない」と捨て台詞を吐いて息絶えたのです。この物語は作者不詳ですが、酒呑童子を必ずしも反人間的な絶対悪な鬼とは書かれていないと読み取れて、人間の方が極悪人であると、立場が逆になるおもしろさがこの絵巻物に書かれているようです。さらに、様々な『大江山絵詞』の偽本が出ていますが、その中で賴光達との酒宴で、童子が自分はかって僧侶として比叡山にいたが、最澄によってその地を追われ、さらに空海にも追い出され、仕方なく大江山にやってきたという身の上話をする場面が出てきます。 さらに、童子が地元住民にどのような存在と思われていたかと言いますと伝説と思われますが、大江山の麓の天座(アマザ)―福知山市―という村に「酒呑童子の供養碑」の石碑が建てられ、「酒呑童子断迷開悟」という文字が刻まれています.また天座では戦前からの話として童子の命日である8月10日を「鎌止め」と称して、農具を一切使わずに仕事を休むという慣習があり、童子は恐ろしい鬼ではなくて、物忌みして供養されているのです。 酒呑童子の物語は平安時代の時代設定で童子からみると、貴族や武士、僧侶や陰陽師たち、及び天皇は反逆者であり、極悪人であった。そして、10世紀の後半の京の都の繁栄は天皇や貴族たちだけのもので、その陰にかくれた暗い暮らしをしていた下層の人達を鬼とみなされ酒呑童子もその下層の人達の象徴的な存在であったかもしれません。 さて、京都府亀岡市の「おいのさか峠」にある「首塚大明神」の小さな神社に酒呑童子の首が祀られていると言われていて、賴光達が童子の首を都へ運ぶ際に、首が重くて持って帰れなくてこの地に埋めたと伝えられています。ところで酒呑童子が構えた丹後の大江山は、本当は何処であったかの疑問があります。それは、当時京の都からお姫様を掠って歩いても丸2日かかったようで、それで調べたところ神社の近くに「大枝」〔オオエ〕という地名があるのですが、どれが本当の大江山かと考える必要があると思います。 鬼の有様―鬼は絶対悪ではなかったー 日本人が鬼を意識される日を考えたとき、それは、節分ではないでしょうか。節分は2月と思われていますが、それは間違いではないですが、年4回の立春、立夏、立秋、立冬の前日が正確には節分です、こういう1年の節目となる様な時に、時間の隙間ができて悪いものが人間の世界に入ってくると考えられていて、それが鬼とされて、それを追っ払うのが節分という事になります。 節分の行事は中国から平安時代に宮中へ伝わったと考えられていて、「追儺」という行事に由来していると考えられています。「追儺」(ツイナ)の「ナ」と言う言葉は鬼という意味で鬼を追っ払うという行事に定着していきました。 ただ、中国から由来した「追儺」は今の節分の行事と少し違いますが、現在元々中国の「追儺」」をある程度正確に復元をして古式に乗っ取ってお祭りを再現しているのが京都の吉田神社です。 では、吉田神社で行われている節分を紹介しますと、「追儺」の行事で絶対必要な存在は「方相氏」という(「陰陽師」と考えてもよい)人物が演じるのです。実は、「方相氏」は目が4つあり、多分酒呑童子のモデルになったかもしれません。「方相氏」が沢山の子供を引き連れて楯で鬼を追っ払うのですが、桃弓で邪鬼を追っ払うが、中国では桃が鬼を撃退する力があると信じられていて、このことから、日本に伝わって鬼退治の「桃太郎」の話が出来た原点です。 時代が下ってくると、目に見えないものが信じられなくなり、「方相氏」自体が鬼ではないかとみなされる様になりました。 日本では節分に今でも「鬼は内」「福は内」と唱える何カ所の地域があります、それは弘前市鬼沢の岩木山の麓にある「鬼神社」で鬼が御神体で「農業の守護神」として地域の人々の信仰を集めています。この「鬼神社」は鬼の字の「チョン」がありません、ないのは鬼を神と信じている為です。 この地域の伝説ですが、この地区はもともと土地が痩せて作物の実りが悪かった。そこへ岩木山から鬼が現れたので、農民達は開墾の困難と農業用水の必要を訴えますと、すると鬼は、翌日には力を貸して荒れ地を潤すように水路を作ってくれたのです。その後、村は豊かになり鬼に感謝するため、「鬼神社」を建立し、村名も鬼沢としたと伝えられています。 この村の伝説を考えてみると、この鬼は特殊な土木工事の技術を持った人達の集団、つまり、石工あるいは鍛冶やタタラ師などで、鬼の正体がわかることになります。それで、この神社の絵馬に鉄の農具が奉納されていることから、鬼がタタラ師であったと推測されます。また、鬼の伝説がある所にはタタラ場の存在が多くあり大江山の酒呑童子も鉱山師、つまりタタラ師であったかもと考えられます。 おもしろい話で、出雲の国の風土記に1つ目の鬼がやってきて、人間を襲ったという記述が出てきます。1つ目は何を意味しているかと言うと、実はタタラ師の頭領(「村下」いう)が、溶鉱炉の炎を両方の目で長く見ると失明のおそれから片方の目で見るようになり、その結果1つ目となったとされています。こうして一つ目はタタラ師を意味していると言われています。出雲地方にタタラ師の守護神で「金屋子神」という女神がいます。この神は1つ目でタタラ師の象徴だったかもしれないし、それが鬼とされました 鬼は目に見えないモノだった 平安時代に書かれた最古の日本語辞典とされる『和名類聚抄』に、「オニ」という語源は「隠〔オヌ〕」、つまり目に見えない、得体の知れない恐ろしいものと書かれていて、「オヌ」が訛って「オニ」となり、」中国では「鬼」は死者の魂を意味し、日本では目に見えない存在である「オニ」の当て字として中国漢字の「鬼」が使われたようです。 平安時代には、『伊勢物語』や『今昔物語集』等の説話文学の文献に「鬼」の文字が多く登場しますが、この『鬼』の字を「モノノケ」と読ましているものも見受けられます。又、文献にはどんな姿、形をしていたかは書いていません。 室町時代になると鬼の図像化が進み、鬼のイメージの原型ともいえるような鬼の姿が見える様になります。室町時代の初期の『百鬼夜行絵巻』には様々な鬼の姿が描かれていますが、今日の鬼とはずいぶん異なったもので、現代の「妖怪」に近いもののようです。後期には付喪神(つくもがみ)という人間が使い古した道具を捨てますと、それが妖怪となって化けて出てくるとされ、人間の暮らしと関わる、あるいは恨みを持っているものが鬼であったと考えられます。 もう少し時代が進みますと『不動利益絵起』」に描かれている式神(病気の原因)が、今日の鬼を彷彿させて、イメージが固定化されていきます。そして多くの日本人が想像している、鬼に2本の角が生え、口が裂けた形相のイメージが固定化するのが、室町時代後期から江戸時代にかけて出てくる能面であり有名なお面は「般若」で「生成」もです。 人の内部に存在する鬼―鬼女伝説―
鬼の一番大きな変化は少なくとも外的な存在でしたが、でも人間の心の中にある邪悪さ悪い心が鬼とみなされ、この頃から人間が鬼になる物語が一般的になり多く出る様になり、能面の「般若」とか「生成(なまなり)」「鉄輪(かなわ)」も全て女性が鬼になる話です。いわゆる「鬼女伝説」で、さらに歌舞伎、浄瑠璃等の演目にも取り上げる様になりましたが、男が鬼になる話は例外もありますが殆どありません。そして江戸時代になると、鬼にならないで幽霊にとって代わります。 討伐され祀られる鬼 久留米市の大善寺玉垂宮で毎年正月7日に行われる『鬼夜(おによ)』という日本三大火祭りの伝説を紹介しましょう。この地方に桜桃沈輪(ゆすらちんりん)いう悪党が暴れていたので、この悪党を天皇が派遣した大将が退治したが、誰も供養しなかった為、約300年後悪霊となって現れたので、その悪霊を鬼堂を建てて封じ込めて祈祷を行うという行事です。鬼は、人間の罪やケガレを鬼が受け持ってそして祓い清める役割を果たしてくれる面白さがあります。このように、鬼は必ず討伐されますが、人間の役に立つ存在として祀られます、このようなあり方は日本の伝説の大きな特徴で興味深いところです。 でも日本の鬼は必ず祀られて神になります。例えば桃太郎伝説のモデルとなった「温羅」という鬼が吉備津彦神社に一緒に祀られているのは、日本の仏教の考え方からきているかもしれません。 まとめ ー鬼は人眼の写し鏡― 最後に、現代社会における鬼の存在とは、やはり人間の心の中に宿る邪悪さや憎悪なのかもしれません。それと病気の原因がやっぱり鬼で新型コロナもそうかもしれません。「鬼滅の刃」のストーリーが流行ったのはコロナの感染症の影響が大きかったのではないかと思っています。そして、最近のコロナの感染時代が絡み合ってここ2~3年の鬼ブームが起こったのではないかと思っています。 又、今日マスコミで報道される悲しい事件や出来事、それらはすべて人間の心の中に住む鬼の仕業といえるのではないでしょうか。人々が日々不安を感じる今日、改めて鬼について考える事が必要と思います。 |
2022年9月 講演の舞台活花
活花は季節に合わせて舞台を飾っています。
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