はじめに―宇野浩二と川端康成に触れながら(自己紹介を兼ねて)
追手門学院大学は1966年にできた新しい大学であるが、学院は1888年、明治の中頃にできた大阪偕行社附属小学校が始まりである。偕行社とは軍人の懇親会のことで、高島鞆之助という、乃木希典の上司で結婚媒酌人を務め、のちに陸軍大臣になった人の提唱で創立された小学校である。高島は後に東京に住み、その居宅は上智大学の敷地内にクルトゥールハイム教会として現存している。
この小学校は有名で、偕行社にかかわった文学者たちも意外に多くいる。宇野浩二は芥川龍之介の親友で「文学の鬼」と言われた。昭和2年に芥川が自殺して後、昭和10年に、文芸春秋社長の菊池寛が芥川賞と直木賞をつくったが、その選考委員をずっと続けた人物で、彼の眼鏡にかなった作者たちが世の中に出て行ったことになる。彼の作品「文学の三十年」によれば、江口渙、間宮茂輔、山中峯太郎が偕行社附属尋常高等小学校の同窓であった。文学の世界は残酷で、文学者もすぐに忘れられる。芥川賞や直木賞の受賞者も例外ではない。作家としてはベストセラーよりもロングセラーを出さないと名が残らない。
さて今回は、大阪という土地と文学がどのようにかかわるかについて話をしたい。私も大阪出身なのだが、東京に行くと「何か面白いことを言ってくれ」「しゃべり上手やろ、司会してくれ」とか言われる。しかし大阪にもおとなしい人が多く、面白い話は意外に多くない。一つの県出身ということで“ひとくくり”にするケンミンSHOWのようにとらえる世の中の風潮がある。
追手門とは大阪城の正門のことで、“おってもん”という人が多いが、正式には“おうてもん”で、戦後の改編の際、名門の「大手前女学校」があったので、追手門とした。出身者で有名なのは、今東光や堺屋太一、大学では宮本輝などがいる。大学は茨木市にあるが、ここは川端康成の出身なので記念館がある。彼は大阪天満宮の前で生まれ、生家跡には碑がある。
昔は相生楼という老舗の料亭があったが、今はマンションになっている。
私は、昔作家がいたところや作家が訪れたところを、世界中あちこち訪ね歩いている。行ってみたい場所があっという間になくなっていたり、経営者が変わっていたりする。文学散歩が楽しみで、ちょっと探るだけで身の回りにこれだけ多くの文学、作家のつながりがあることに気付く。自分に関係する場所の文学地図を作ってみるのも面白い。私は母方が奈良なので文学地図を作ったところ、『まほろばの文学街道』という一冊の本になった。皆さんもコロナの免疫つくりのためにも文学散歩がおすすめだ。
第一章 与謝野晶子 (鳳志よう)
堺の宿院にある与謝野晶子の生家跡の道路沿いに記念碑がある。今から6年前の2015年に「利晶の杜」という記念館が建てられて、1階が千利休、2階が与謝野晶子の展示室となっている。この記念館の展示計画委員会のメンバーは5人いて、私も携わった。晶子の生家は駿河屋という羊羹屋さんで時計台のある店だった。記念館ではそうした店の門前を再現している。また与謝野晶子の出した本はとても綺麗なものが多く、裏表から見られるように展示してある。本の内容はともかく装丁を見るのもマニアックで面白い。
与謝野晶子は本名を“鳳しょう”といい、後に「君死に給うことなかれ」と詠った弟と一緒に「浪華青年文学会」に入って、当時有名な歌人であった“与謝野寛”と浜寺の歌会で運命的な出会いをしたという。当時は男の人とデートすること自体が“はしたない”とされる世の中で、非常に大胆な男女関係があったとされている。息子の与謝野光の思い出によれば、父は覚応寺の河野鉄南と仲良しで、この人が晶子の初恋の人だと言われているとのこと。二人とも詩歌が好きで、鉄幹が「僕は本名の上に鉄を付けて鉄幹、君の寺は南にあるから鉄南にしろ」と、ともに鉄の号を付けたと地誌研究者は書いている。
初恋の人かどうか、こうした説明は難しい。好きだった本についてもみんな勝手なことを言う。6歳からトルストイを読んでいたとか。筒井康隆の自筆年譜で船場に生まれたと書いてあるが、戸籍謄本で調べると実際には東住吉区だった。歴史もそうだが作家の自伝も気を付けないと間違ったことが多く書かれている。つくづく思うが本人の言うことは真に受けてはならない。親戚の人の言葉も信用にならない。鉄幹と鉄南と晶子、また鉄幹と晶子と山川登美子には三角関係があった。公式の様なことを言うが、だいたい文学は三角関係しか出てこない。三角関係になると安定を求めて物語が動き出す。ハッピーエンドで終わる二人だけの物語は誰も読まない。大岡昇平は夏目漱石の作品を「姦通の文学」と喝破している。確かに裏切りの作品が多い。
第二章 岩野泡鳴・上司小剣・織田作之助(野田丈六)
岩野泡鳴は淡路島の出身で、阿波の鳴門に因んで「泡鳴」という号を付けた。彼には『ぼんち』という面白い作品がある。話の内容は、ビリヤードで賭けをして負けた人(ぼんち)が宝塚温泉での芸者遊びをおごることになり、往路の電車の窓から頭を電柱に打ち付け大けがをする。それでも友人が温泉に連れていき、痛みがひどくなってもう死ぬかもというところで物語が終わる。東京の人は「途中で帰ったらいいじゃん」と思うだろうが、大阪人は「あほやな」と思いながら「わかるわ」という感じ。
大阪の小説に出てくるのは、昔で言う「色男、金と力は なかりけり」といった男、なんでこんな男がというような男が出てきて不思議にもてる。典型的なのが織田作の「夫婦善哉」に出てくる“柳吉”という男。勝気な女性がなよなよとしたろくでもない男に惹かれるというストーリーである。黒門市場の屋根裏に住み、相方の女性が貯めた大金を一晩で遊郭に使う道楽者、けんかは絶えないが最後は「うまいもん食べに行こか」と「ぜんざい」を食べて仲直りする。幸せとは何か。格好いい男性に尽くすのは面白くない。頼りないからこそ尽くす喜びがある。こうした人間関係は上司小剣の『鱧の皮』にも出てくる。道頓堀の「川魚屋」の旦那が東京からお金の無心を言ってくるが、お金と一緒に「鱧の皮」を送るように言ってくる。無視しながらもこっそりと送る女おかみのお文。うまくいってない人間関係に夫婦の情愛を感じることができ、ここに文学の魅力がある。物語としては、人の不幸ほど面白いものはない。
織田作之助は、典型的な大阪らしさを出すために
①実際の地名を使う
②浄瑠璃、浪花節、上方落語(上方の和事)
③商業の街を示す職種
④町人気質の町を示す数字
⑤食道楽の町を示す「うまいもん」の名
⑥大阪弁
⑦男女関係
を物語の中に登場させるようにしたという。織田作之助は新婚時代に愛妻の一枝と野田村丈六(今の堺市東区北野田)に住み、野田丈六の名前でも作品を出している。
第三章 宮本輝、田辺聖子
宮本輝は追手門学院大学の1期生で、私は彼の作品である講談社文庫に解説を書いたり、対談したりで、随分“関わり“がある。彼の物語の作り方はめちゃくちゃ面白く、読者の興味をそらさないところはやっぱりプロだなと思う。若い頃「ドナウの旅人」の取材でハンガリーに行き、会った青年を日本に招き3年間勉強させている。今思い出すとその青年は神戸大学で私と同じ院生研究室で研究をしており、恐ろしい縁を感じている。 宮本は大阪について丁寧に書いており、ほぼデビュー作である『泥の河』は少年が河に浮かぶ廓船の家族と交流する話。その中で蟹に油を吸わせて火を点け、蟹は苦しがって“船べり”を走り回るシーンがある。この小説は映画化され、監督が蟹に火を点けるが、蟹は走り回らずすぐに死んでしまうので、どのようにしたかを作者に照会したところ、「あれは嘘やがな」との返答だったという。
小説家は簡単に嘘を描く。小説の7割くらいは嘘だと思う。この物語は安治川が上流にさかのぼると堂島川と土佐堀川に分かれることを前提に、廓船が川上にのぼっていく描写を通じて、少年と廓船の家族の人生が分かれていくことを比喩している。小説にはこのような仕掛けが一杯あって、これを読み解けたらものすごく面白い。3作目の『道頓堀川』も、場所は実在するが人物はすべて虚構である。ただ登場する中座や角座も今はなくなっている。他に『春の夢』という作品では大阪の地名がたくさん登場し、大阪を上手く描写している。『骸骨ビルの庭』という作品では“十三”が舞台で、大阪らしさを様々な角度から描いている。
田辺聖子は伊丹に住み、宮本輝とも近所で仲が良かったようだ。彼女は大阪弁を意識して使っている。『言うたらなんやけど』というエッセイ集があるが、中身は標準語。大阪弁で文章を書くのは難しいし、しゃべり言葉は文章にはならない。今東光の「河内もの」のイメージは「ど根性」であるが、これはテレビがそういうイメージを作っているのではないか。吉本の喜劇でいつもスーツを着た「やくざ」が出てくるが、大阪ではあんな人はあまりいない。でもそうした間違ったイメージが大阪らしさとして伝わっていく。
田辺の作品『あほとすかたん』の中で、大阪の「あほ」は親愛を込めたぼんやりとした雰囲気の言葉で、相手の所作を同じところ(目線)で一緒に笑っている感じだと書いている。大阪では「あほ」という言葉をよく使う。辞書を引くと「馬鹿」と書いてある。でも馬鹿とは意味がちがう。辞書には限界があり、こうしたニュアンスを伝えていくのが作家たちで、ここに文学の役割がある。
おわりに―谷崎潤一郎の大阪嫌い
東京の作家の中には「大阪」がたまらなく嫌という人がいる。大阪嫌いで通っているのは谷崎潤一郎と志賀直哉が双璧を成す。谷崎は関東大震災で家を失い関西へ、阪神間や京都に住んだが、晩年は熱海で過ごした。関西弁が嫌いで生涯関西弁を話さなかった。言葉は人間性をつくるので、関西弁=悪い言葉を使うと人間も悪くなると思ったのだろうか。
『阪神見聞録』という作品の中で、「大阪の人は電車の中で平気で子供に小便をさせる人種」「大阪人は電車内で見知らぬ人の新聞を読むことを少しも不作法と考えない」「新聞を2紙買って電車に乗ると、見ていない新聞をすぐに借りにきて、あげく返しもしない人たち」との描写がある。 志賀直哉は奈良に13年ほど住み、のち東京に帰るが、彼も生涯関西弁を話さなかった。また「息子を育てるのは奈良にいては駄目、世の中で勝っていこうという気概のある男にはなれない。だから東京に帰る」と言っている。
関西について、いい悪いは別にして「こういう見方もあるのだ」と認識することが大事である。我々はものを考える時、典型的なものに類型化しがちである。
大阪を描いた文学という言い方をしたが、文学が大阪をつくったのかもしれない。事象も、書いた人によって表現・見方が変わる。こうした力が文学にはある。
今の日常生活、風景を見直してみると、きっと新しい発見がある。学生にも文学を信じて学んでほしいと言っているが、皆様も文学の魅力を感じ取っていただき、免疫強化もかねて是非とも文学散歩を始めていただければと思う。
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