第4回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA大ホール
2020年9月17日

世界遺産 仁徳天皇陵古墳


 

堺市博物館 学芸員
白神 典之氏

講演要旨

 古墳とはどういうものか。古墳に期待された役割を最大限に表現したのが 仁徳天皇陵古墳です。古墳としての価値、古墳築造以来の歴史から 読み取る価値、そして現代の価値についてお話しします。



1、世界遺産 百舌鳥・古市古墳群

 
1.概観
 古墳という巨大な墓が奈良盆地東南部で誕生して約150年が経過した4世紀の終わりになると、それまで奈良盆地を取り囲む丘陵の先端などで築造されていた当時最大のものが、大阪府域に場所を移して築造される現象には、当時の国際情勢とそれへの対応に理由を求める意見が多くあります。
 百舌鳥・古市古墳群は日本の古墳群のなかでも規模が1位から3位までをはじめとする巨大古墳の多さと、前方後円墳、帆立貝形古墳、円墳、方墳と多様な墳形を含む点で傑出し又各墳形において規模の大小の違いがみられる事が特徴です。ちなみに前方後円墳という言葉は江戸時代の「三陵志」に初めて記載されました。墳形の多様性は、社会階層構造や政治構造を示すと考えられ、階層構造の頂点に百舌鳥・古市古墳群の巨大古墳の被葬者が位置し、日本の古墳群の代表であり典型であるといえます。
日本列島には、北は岩手県から南は鹿児島県にいたるまで前方後円墳が造られていた事実は、当時すでに日本列島を統一するようなまとまりのあった事を示しています。そして百舌鳥・古市古墳群は古墳のもつ意味合いを最も発揮し、我が国の国家形成段階の実態、つまり我が国が出来上がった頃の様子を示している


 
2.世界遺産的価値:顕著な普遍的価値
 世界遺産に求められるものに普遍的価値を有する事が百舌鳥・古市古墳群の場合2つに要約されます。
 ① 百舌鳥・古市古墳群は、群として築造された墳墓の規模と形によって当時の政治・社会の構造を表現した、古墳時代の文化を物語る傑出した証拠である。

 ② 百舌鳥・古市古墳群は、日本列島独自の墳墓形式、すなわち古墳の顕著な事例である。」もう少し詳しく、適用した評価基準とその適合の説明を紹介します。

 【評価基準(Ⅲ)】 
 現存するか消滅しているかにもかかわらず、文化的伝統又は文明の存在を伝承する物証として無二の存在である。
また前述した普遍的価値の①も評価基準となっている。本資産は、古墳時代において社会階層の違いを示唆する高度に体系だった葬送文化が存在し、古墳築造が社会の秩序を表現していたことを物語り、各地の古墳群が形づくる階層構造の頂点に位置し、かつ最も充実した典型的な階層構造は列島一円の古墳群の群構成の規範となった。
 古墳とそこでの儀礼を通じた社会統治のあり方は、列島の広い範囲に及ぶこととなり、その総数は16万基以上を数えるに至った。

 【評価基準(Ⅳ)】 
 歴史上の重要な段階を物語る構造物、その集合体、科学技術の集合体、或いは景観を代表する顕著な見本である。また前述した普遍的価値の②も評価基準となっている。
それは、集団や社会の力を最も明瞭に誇示するモニュメントとして祖先の墓を築造した、この列島独特の歴史段階―すなわち東アジアの政治情勢を反映した古代王権の形成・発展過程―を物語るものである。
 百舌鳥・古市古墳群は4つの標準化された形、及び20mから500m近くという著しい多様な規模差を含む。
また欧州の円形、ピラミッドの方形等世界各地に見られる棺・室に盛土・積石しただけの墳墓ではなく、葬礼儀礼の舞台としてデザインされ、葺石と埴輪で装飾され、幾何学を伴う高度な建築計画と技術をもって築造されたユニークな建築物である。

2、世界遺産 仁徳天皇陵古墳

 1、立地と規模
 台地端
古墳はお墓でありますが、埋葬された人の力を周囲の人々に見せるためにより大きく見せる事が重要で、仁徳天皇陵古墳は海に向けて大きく見える様に台地端に造られて事が理解できます。
 造成
墳丘から三重濠まで含めて、宮内庁が管理する範囲の面積は、464,123.98㎡です。(甲子園球場の12個分に相当)
 2、外部構造
 仁徳天皇陵古墳は 三段の墳丘、葺石、埴輪、三重濠、陪冢群等からなっています。三重濠の周囲は 2750m (狭山池とほぼ同じ)あります。長さ:840m 

 
、内部構造
  
 仁徳天皇陵古墳は後円部と前方部の構造からなっています。仁徳天皇陵古墳からは金甲冑、ガラス器、須恵器、馬形埴輪、鉄素材等が発掘されています。
 
.天皇陵として
 仁徳天皇陵は、和銅5年の「古事記」や養老4年の「日本書紀」に記載があり、延長5年の『延喜式』にも記載されています。日本書紀編纂以前の陵戸の設置を評価すれば、日本書紀成立以前から本陵を仁徳天皇陵とする記憶は、脈々と受け継がれていたとみてよく、1300年以上にわたり仁徳天皇陵としての歴史があったのです。
 
.共生の歴史
 仁徳天皇陵古墳の周濠の水は灌漑に用いられた事が数々の資料に見られ、延宝年間の資料では、約117町(約117ha)の水田を潤し、百舌鳥・古市古墳群では古墳と人々の歴史が奈良時代頃から1200年以上にわたって続いていました。
 
.名称
 「大仙陵」が圧倒的に多く、現在の天皇陵名は「仁徳天皇 百舌鳥耳原中陵」であり「仁徳天皇陵古墳」「大仙陵古墳」「大仙古墳」「大山古墳」などが使われていますが、統一する事は困難なようです。
 おわりに
世界遺産としての百舌鳥・古市古墳群は、仁徳天皇陵古墳のスケール、価値を含めて古墳群総体として次世代に大切に引き継いでいくべき宝であり、又地域の人に大事にされてきた事から、そのためにはより多くの方々に百舌鳥・古市古墳群の事を知って頂き、その価値を理解して頂きたいのです。

                  

      
                 《講師未見承》


2020年9月 講演の舞台活花



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