私のフィールドワークについてご紹介しながらそこで学んだことをお伝えいたします。
1993年にガーナの大学に所属してアパンクロという村を紹介されフィールドワークを始めました。村の朝は水くみから始まります。朝食や昼食にはパーム油を使ったアンペシエという料理を食べます。そして茄子、トマトなどの野菜をゆでて、すり鉢ですり、それを熱くしたパームオイルに入れて、塩と唐辛子で味付けをしたディップにゆでたプランティーンバナナを浸けていただきます。
主食は、フフと呼ばれるものです。ゆでたキャッサバを毎日、うすと杵でついてフフを作ります。おもに夕食に食べます。だから村では、夕方になると、このフフをつくポン、ポン、ポンという音が家々から響きます。おもちのように美味しいのです。大事な食べ物なのでたとえば喪に服するようなときにはこのフフを断つという習慣があるほどです。
食事時に父親はいません。
子供たちが別のところに住む父親のところに食事を運びます。これはガーナが母系制の社会だからです。文化は母から娘へと伝えられます。そして子供たちがなんでも、卵一つまで分け合いながら食べる、独り占めしない文化に驚きました。
あいさつについても目上からすることはなく、「お元気ですか」と問われて「調子が悪い」などと答えるのはだめだと諭されたことも印象に残っています。あいさつではお互いの存在を認め合うこと以上は超えないということを知りました。
このようにして村に入り現地の生活に参加しながら観察し、インタビューを重ねて現地の人々(他者)について少しでもわかろうと「世界は謎めいていること」を感じ取りながら、「生きていること」の偉大さに日々新しく驚き続けつつ記録を取っていくのがフィールドワークの手法です。
上記のような生活の背景には長いヨーロッパとの歴史がありました。ポルトガル、オランダと続く占拠の後イギリスとの3度目の戦争に敗れたガーナはその統治下にはいり黄金海岸から奴隷が送り出され黄金が持ち出されました。
このようなヨーロッパとの関係が決定的になったのは1884年から85年にかけて開催されたベルリン西アフリカ会議です。アフリカ抜きのヨーロッパ人だけの会議で海岸部を分割しそこを制したものが内陸部の所有権を持つと決めたのです。こうしてアフリカを分割し、その支配を強めるために民族を創出しました。元来アフリカではどの民族に属するかは比較的流動的でありましたが、圧倒的少数であるヨーロッパ人たちは指導力のある少数派の民族を固定化し他の民族を間接統治しようとしたのです。
ルワンダではドイツの後1916年侵攻してきたベルギーが少数のツチ族に多数派のフツを支配させたのです。やがて1957年フツ解放運動党が結成され1961年には多数のツチが逆殺されました。そして多数のツチ難民がウガンダに逃亡しました。
1962年にはベルギーより独立、カワイバンダが大統領になる。1969年、ツチ難民がルワンダを攻撃、1973年にハビャリマナによる一党独裁政治が始まりツチ排除キャンペーンが高まりました。一方ウガンダにいたツチたちはルワンダ愛国戦線を結成します。それに対してフツが民兵組織を結成し両者の緊張が高まりました。1994年、和平交渉がアルーシャで行われたが帰路についたハビャリマナ大統領の飛行機がキガリで撃墜されたのをきっかけに同年4月から6月にかけてフツによるツチの虐殺が始まりました。犠牲者は800万とも1000万ともいわれています。加害者が12万人捕らえられ、難民は300万人に上りました。
同年7月RPF(ツチの愛国戦線)が全土を制圧、新政権樹立、6年後の2000年カガメが大統領に就任、2001年故郷再生に向けて公正を復興するための伝統的で地域社会に根差した正義回復のシステムであるガチャチャ法廷が各村々で実施されます。
そして償いのため加害者が被害者の家を造ること、毎日水くみを行うことなどが取り決められました。さらに政府は教育言語をフランス語から英語に変更、そしてコミュニティ活動の取り組みへの支援に乗り出し平和構築と紛争管理に取り組んでいます。その結果カガメ大統領は何度も再選されています。
1998年私はビクトリア湖のほとりにあるウガンダの「貧困撲滅研究」に伴う生活面に密着した調査をJICAから依頼され現地に赴き現在も続けています。実際にフィールドワークを行ったのはアルバート湖の近くのルンガ村で対岸のコンゴ共和国からのアチョリ人やアルル人の難民が8割方を占めるところでした。
農業では収穫まで時間がかかるため獲ったその日に食べられる魚を獲る人々がほとんどでした。自分たちでも食べますが蒸して長持ちするように手を加えて流通させて生活の糧にするのです。しかし年々漁獲量が減り現金収入の道も途絶え貧困が目立ちます。
そのような不漁などの問題が起きると故郷に帰って呪術師に伺いを立てるという風習があります。適切に死者を弔っていないなどのご託宣がなされます。ティポと呼ばれる精霊と交信をする形になります。さらにミエル・アグワラと呼ばれる「弔い上げ」、日本の法事のような儀式、を行うことで死者の魂(ティポ)に別れを告げるのです。
このように彼らは見えない世界との交流を大切にしていることが観察されました。もう一つ印象深かったのは、ある時牛の群れを目にしたので数を数え始めたらその牛飼いに「数えるな」と強くたしなめられたことでした。
3年前からケープタウン大学と研究交流をしています。風景、食べ物などおよそアフリカらしからぬ印象を受けました。
このような経験から私がアフリカから学んだことは、実に多様性に富んでいる、なんでも分け合う、人は他の人の存在を通して人になる、見えないもの(死者や祖霊の存在)が私たち生者の日常生活を支えている、大切なものは数えてはいけない、ということでした。
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