第6回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA大ホール
2019年11月22日

交流の日本中世史
〜中世の生老病死〜


 

国際日本文化研究センター助教
呉座 勇一 氏

講演要旨
     中世の人々はどのようにして生まれ、成長し、老いて、亡くなったのか。彼らはどのようにして人間関係を築き、学び、楽しんだのか。戦国武将の政治や軍事と異なり、庶民の生活に関する史料は限られていますが、それらを深く読み解くことで中世人の暮らしに迫ります。
 
   

 熟年大学からのテーマの依頼は応仁の乱でしたが、市民講座や講演会などからは合戦、戦争をテーマとした講演をもっぱら依頼されます。歴史小説や大河ドラマの影響もあり、中世の戦に対する市民の関心は高いようです。
 確かに中世は戦乱の多い時代ですが24時間365日戦っているわけでなく、戦だけ見て昔のことが分かるのか疑問であり、日常生活についてもちゃんと見てみなければ中世社会の実態は分かりません。
 しかし残された記録が少ないため中世の人の日常生活を知るのは難しい。
 現代から見れば当時の日常生活には新鮮な驚きがありますが、彼らから見れば特段の事件がない日々の暮らしについてはあまり史料に記されません。ですから日常生活については意外と分からないことが多いのです。
 しかし残された断片的な史料、絵巻などから迫ることは出来ます。
 本日は中世の人たちの人生観、生老病死について話してみたい。

中世の出産
 まず生について、人はどのように生まれ、出産の場所はどこなのかから始めます。
*産屋の設置
 手元の資料は平安時代後期に念仏宗を始めた良忍の伝記「融通念仏縁起」の写本で、14世紀に制作されたものです。
 詞書(ことばがき)では源覚僧都に仕えていた牛車を引く牛飼童の妻女の出産が描かれています。この絵では往来に面した産室が描かれ、室内には2人の産婆と祈る夫(牛飼い童)、名帳に産婦の名を書き入れる念仏僧(良忍)がいます。牛飼童の妻女が難産のため死に瀕していますが、念仏僧が産婦の名を書き入れ念仏宗に入ったことで命が助かり、これを聞いて272人が念仏宗に入信したとあります。
 貴族の場合産所は邸内に設けられてましたが、一般の大衆の場合はこの絵のように大路に面して設けられることがしばしばでした。
 大友氏の「新御成敗状」24条で産屋を大路に建てることを禁止していますが、このことから逆にしばしば建てられていたことが判明します。
*産所の公開性
 保立道久氏は「融通念仏縁起の場面が興味深いのは、緊迫した出産が通りに面した公開の場で一つの風景の中で行われていることである。道を行く馬上の婦人は身を乗り出して産屋を覗き込み、大路の真ん中にたたずむ僧侶や少女たちも産屋を指さして語り合っている。
 もとより画像の御簾を開けてのぞき込んでいる隣の女や産屋の方に向かって腰をかがめた老女で表現されるように、近所の人々にとってこの場はより具体的な興味や心配の対象であっただろう。」と読み解いています。
 現在の我々の感覚では公開の場での出産はおかしいと感じます。本当に出産は公開されていたのでしょうか。
 服藤早苗氏は 「本来木戸が立てられていたはずであるが、難産で死に瀕していた牛飼童の妻が念仏宗に入ることによって無事出産したことを、絵巻で強調し説明するための絵画的手法として戸を描かなかっただけ」と考えています。
 また五味文彦氏は「絵には絵の約束事があることを知っておかねばならない。密室の出来事を外から描こうとすれば密室の性格を否定しなければならない。 外の人の視線は産屋に集中しているが、内から外へ向けての動きは一つもない。閉じられた空間とみるべきであろう」と語っています。また絵師が鑑賞者に対して出産シーンへの注意を促すために実際にはいなかった多くの人を描いたのではないかという意見もあります。
 この絵巻はクリーブランド美術館所蔵のものですが、ほかの写本では屋外の人間が出産に注目する様子は描かれていません。 とすると、絵師が出産場面を劇的に表現するために多くの人を描いたのではないでしょうか。 絵巻は写真ではない、脚色もあるということです。
*出産の祈祷
 このように死の危険を伴う出産に際し、貴族は祈祷を行っていました。
「北野天神縁起」の出産の場面
 保立は「産婦は前後左右を女たちに取り囲まれて陣痛に苦しんでいる。右手の女は手を掲げて口を開け何かを叫んでいる。そして右側の部屋には、「柿色の衣」を着た山伏がおり、前の庭では衣冠束帯に身を包んだ陰陽師が祭文を読み上げている」
 古代・中世の人は流産や死産に伴う危険を魑魅魍魎による邪気がもたらすと解釈し、祈祷により魑魅魍魎を払い、出産の安全を確保しました。
 「餓鬼草紙」では魑魅魍魎を払う祈祷師と邪気を自分に引きつける上半身裸の巫女が描かれています。
*出産のケガレ
ケガレ忌避観念 9世紀以降の貴族社会で発達した観念です。
 人の死と出産、六畜(馬・羊・牛・犬・猪・鶏)の死と産、その肉を食うこと、女性の生理、喪を弔うこと、病人の見舞いに行くことに接した人間は穢れた存在とされ、穢れが解消されるまでの一定期間は神事や宮廷行事などへの参加を禁じられました。
 穢れは伝染するものと考えられており、穢れた人間や場所と接するとその人も穢れます。

中世の老い
 中世では何歳からが老人、高齢者と考えられていたのでしょうか
*古代の年齢区分
唐令では 3歳以下を黄、4〜15歳を小、16〜20歳を中、21〜59歳を丁、60歳以上を老
大宝令では 3歳以下を黄、4〜16歳を小、17〜20歳を中、21〜60歳を趙、61〜65歳を老、66歳以上を耆
 年齢区分は納税額を年齢に応じて変えるための措置。老は丁の半分、中は丁の4分の1、耆は無税。
 また律令官僚の定年は70歳でした。
*中世の年齢区分
村の寄合いや逃散・一揆の参加は15〜60歳の男性、61歳以上の翁は参加しません。
戦国時代の老人 戦国時代の医師、曲直瀬道三が天正二年(1574年)に著わした医書「啓迪集」には老人門という医療に関する項目が有り60歳以上を対象にしています。
世阿弥「風姿花伝」にある「年来稽古条々」では
 7歳は入門、
 12〜13歳は童形(第一の花)、
 17〜18歳は声変わり、我慢の時期
 24〜25歳は「一生の芸が定まる正念場」、
 34〜35歳は「盛りの極め、ピーク」
 44〜45歳は「この頃にはやれる役が減るが、花を保ってこそまことの名人であろう」
 50歳以上では「本当の名人になれば、見どころは少なくなっても花は残る」 と記しています。
*中世武士の隠居
 北条重時の「極楽寺殿消息」に「三十、四十、五十迄は主君を守り、民を育み、身を修め仁義正しく、五戒(殺生・偸盗・邪淫・妄語・飲酒)をたもち道徳的に生きよ。」「六十になれば極楽浄土にいけるよう念仏を唱えるべきである」 とあります。
 室町時代になると40代での出家が増えます。但し政治活動の引退を意味せず世俗社会において活動を続けます。(法体任官)
 たとえば足利義満は40代で出家しましたが、将軍職は息子の義持に譲り北山山荘(のちの金閣)を隠居所として政治の実権を握っていました。
 上級武士は生涯政治に関わるのが一般的でしたが、長寿の場合は70歳前後では引退していた。

中世の医療
 当時の医療はどんなものだったのでしょうか、医者にどんな治療を受けたのか、あまり記録は残っていません。 宣教師が日本の医療は自分たちとは大分違うと思って記録を残しています。
*日本の医療の特徴 ルイス・フロイス「日欧文化比較」などから
イエズス会宣教師ロレンソ・メシアの書簡では
 「日本人は一般にはなはだ健康であるが、気候が温和であることあることや、多く食わず、また多くの病の原因となる冷水を飲まぬためであろう。病むことがあってもほとど薬を用いず短期間に健康を回復する。彼らは一切の病に対して銀の針を胃、腕、背に刺す習慣である」(針治療)とあります。
ルイス・フロイスの「日欧文化比較」
 「ヨーロッパでは傷を縫うが、日本人は傷口に膠を塗った紙片を置く(膏薬を貼る)」とあります。(実際には日本でも傷口を縫うことはありました。)
 「ヨーロッパでは病人に食欲がない場合には無理にでも食べさせようとつとめる。日本人はそれを残酷だと考え、食欲のない病人は死ぬに任せる。」(これは食事制限を指します)
 「ヨーロッパでは医者は試験を受けていなければ罰せられ、治療できない。日本では生計を立てるために、望む者は普通誰でも医者になれる。」(実際には免許を持つ官医もいました)
*民間医の登場
 中世になると朝廷の典薬寮・内薬司に属する官医だけでなく多くの民間医が確認できます。
 鎌倉時代には医僧、室町時代以降は僧侶以外の民間医が増えました。京都や奈良の町には著名な医師が多く、彼らの元で医学修行に励む者もいました。
 民間医は一部では藪医師と揶揄されましたが、官位を超える技量を持ち朝廷や幕府に呼ばれる名医も登場しました。(戦国時代の伝説的民間医 坂士仏の例が有名です)
 民間医も功績があれば法印・法眼・法橋などの僧位に叙せられ、かつ宮内卿・治部卿・民部卿といった朝官に補せられました。
*医者の種類
本道医(内科医) 田代三喜が応仁の乱の頃に明に渡り、金元時代に発展した最新の李朱医学を学び日本に広めました。李朱医学とは李東垣(りとうえん)や朱端渓らが提唱した漢方医学で、人参湯などを用いて胃腸の調子を整え自然治癒力を高めることで病気にならない体作りを目指すものです。この田代三喜に学び日本医学中興の祖となったのが曲直瀬道三です。
疵医師(きずくすし)外科医
 本格的な麻酔のない時代に治療の対象になるのは体の表面に現れた腫物や傷、骨折・脱臼などであした。このため医学の本道ではないという意味で「外科」「外境」などと呼ばれました。
 永観二年(984年)に完成した日本最古の医学書「医心方」には傷口の縫い方、包帯の巻き方、止血方法、傷口に塗る薬に関する解説があります。南北朝内乱によって死傷者が続出すると阿弥号を持つ時宗の僧が陣僧として従軍し弔いなどを行いましたが戦傷の処置を行うものも現れ外科医術が発達しました。
 永正年間(1504〜1521)には「金創秘伝」が刊行され、止血、傷の洗い膏薬を与える方法や体内に残った矢尻・金具を抜く方法等が解説されています。
 戦国時代に南蛮人が来日するとオリーブオイルやラードなどが膏薬として使われるようになりました。南蛮人の医療技術を吸収した鷹取秀次は慶長15年(1610年)「外療細塹」を刊行しています。
目医師(めくすし)眼科医
 平安末期から史料上に確認できます。「医心方」によれば薬だけでなく鍼灸も用いたようです。
 平安末期から鎌倉初期に描かれたとされる「病草子」には目を病んでいた大和国の男のもとに目医者を自称する男が来て目に針を打ったため失明した話が見えます。
 日本眼科医の祖とされるのは尾張国出身の南北朝時代の馬島清眼です。

中世の葬送
*貴族の葬送

日本における火葬の始まり 700年に僧道昭が遺言により火葬に付されました。
 703年には持統上皇が皇族として初めて火葬されています。
 以降上流社会で火葬が普及していき、平安時代には天皇、貴族、高位の僧侶は火葬が一般的になります。
浄土思想(死後極楽浄土に生まれ変わるという)の普及により、臨終前に阿弥陀如来像の手に五色の糸を結びその端を手にして念仏を唱えるという作法が985年の「往生要集」により広まりました。 藤原道長もこの法に従いました。
 出家している方が浄土に行きやすいという考えから、臨終出家や、急死の場合は死者の髪を剃り僧侶が戒を授ける死後出家が行われました。
入棺前に遺体を湯で洗う「湯殿」「沐浴」などと呼ばれる儀式がありますが、顔にだけ湯をかける等形式的な事例が多い。中世以降になると湯灌の事例が増えます。
梵字を書いた衣で遺体を包んで入棺します。この際死者の子息は「あまがつ」と呼ばれる人形を缶に入れ、死者が生者を死の世界に連れて行くのを防ぎました。
鎌倉時代までは葬送は夜に行われており、棺を牛車で火葬施設まで運びます。
 沐浴・入棺・骨拾いなど葬送の実務は身内や家人が行っていましたが、鎌倉期以降は僧侶に一任するようになります。 中世後期に今の葬送の原型が出来て、寝棺から座棺に移行し五輪塔・宝筐印塔等の墓塔が建立されるようになりました。
*庶民の葬送
古代以来一般庶民は風葬を行っていました。山野や河原に自然発生的に成立した葬地に死者を埋葬せず、遺体を置いてそのまま帰るのが普通でした。
 香典の風習や念仏講などの葬式互助組織がなく、近所の人は葬式を手伝わなかったので、貧しい人や身寄りの少ない人の場合、家族が遺体を葬地に運ぶのも困難で、死期を悟った人が自ら葬地に赴き死ぬ場合もありました。
12世紀後半から13世紀にかけて全国的に大規模な共同墓地が出現しました(火葬、土葬も見られる)。これらは奈良県などで現在も多く見られる惣墓(周辺数ヶ村の共同墓地)の原型と考えられます。
室町時代には全国各地に小型の石塔が現れます。より下の階層まで石の墓を建てる習慣が広がったと考えられます。
*死穢(息が止まった時点で発生)への対応
使用人などが瀕死の重体に陥った場合は、屋敷に死穢が及ぶのを嫌い外に追い出しました。
近親者や主君が亡くなる際、あえて臨終に立ち会い死穢に触れることで、恩に報い絆を示すこともありました。(白河天皇が慣例に反して重病の中宮賢子を宮中に留めその死に際して亡骸を抱いて号泣したような事例があります)
 なお上記の内容の詳細を知りたい方は、来年2月に朝日新書から刊行予定の拙著をご覧下さい。

以上




2019年11月 講演の舞台活花



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