第3回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA大ホール
平成25年7月18日
孫文と日本




神戸大学名誉教授 孫文記念館館長
安井 三吉 氏


  

講演要旨

孫文は今日、「中国民主革命の偉大な先駆者」・「国父」と尊敬されています。
孫文は1895年〜1924年の30年間の内約9年間、日本で生活し活動しました。
この孫文と交流した日本人に光を当てて考えてみたいと思います。

 

 <はじめに>
 現在、日中関係は難しい局面を迎えていますが、かつて日本人と孫文との間で深い交流があったことを思い起こし、これからの日中関係を考える上で、すこしでもお役に立てればと思い、お話をさせていただきます。
 私は神戸・舞子の明石海峡大橋東側にある「孫文記念館」(移情閣とも言います)で、孫文の人と仕事、日本との関わりを研究し紹介する仕事をしています。
 今年は孫文と日本にとって二つの記念すべき年にあたります。一つは1978(昭和53)年東京で批准された日中平和条約35周年にあたるということです。二つは1913(大正2)年に孫文が来日してから100周年にあたるということです。孫文は、この年日本において、春は「準国賓」として、夏は「亡命者」として僅か半年の間ですが天と地の待遇の違いを経験しました。

1.<日中国交正常化(1972)年から41年>
 今年は、日中平和友好条約締結35周年、国交正常化41周年になりますが、この間、日中関係は貿易、人の往来、ODAなど経済支援などの面で拡大深化してきました。
 その一方で中国が嫌いな日本人、日本が嫌いな中国人が増えると言う、矛盾が拡大しています。特に昨年から深刻になっている尖閣諸島を巡る問題は日中間に暗い影を落としています。しかし日中両国民はお互いが重要な存在であることもわかっているのです。
 新聞紙上では日中関係は「一触即発」の状態などと報じられています。しかし、日中平和条約第1条2項には「すべての紛争を平和的手段により解決し及び武力又は武力による威嚇に訴えないことを確認する。」とあります。日中両国首脳はこのことを銘記し、決して武力衝突に至らないよう、努力されることを願うものです。

2.<孫文と世界>
 孫文は1866年生れ 1925年没。日本で言えば幕末に生れ、明治、大正を駆け抜け、大正末に亡くなった人物ということになります。
 さて、2011年、北京では「辛亥革命100周年」、台北では「中華民国建国100周年」の記念行事が行われましたが、両会場には孫文の大きな写真が掲げられていました。台湾では孫文を「国父(中華民国の父)」と呼び、中華民国は未だ続いていると主張をしています。一方中国では「国父」と呼ばず「中国民主革命の偉大な先駆者」と呼び、「自分達は孫文の仕事を受け継ぎ発展させている」という形で孫文との関係を位置づけています。
 孫文(中山)や宋慶齢(孫文夫人)の記念館が中国、台湾、サンフランシスコ、シンガポール、ペナンなど世界各地にありますが、これは孫文と中国、台湾そして海外の華僑、華人の結び付きがどんなに深かったかを示すものです。毎年、世界各地で順番に「孫中山・宋慶齢紀念地聯席会議」が開催されていますが、1989年南京を第1回とし、2010年ペナンで開催され、2013年武漢、2014年南京で開催予定です。
 今、シンガポールで「孫中山・日本とシンガポール」というテーマで特別展覧会が開催されていますが、そのパンフレットの表紙には「海外逢知音」、海外で心の許し合った友達に逢うという孫文が南方熊楠に贈った言葉が使われています。
 この3月、長崎で孫文に関するシンポジウムが開催されました。日中関係が厳しい中ですが程永華中国大使も参加されました。やはり孫文だなと思いました。長崎ではこの時、中国の彫刻家が作成し、寄贈した孫文と梅屋庄吉・トク夫妻の三人の銅像の除幕式も行われました。7月6日、神戸の孫文記念館では、台北の国父紀念館の人達を中心に台湾から15名の先生方をお迎えして「孫文と日本」というテーマでシンポジウムを開催しました。

3.<孫文と日本>
 1895年、孫文は日清戦争が終わった年に初来日し、1924年は最後の来日となりましたが、この30年間に三分の一にあたる約9年間日本に滞在しました。孫文自身日本を「第二の故郷」と言っていましたが、孫文にとって日本は@亡命の地、生活の地。A革命の拠点として重要な地でした。特に東京は、1905年に清朝を倒すための中国同盟会が、1914年には袁世凱と闘うための中華革命党が結成されるなど重要な場所となったのです。
 この間、日本側の対応は@孫文を支援した人、A大陸進出するために孫文を利用しようとした人、B孫文を全く拒否した人など様々でした。孫文記念館では、辛亥革命100周年記念事業の一つとして、『孫文・日本関係人名録』を編纂しましたが、孫文を支援した人だけでなく、何らかの関わりを持った日本人を可能な限りリストアップし、歴史に残すようにしました。採録数は1294名にものぼっています。

4.<孫文とさまざまな日本人>
 辛亥革命の時の1911年12月、孫文は、米欧を回って帰国する前に、香港に日本人を呼び、辛亥革命に対する日本側の態度を尋ねました。香港には宮崎滔天らが行っています。孫文は、12月25日に上海に帰着しましたが、港には犬養毅らも出迎えました。12年1月成立した中華民国臨時政府には、政治顧問=犬養毅、外交顧問=内田良平、宋教仁の秘書=北一輝等沢山の日本人が顧問や私的秘書として招かれました。また、中国の最初の憲法というべき中華民国臨時約法の制定には副島義一、寺尾亨の二人の法学者が招かれ重要な役割を果たしています。
 このように新しい中華民国設立に沢山の日本人が関わっていましたが、孫文と関係した日本人は、大きくは「官」と「民」の二つに分けられます。以下、その内の代表的な人物を何人か紹介しておきましょう。
(1)官:政治家、官僚、軍人
 香港領事=中川恒次郎:1895年3月、日清講和条約交渉が始まろうとしている時、孫文は、最初の武装蜂起を計画し、香港領事の中川恒次郎に武器弾薬の調達を依頼しましたが、中川は承諾しませんでした。この時、中川は上司の原敬(当時外務省通商局長)に対して清朝側が「抵抗するならば、南方で孫文らに事を挙げさせて後顧の患を与え、その勢いを削ぐのも又一策」との手紙を送っています。孫文を使って北京に圧力をかけるという考えですが、このような発想は、以後日本政府の孫文への対応の中で時に見られるものです。
 なお、中川の書簡には、孫文が「両広(広東・広西)を独立せしめ共和国と為す」と言ったと書かれています。かつて中国学界で「孫文がいつから共和制の国を樹立しようと考えていたか」という点をめぐっての論争がありましたが、この書簡が論争に決着をつける有力な資料となったことも付け加えておきます。
 参謀本部第二部長=宇都宮太郎:1911年辛亥革命が起こった5日後の10月15日、宇都宮は、日本のとるべき政策として中国を「満(北)と漢(南)の二つの国に分立させ」、日本はそれぞれの国と協定を結び、大陸進出を図るという軍としての意見書(対支意見書)を策定しました。中国二分策です。満蒙独立運動、「満州国」建国へとつながる構想です。これも日本の対中国政策の典型の一つといえるかと思います。
(2)民:「志士」、「大陸浪人」、政治家、実業家、学者など
 「民」といっても複雑です。
 宮崎滔天:熊本県出身。孫文を心底支援した日本人の代表格。長兄の八郎は西南戦争で西郷軍に加担して戦死しました。滔天たちの父親は「決して明治政府の役人になってはならない」と厳命し、彼らは生涯その教えに従いました。滔天の自叙伝『三十三年の夢』(岩波文庫に入っています)に、孫文の人物、思想が紹介されています。滔天は、1897年9月横浜で、孫文と初めて対面しました。その様子は『三十三年の夢』にいきいきと描かれています。滔天の孫文に対する第一印象は小柄で華奢、とても革命を起こす人物などには見えなかったというものです。しかし話すうちに考えが変わり孫文を「東洋の珍宝なり」と受け止め、一方、孫文も滔天を「侠客なり」と評し、一度でお互い心を許しあう仲となりました。
 梅屋庄吉:長崎県出身。1895年、香港で孫文と出会い、生涯孫文を経済面で支援しました。「君(孫文)は兵を挙げ給え。我(梅屋)は財を挙げて支援す」という言葉はその関係をよく表しています。梅屋の曾孫にあたる小坂文乃さんは、日比谷松本楼の方で、梅屋の仕事を広く紹介するために活躍されています。
 南方熊楠:和歌山県出身。1897年ロンドンの大英博物館で孫文と会い、東洋人としてお互い通じるものを感じあったようです。孫文は、日本へ戻る際、熊楠の手帳に「海外逢知音」と言う言葉を記念に記しました。
 内田良平:福岡県出身。孫文の掲げる「滅満興漢」の運動が日本の対満蒙政策と利害の面で一致するという立場から、孫文の活動を支援しました。内田はこれを公言していましたが、孫文も、内田のこのような考えを知りつつ、時に支援を求めたのだと思います。
 北一輝:新潟県(佐渡)出身。中国同盟会に参加、1911年の辛亥革命には、内田良平の指示により。宋教仁らの求めに応じて、武漢に行っています。孫文より宋教仁を評価していました。『支那革命外史』は日本人の辛亥革命論として重要です。
頭山満、犬養毅、山田良政・純三郎など孫文と日本人という点で重要な人物がなお多々いますが、ここでは名前を挙げるに止めておきます。

5.<孫文と神戸>
 
孫文は、1895年から1924年までの30年間、神戸に少なくとも18回来たことが確認されています。1895年11月、武装蜂起に失敗、亡命者として神戸に来たのが最初です。この時は、神戸の新聞には「広東暴徒巨魁」などと報じられているだけで、孫文が神戸に上陸していたことを書いた記事はありません。誰も孫文の上陸に気づいていませんでした。1911年辛亥革命の時は、神戸の華僑は「中華民国僑商統一聯合会」を結成し、革命を支援しました。
二つの100年目(1913―2013)
 1913年春、孫文は辛亥革命の元勲、袁世凱政権の一員、全国鉄道建設計画総裁として来日しました。当時孫文は、中国に10万キロの鉄道と港湾施設の建設を計画しており、日本にアドバイスを得る事を一つの目的として来日したのです。山本権兵衛首相を初めとして政、軍、経済界そして革命を支援してくれた旧友を訪ね、日本各地の軍や港等の施設を視察し、行く先々で朝野を挙げての大歓迎を受けました。日本政府が、孫文を歓迎したのはこの時が最初で最後でした。
 渋沢栄一とも出会い、日中合弁の中国興業株式会社設立で合意しています。(その後、孫文は北京と対立した為、袁世凱の部下達が中国側の代表となります。)
 夏、孫文は袁世凱と対立し、第二革命を起こしましたが失敗、再び亡命を余儀なくされました。この時、日本政府はアメリカ行きを説得するよう、孫文の寄航先の台湾総督や福岡県、兵庫県などの知事に指示しました。しかし、孫文は船中より神戸の海運業者三上豊夷や萱野長知らと無線や電報で連絡をとり、日本亡命を政府に働きかけてくれるよう要請しました。頭山満や犬養毅らが、孫文の希望を実現するために山本内閣に働きかけ、政府もやがて孫文の日本亡命を容認することになります。
 神戸では、牧野伸顕外相の指示を受けた服部一三知事は、孫文のアメリカ行きに動きますが、結局東京の方針変更に従うことになります。民間では、三上豊夷や川崎造船所社長の松方幸次郎らが服部知事と連携しつつ、孫文の神戸上陸と、諏訪山の常盤花壇別荘での一時「潜居」に尽力しました。

6.<最後の来日=1924(大正13)年11月>
 
1924(大正13)年11月、孫文は北京の段祺瑞・張作霖と会談するために広州を出発して北上、しかし上海から方向を転じて日本に立ち寄ることにしました。孫文は本来、東京へ行きたかったのですが、日本政府(加藤高明首相)は北京の実権を握っている段祺瑞、張作霖に配慮して、孫文の上京を歓迎しませんでした。やむなく孫文は、神戸オリエンタルホテルに一週間滞在し、神戸から天津へ帰り、肝臓がんを発症、25年3月、北京で亡くなりました。
 11月28日、瀧川儀作が会頭の神戸商業会議所主催で、孫文は神戸高等女学校講堂において2000人~3000人もの聴衆を前に「大アジア主義」の講演を行いました。日本国民に対して、「西方の覇道」と「東方の王道」いずれの道をとるのかと呼びかけました。結局これが、孫文の日本に対する遺言となりました。
 孫文の神戸滞在は延べ50日余りと短いものでしたが、日本と孫文との関係においていくつかの重要な機会となりました。孫文は1925年3月死去、29年遺体が北京から南京に移され「奉安大典」が行われましたが、式典には日本から多数の人々が招かれ、参列しました。

7.<日中戦争と孫文>
 孫文の存在はその死後も重要な役割を果たします。1940(昭和15)年、日中戦争の最中ですが、国民政府は、孫文を「国父(中華民国の父)」と呼ぶことを定めました。重慶の蒋介石、延安の毛沢東、南京の汪精衛らはそれぞれ立場は違いますが孫文を「国父」と呼び、自己の正統性を示す証として、孫文との関係を強調しました。日本側も、汪精衛が孫文を「国父」と呼ぶことを許容せざるをえなかったのです。もっとも「満洲国」皇帝の溥儀は、当然、孫文を「国父」とは呼びませんでしたが。
 補足的ですが、本庄繁と孫文との関係について付け加えておきます。辛亥革命当時、本庄は上海駐在武官で、孫文とも会っています。孫文が亡くなった時、本庄は師団長として弘前に勤務していましたが、そこに、孫文の息子の孫科から孫文死去の電報が届けられています。本庄は、1931(昭和6)年8月、関東軍司令官に着任、翌9月、石原莞爾、板垣征四郎ら関東軍高級参謀らが中心になって柳条湖事件、満洲事変を引き起すことになります。
天安門には、1928年には孫文、1945年には蒋介石、そして1949年以降は毛沢東の大きな肖像画が掲げられます。これらの肖像は中国近現代史の変転を静かに見守っているように思えます。

<おわり>
 はじめにお話しましたように、孫文は台湾では「国父」、大陸では「中国民主革命の偉大な先駆者」と今も称されています。孫文は、また日本と中国、日本と台湾、日本国内、特に神戸においては、日本人と華僑・華人とを結びつける絆として現在も生き続けています。
 孫文と関わりの深い神戸では、これまでに二つの孫文記念の銘板を設置してきました。
 一つ目は、かつて神阪中華会館といっていたところで現在は神戸中華同文学校。
 二つ目は「大アジア主義」講演を行った神戸高等女学校の跡で現在は兵庫県庁。
 そして今、100年記念事業の一つとして、孫文が1913年8月9日~8月16日迄住んでいた常盤花壇別荘近くの諏訪山公園に「孫文先生 潜居の地」という銘板を建て、広く市民に歴史を振り返り、記憶してもらおうという仕事を進めているところです。(8月9日、設置)
 孫文は日本人女性大月薫と結婚、その子孫も健在であります。このことも日本と中国の近代史を考える上で記憶されるべき一つのエピソードでしょう。
 孫文記念館は明石海峡大橋近くにあります。ここ狭山からは少し遠いですが、是非一度お訪ね下さい。
 長時間、有難うございました。




平成25年7月 講演の舞台活花



活花は季節に合わせて舞台を飾っています。


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