第9回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA大ホール
平成23年2月17日
「ビックリ! 江戸時代の科学」




大阪市立科学館 主任学芸員

嘉数 次人 氏

 
受付寸描

講演要旨

江戸時代の昔というと、科学技術とは全く無縁な時代に感じますが、実はハイレベルな「科学力」を持っていたのです。伊能忠敬による精密な地図作りの秘密をはじめ、さまざまな江戸の科学を紹介します。
 

はじめに -江戸時代って、どんな時代?
 科学は私達にとって身近なものですね!例えば、身の回りを見ると、携帯電話・液晶テレビ・話題になった小惑星探査機ハヤブサ・話題の東京スカイツリー等、いろいろありますが、これら全部に科学の成果が用いられています。我々は何にも意識してないですが科学は身近に使われているのです。
 一方の江戸時代はどんな時代でしょうか?皆さんは「江戸時代」という言葉を聞いてどんなイメージを持ちますか? 水戸黄門・暴れん坊将軍・お城・写楽・広重・北斎の浮世絵などが頭に浮かぶかと思いますが、当時は、テレビ・携帯電話・電気照明・新聞・電車・車もなく、一見、科学とは縁のないようにも感じられます。そこで今日のお話では、科学と江戸時代という、一見相反するような二つのキーワードを繋ぎます。さらに、地元である大阪にまつわる科学の話題も交えてご紹介します。

ビックリ その1 江戸時代の銅精錬産業と海外貿易
 江戸時代と言うとキーワードは「鎖国」ですが、本当に鎖国をしていたのでしょうか?実は日本は、オランダや中国、朝鮮と国交を結んでいて、鎖国はしていなかったのです。
 これら諸外国との交易もしっかり行なわれていました。江戸時代より前、マルコ=ポーロの東方見聞録では日本を黄金の国ジパングと言っています。当時の日本では金・銀・銅などの鉱物を産出し、織田信長・豊臣秀吉時代の海外との交易は金を使っていました。その後、銀が使われましたが、これも次第に少なくなり徳川時代は銅が中心となりました。
 西暦1700年(江戸時代中期)には、日本は海外に年間約60万トンの銅を輸出していました。特にオランダに輸出した銅はヨーロッパ各国に流れ、一時期はヨーロッパの銅の相場を左右するほどだったと言われます。

 では、それらの銅はどのように生産されたのでしょう。日本各地には銅鉱山(伊予の別子銅山等)があり、銅鉱石を採掘していました。それらは全て大坂に運ばれ、精錬されていました。全国から集められた銅は大阪で純度99,9%にまで精錬し、型に流しインゴットにして、船にのせて大阪から長崎に送られ、ヨーロッパ・中国・朝鮮へ輸出されました。ですから、大坂人は世界を相手にして交易を行っていたのです。しかも純度99,9%まで精錬する日本の技術は非常に高く、ヨーロッパにもひけをとらなかったと言われます。
 精錬作業は大坂の17箇所の工場で行われ、その中の最大手が、鰻谷にあった住友銅吹所でした。住友銅吹所の遺構は1990年頃に発掘調査が行われ、敷地の全貌が明らかになりました。遺構は埋め戻されましたが、その後に建てられた建物は遺構保存のために高床式建造物となっているそうで、貴重な産業遺産となっています。
 このように、大阪は経済的には鎖国をしていなかった、しかも銅産業(精錬技術)の様子を見ていたら世界と繋がっていたことが分かります。

ビックリ その2 伊能忠敬の日本地図と大阪の天文学
(1)江戸時代の天文学と暦作り
 次は天文学、つまり星のお話です。天文学の分野でも、日本のレベルは高いものがありました。例えば、伊能忠敬が精密な日本地図を200年前に作ったこと、これも天文学に関係しているのです。当時の天文学者の仕事は「暦」を作ることでした。今でいう旧暦(陰暦)は、お月様の満ち欠けで日付が決められていました。その仕組みは、全部欠けた日を毎月の1日(新月)とし、満月(十五夜)は15日頃、それから欠けていき次の新月になると翌月の1日になるというものです。しかし、この一ヶ月の周期は、長くなったり短くなったり不規則なものなので、天文学者はきちんと天体観測をして、正確な周期を求めなければなりません。さらには、二十四節気を決めるために太陽も精密に観察しなければなりません。ですから、暦づくりは誰でも簡単に作ることができるようなものではありませんでした。

日本では、690年に暦を作るための計算法を中国から輸入したのを皮切りに、698年、784年、858年、862年に計算法を改めていますが、その後、1685年までの約800年間は同じ暦法が使われていましたので、段々と誤差が生じていました。そこで、江戸幕府の渋川春海が作成した貞享暦という暦法を作成し、1685年に施行されました。その後、1755年には宝暦暦という暦法に改められています。

(2)大阪の天文学者と天文学の近代化
 江戸時代の260年間は平和な時代でしたから、学問も発達しました。そんな中、天文学の分野でも発展が見られました。特に江戸中期以降は、アマチュアの活動も見られます。 
 麻田剛立(1739~1799)という人は、豊後杵築藩の侍医をしていた人ですが、幼い頃から天文が好きでした。しかし侍医の仕事が忙しく天文学に集中できないので、ついに脱藩して大坂に逃れ、本町で開業医をしながら趣味として天文学を学びました。そして中国語で翻訳されたヨーロッパ天文学の本を読み、観測機材を開発し、さらには富山・伊勢・土佐など各地のアマチュアと文通でネットワークを組み研究を行いました。
 また、多くの弟子も育てました。その中で特に優秀だったのが、間 重富(1756~1816)という質屋の主人、そして高橋至時(1764~1804)という大坂城の同心でした。この二人は業績が認められ、やがて江戸幕府から招かれて「寛政暦」という新しい暦計算法を作成しました。1798年に施行されたこの暦は、日本ではじめて西洋天文学を取り入れた太陰暦です。しかも、民間人が参加して、国家の暦を作成したことも特筆に価します。その後、間重富は大坂に帰って質屋の商売に戻り、高橋至時は江戸幕府に残り研究を続けました。

(3)伊能忠敬の全国測量と大阪の天文学
 地図で有名な伊能忠敬(1745~1818)は、50才で天文学を学ぶために高橋至時に弟子入りします。師匠高橋至時が「地球の大きさが知りたい」と言うので測量を始めることになり、まず江戸-北海道間の測量を行い、その後全国をまわり日本地図を作りました。現在の地図と比較すると北海道・九州の一部に若干のズレがあるが、非常に精密な地図です。
 伊能忠敬が精密な地図を作ることができたのは天体観測のおかげです。コンパスや鎖といった機器に加え、象限儀という機器で北極星を測り緯度を決定したのです。装置としては一見簡単なものですが、最新の西洋天文学の知識と技術が生かされています。
 このように、伊能忠敬は、大坂出身の高橋至時との連携により地図を作ったのです。

 次のビックリポイントは、高橋至時の長男で、父の後を継いだ高橋景保の業績です。景保は、世界地図を作るよう幕府に命令され、外国からの情報をえて、当時としては世界最高レベルの世界地図を作ります、その後も、高橋景保は仕事のために海外情報を得る努力を重ねます。そんな中で、来日していたシーボルト(1796~1886)と知り合いになります。1823年オランダ商館の医官として来日したシーボルトは、1828年に日本地図を海外に持ち出そうとした事が発覚し国外追放となりますが、その地図は、高橋景保が海外情報を入手するための交換として渡した伊能忠敬の地図だったのです。これが歴史上有名なシーボルト事件です。この事件は、天文学者である高橋至時の長男が関わっていたのです。

(4)天体望遠鏡のふるさと・泉州(眼鏡師岩橋善兵衛)
 天文学の研究に欠かせない道具といえば、天体望遠鏡です。当時、泉州ではガラス産業が盛んで、中でも貝塚の眼鏡師であった岩橋善兵衛は、月のクレーターや土星の環がはっきりが見える程の優れた望遠鏡を作っていました。現在、貝塚市には岩橋岩橋善兵衛を記念した「善兵衛ランド」という施設が作られています。そこでは、岩橋善兵衛にまつわる資料展示のほか、天体望遠鏡が設置されており、天体観測をすることができます。

ビックリ その3 博物学の巨人・木村兼葭堂
 天文学以外にも、江戸時代の大坂には有名な科学者がいました。木村兼葭堂(1736~1802)という人です。この人は、大坂の堀江で造り酒屋を営む主人ですが、画家・詩人・茶人・本草学・物産学・博物学など、いろんな分野で活躍しています。ビックリその2の章で、麻田剛立という人がネットワークを組み多くの人達と情報交換・研究したという話をしましたが、兼葭堂はそれ以上に広い交流を行いました。

 木村は、「兼葭堂日記」と呼ばれる日記を付けていました。そこには毎日、何が起きたか、どんな人と会ったのかが記されています。現在、20年間程の日記が残っていますが、そこに登場する面談者はのべ約10万人!その中にはオランダ人や大名・幕府高官もいたといいますから驚きです。

 科学者としての業績は、薬草・漢方薬・動植物の研究をする本草学、各地で産出される動植物・農産物などの研究をする物産学などに見られます。また、これらに関する資料や情報を集め、記録と整理分類を行う博物学者でありコレクターとしても業績をあげました。現在のように通信手段も豊かではなく、情報も乏しい時代でしたから、そんな中で情報や資料を収集して膨大な資料をまとめたことは凄いことです。

 具体的に、木村兼葭堂の業績の一例をご紹介しましょう。当時、漢方薬として「ウニコール」という生物の骨が輸入されていました。しかし、この時代は情報が少なく、「ウニコール」がどんな生き物なのか誰も知りません。そこで、いろんな説が出されていました。伝説上の生物「ユニコーン(一角獣)」ではないかという説までありました。そこで兼葭堂は、手に入れたオランダ語の本を調べ、「ウニコール」はイッカククジラの前歯が異常に発達した部分であることを突き止めたのです。そして研究成果を「一角纂考」という書物にまとめ出版しています。
 このように情報を集めて、研究を進めていく兼葭堂のスタイルは、現代の私たちが使っている手法とも共通するものと言え、江戸時代の文化レベルの高さがわかります。

おわりに -日本の科学の近代化は大阪から-
今日は、江戸時代の科学について、大阪を軸に紹介してきました。大阪は凄いですね!人とモノが集まり、情報が集まる場所でした。銅産業では世界を相手に貿易をしていましたし、オランダを経由してヨーロッパの科学が入り、科学研究も行われていました。
 江戸時代というと、「士農工商」の堅苦しい封建制度をイメージしますが、大阪ではどこ吹く風です。天文学者も造り酒屋の主人も、いろんな人と交流して情報交換し、共に研究をしていたのです。
 大坂の研究者たちは、学問の近代化を通じて、日本の近代化を推し進めたといえます。例えば、麻田剛立が育てた、間重富と高橋至時という二人の弟子は、江戸に行き幕府の天文台で活躍し、伊能忠敬の地図作りをはじめ、幕府内で科学の近代化をおし進めました。
 一方、質屋の主人であった間重富は、大坂で橋本宗吉(1763~1836)という優秀な若者を見出し、彼に奨学金を出して、江戸の蘭学塾に留学させます。橋本宗吉はオランダ語を習得して帰坂し、大坂で開業医をしながら蘭学塾を開きます。この橋本宗吉は、中天游(1783~1835)という蘭学者を育て、中天游は緒方洪庵(1810~1863)を育てます。そして緒方洪庵は、有名な適塾を開き、大村益次郎・大鳥圭介・橋本左内・福沢諭吉といった日本の近代化に貢献した人物を育てたのです。
 大坂の視点で日本近代化のルーツを辿ると、アマチュア天文学者だった麻田剛立や間重富といった民間科学者の存在がキーとなります。一方、江戸幕府内視点から近代化のルーツを辿ると、麻田剛立の弟子であった高橋至時の存在が浮かび上がってきます。このように、科学分野という一つの分野の視点から見ただけでも、日本の近代化は江戸期から始まっていたことがわかります。しかも、官と民の両面から近代化の準備が進んでいたからこそ、日本全体が明治維新以降の急速な文明開化に対応できたと考えられます。

 科学は一見すると難しいですが、科学を推し進める「人」の観点からアプローチしていただくと、面白い発見がたくさんあります。この機会に、ぜひ科学も楽しんでいただければと思います。




平成23年2月 講演の舞台活花



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