第9回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA小ホール
平成22年2月18日
激動する世界の中のアジア
~そして日本のゆくえは~




神戸学院大学名誉教授
谷口 弘行 氏

                     講演要旨

変化していく私たちが、変化していく相手を観る。こちらが変われば、相手も変わる。その逆もまた逆である。そんな状況の中で、まず日本人の「立ち位置」を考えることから始めたい。
 

はじめに
 皆さんは、長年の経験や知識や、多くの情報の蓄積をお持ちだと思います。私はそういったものをまとめる際の枠組みを、提示できたらと考えております。レジュメを用意しているうちに、あれもこれもと入れてしまって、ずいぶん詳しいものになり過ぎましたが、大きな項目にそってお話しをいたします。

歴史の動因から全体像を考える

 私は、アジア諸国に出かけることが多くあります。アジアの中で日本をどう見て、どう説明するかを、いつも考えています。日本やアジア諸国の若い人たちには、ミクロ的に見るだけではなく鳥瞰図のようにマクロ的に捉え、静止的ではなく動因を捉えて全体を眺めるようにと、話しています。状況は、常に動いているからです。
 『日中共同歴史研究報告書』が、今年の1月末に公表されました。当初は研究の成果としての論文を併記し、問題点はそのまま残すという話でした。しかし中国側はその公表に難色を示し出し、日本側の説得でやっと現代史を除いて、古代史と近代史のみの公表に踏み切ったのです。
 数年前その中間報告の出た頃に、私たちの大学で日中韓の歴史認識問題に関するシンポジウムを開催しました。中国政府のシンクタンクの代表ともいえる、中国社会科学院の日本研究所所長の蒋立峰氏も参加しました。しかし彼は開口一番、「日本が歴史的認識を正せば、問題はすべて解決する」と述べました。同席した中国の若い研究者たちは、彼らの報告をそれに追随させざるを得なくなりました。蒋氏は、今回の日中共同歴史研究会の中国側のメンバーでもあります。これは、中国の研究者たちの置かれている立場を推測させてくれるものです。政府の意向が、自由であるべき研究者の世界にも色濃いことを認識せざるを得ないのです。そういうレベルから出てくる議論もあるということを踏まえて、我々は接してゆく必要があると思います。
 日本は明治以来、満州事変の時期に至る63年間をかけて、近代国家を造り上げました。その間に軍部が力を蓄えて、次の14年間は戦争の状態に入りました。その結果、日本を一時期崩壊させてしまうことになりました。戦後の日本は、現在に至るまでの65年間、一度も戦争をせずに、経済大国を造り上げたのです。現在戦争を実際に知っている人は、日本人の数パーセントに過ぎません。ほとんどの人は、この65年間に生まれ育った人たちです。戦争は単なる過去ではなくて、自分たちの知らない過去なのです。
 中国の歴史研究者はこの14年間に日本はどんなひどいことをしたかを研究し、日本の研究者はなぜ日本が戦争に突入したかを、韓国の研究者はなぜ・どのように植民地支配に抵抗したかをもっぱら研究してきました。このような立場の違いを前提にして、共同研究を進めていたのです。一般に日本の研究者たちは、この14年間にこだわりすぎて肩身の狭い思いをしています。明治以来の全体像の中で日本の立ち位置を捉えて、議論がなされるべきだと思います。前述の『研究報告書』も、こういう状況の中で生まれたものであることを理解して取り扱う必要があります。
 今一つ、韓国で2002年に発行され昨年翻訳が出た、『戦争の記憶 記憶の戦争-韓国人のベトナム戦争』を取り上げたいと思います。1956年から1975年まで続いたベトナム戦争に、韓国軍が白虎隊とか青龍隊の名で参加して、ベトナムのいくつかの村で、住民を虐殺し村自体を殲滅して行った歴史を掘り起こしたものです。韓国はいつも被害者意識を強調するけれども、加害者であることも問い直す必要があるのではないかと、韓国人の筆者は主張したのです。大事なことは、「韓国だって加害者じゃないか」というような偏狭なナショナリズムを日本で掻き立てるのではなく、どの国にもそういう時代があるのだということを認識することです。
 日本も同じことで、戦争での出来事等の告発は、驚くことにやっと1970年代に始まったのです。30年経たないと、実態がはっきりしないというのが普通です。実体験者が口を開き、若い人が問い始めるのに、30年という期間が必要なのです。歴史には大きな流れがあり、一個人の目だけから見るのではなく、それぞれの国には過去を認識するレベルや規制があり、その中で人々は生きているのです。そんな中で調査や研究がなされ、こうした書物が出てくるのです。歴史の共有のためには、こういう現実を前提にした忍耐強さが必要だと思います。

「東アジアの奇跡」と日本の関わりとは

 東アジアは、戦後数十年経って奇跡的な経済発展を遂げ、それが歴史を動かす大きな要因となりました。その核になったのが日本です。日本は、1960、70、80年代にかけて高度経済成長を成し遂げ、GDPで世界第2位になりました。国民の所得が平等化し中産階級が増えたのが、日本の特徴でした。対外的には、当事国の国民には知らない人が多いのですが、東南アジア諸国への戦争賠償や、韓国への5億ドルに及ぶ植民地賠償と3億ドル以上の民間借款、さらにODAの下で改革開放政策を取り始めた中国に、数兆円の援助を日本が行いました。その結果、各国の経済インフラが整備され、彼らの飛躍的な経済的成長へとつながりました。それは連鎖的に、アジアNIEs、アジア新NIEs、さらには中国の経済発展へとつながりました。これを、アジアの雁行型経済成長と呼んでいます。
 ヨーロッパの旧宗主国がこうした援助をしなかったアフリカや中東では、起こりえないことでした。アジア諸国に投資された世界のお金が、一斉に引き揚げられたために金融危機をもたらしたのが、1997年のアジア通貨危機でした。日本は新宮沢構想のもとで3兆円をアジア諸国のために準備して、この危機を切り抜けたのです。日本がダイナミックにアジアを引っ張って行ったことは、同時に日本をも豊かにしました。しかし韓国や中国では、その経済成長と共に、他方では「終わりのない」反日感情や運動が進んできました。

中国や韓国の「終わりのない」反日感情・運動

 韓国では、開発独裁の朴政権は当然反共でありましたが、同時に反日も容認しました。日本語を禁止し、学者は親日家と言われるのを恐れました。1960年代の日本で、親米家と言われることを嫌った学者が多かったことと考え合わせると、それだけの時間的落差があることがわかります。我々の通った道を彼らがたどっていることを、認識しておく必要があります。
 反日感情が激しくなったのは、1970年代から80年代、90年代にかけてです。被害者としての原体験を持った人はその感情をもち続けるでしようが、その後に生まれ戦争体験をもたない人たちは、急速な経済成長に戸惑い、社会に不満をもち始めたのです。江沢民が90年代に「愛国主義教育実施綱要」を掲げ、中国側は否定しますが、それが効果を得て多くの反日運動が起こりました。生の体験をもった人たちは、それをもとに日本が「憎い」と言いますが、それを伝え聞いた人は抽象的にのみ理解し無条件に「憎い」ということになります。そして国内の不満が自国の体制に向かわず、国外に向かうのです。「憤怒青年(憤青)」と言う言葉も生まれました。韓国では、日本の「左派」の学者が従軍慰安婦等の問題を掘り起こし提起したのを、韓国の「右派」の人たちが取り上げて反日感情に結びつけました。これは、「敵対的共闘関係」と呼ばれています。こうして、韓国と中国では、終わりのない反日が進んで行きました。

日本人の自画像と世界の日本人観

 中国は戦争の14年間を問題にしますが、世界は日本の戦後の65年に注目しています。日本人の自画像については、内閣府や新聞社の調査によりますと、「日本は、世界に理解されている」と考えている日本人は10%に過ぎません。「日本は国際貢献をしているとは思わない」と考える人も、多くいます。しかし海外の世論調査を見ますと、中国と韓国を除いた国際社会の日本人観は、非常に好意的なものです。BBCの調査では、日本はカナダと並んで世界への貢献度は第1位です。
 うぬぼれではなく客観的に等身大の自分を見る、日本の立ち位置を考えることが大切だと思います。ディーン・アーチャーという米国の刑事学者の『若者の暴力と殺人の国際比較』という本を読むと、国が戦争という暴力を振るっているときは、その国の若者の犯罪や暴力の発生率は高く、65年間戦争をしていない日本は総じて低いと分析しています。日本の若者は争いをしないと、国際社会には映っているのです。このように世界が見る日本人像と、日本人が描く自画像とは、違っているのです。
 もっとも過去の戦争では、日本人は加害者であったという現実を忘れてはなりません。「将軍様」と呼ぶ国があるからと非難しても、われわれも60年以上前の政治状況下で、国家に対してどのような姿勢を取ったかを忘れるわけにはいきません。諸々の条件が違う他国を見るときには、それらを判断する幅をもつことが必要だと思います。

経済問題に関する実務現場の東アジア関係は

 経済という要因は、歴史の第一の動因です。お金がありすぎても不幸を招きますが、なくて陥る不幸の方がやはり大きいものです。日本の経済復興がアジアを巻き込み揺り動かして、新しい世代に反日を生み出しています。我々はそれに立ち往生して、新しい立ち位置を模索しています。しかし経済的には、東アジアの「共通の利益」が生まれ進展しています。連携も進み、隣国の存在がなければ自国の経済は成り立たない所にまできています。人、金、情報に関する非貿易的障壁をなくすEPAなどを通して、協力し合っています。ネットワーク分業も盛んであり、製品がいわばアジア製品とでもいえるものになっています。各国は輸出に頼る市場開拓から、パートナーの関係になってきており、それが経済共同体設立の大きな条件になろうとしています。
 東アジアにおける「共通の脅威」も、認識され始めています。前述のアジア通貨危機の際には、新宮沢構想で乗り切りました。犯罪や伝染性疾病への対応に、協力し合うようになりました。そしてASEANの共同体化の方向やASEAN+3などの定例化によって、東アジアは制度化の方向に向かっています。
  このもとで各国では中間層が増大し、多元・多様な社会が生まれようとしています。高等教育の普及とともに価値観も似通ったものになり、民主化の進展と更なる民主化要求が強まってきています。日本人の意識にも、変容が見られます。保革対立の構図から解放されて、今や多くの人が戦争に対する反省の言葉を口にし、同時に日本に生まれてよかったと考える人が多数を占めるようになってきました。経済が社会を変えて行くということは、かつてマルクスが言った言葉ですが、現在でも妥当性をもっています。日中韓の間では、「友好」や「和解」を直接の目的にせず、対立・紛争を管理し、協力の枠組みを作る方向に向かっているのが現状です。
 韓国では、自国の歴史を被侵略・被支配史から近代国家の建設史へと、見方を変える動きがあります。その視点は、ニューライト(新右派)と呼ばれています。たとえば、李榮薫(イ・ヨンフン)の『大韓民国の物語-韓国の「国史」教科書を書き換えよ』には、植民地時代に韓国のコメが日本に収奪されたと言われてきましたが、実態は、コメ価格の高い日本への輸出に回されたのであって、韓国の地主や農民はそれで利益を得、それらが韓国社会の発展の基礎にもなったのだ、という歴史が語られています。中国には、「新思考」外交という動きがあります。いつも反外国ナショナリズムではなく、建国ナショナリズムに向かうべきだという主張が出始めているのです。ここでも「それ見ろ」と日本人を偏狭なナショナリズムに向かわせるのは間違いですが、やはり時代は変わってきているのです。日本の「右翼」の理論も、変わってきています。

冷戦後の世界秩序は

 日中韓を大きく取り巻く世界の動きはどうかを、考えなければなりません。冷戦終結後ソ連邦が解体し米国の一極体制が生まれました。均衡が破れた結果起こった湾岸戦争を、ブッシュ大統領(父)が力で抑え、そのマイナスをクリントン政権が復旧するという事態になりました。
 不幸なことにその後、息子のブッシュが大統領になったとき、NYで9.11のテロが起こりました。これで「世界が変わった」と言われますが、そうではなくまず「見方が変った」のです。そして「政策が変わり、結果として現実が変った」のです。ブッシュによる中東民主化政策は、逆に米国を中東アラブ諸国と対峙させることになりました。ブッシュ政権の新自由主義政策は、一層の金融規制緩和をはかり、莫大な資金が米国へ流れ込みました。それが焦げ付き、米国発の金融危機と世界同時不況を引き起こしました。アフガニスタン侵攻やパキスタンへの介入、それにイラクでの戦争のような国際紛争などの混乱をもたらしたブッシュは、史上ワーストの大統領だと言われています。今オバマは、その後始末に追われているところでしよう。

新しい国際秩序の方向

 この混乱のなかで中国が巨大化し、ロシアが復旧し、インドも経済的に大きくなってきました。これら3国は上海協力機構(SCO)を立ち上げ、合同の軍事演習を行なうまでになっています。そして石油・ガスの供給を囲い込み、エネルギー安全保障体制をつくろうとしています。彼らは、米国の対立軸として動いています。アジアのNATOになるのではないか、とも言われています。G7の集まりは、メンバーが加わってG8に、さらにG20になってきました。世界は、米国一国の思うようにはならない時代にきています。
 日中韓と言っていた状況から、中国が別な所と結びつきながら巨大化し始めています。これへの対応は、オバマ大統領の課題でもあると考えられます。彼はグリーン・ニューディール政策を唱え、国際協調主義に転換する考えです。多くの人々が、米国の「終わりの始まり」を口にするようになっています。しかし私が日常見聞するところから考えても、米国のもつ多様性がその力を発揮し続けて、米国の時代が簡単には終わることはないと思っています。

大国化する中国と日本の関係

 大国化する中国と、日本の関係をどうするかということが問題です。単に帳尻を合わせるような予定調和論に陥ることなく、納得解を導き出す必要があります。
 軍事的脅威は、仮想あるいは架空ではありますが、実在もするというジレンマに陥ります。防災や防犯について、備えをしたから事件が起こらなかったとは必ずしも言えないし、備えをしなければ必ず事件が起こるとも言えません。国防についても、同じです。また備えをするとしても、どれだけのことをすればいいのかは、きわめて難しい問題です。しかし実際北朝鮮には日本を射程に入れたミサイルが、中国にはアジア全域を射程に入れたミサイルが配置済みです。そのため日本は、米国とミサイル防衛の共同技術研究を進め、さらにMDシステムの導入を決定しました。海賊の脅威も、現実にあります。
 このような冷戦体制後の脅威に対しては、日米が共同で対処して行かざるを得ないと考えられています。いまだに日本を「属国」扱いをする米軍人の多い沖縄では、1990年代にも米兵が起こした事件をきっかけに反米運動が再燃しました。それは、普天間基地全面返還の合意へとつながりました。しかし民主党政権が発足してから、今やその移転先をめぐって迷走中です。日本における対米世論は、戦後から続いた「対米追従を批判」する論調から、冷戦後は「日米同盟が機軸である」に変わりました。そしてそれに少しでも逆らうようなことに対しては、「日米同盟を危うくする」と変化してきています。米世論には、いまだに占領国家まがいの意見もありますが、「日本の新政権に時間の余裕を与えるべきだ」という議論が識者の間には多くあります。

「発展途上の大国」中国の脅威論を超えることができるか

 日本の国民所得(GDP)は、おおよそ500兆円近くあります。米国は約1400兆円、中国は今年度中に日本を超えるだろうと言われています。しかし中国は人口13億人で500兆円、日本は1億2千万人で500兆円です。中国では、貧困層(1日1ドル以下の生活をしている人)が、約1億5千万人いると言われています。自らが言うところの「発展途上の大国」である中国に対する脅威論を、どのように超えることが出来るでしようか。中国は1978年に改革開放政策を取り入れた後、「世界の工場」になって行きました。そして世界中に安い製品を輸出し、それで資力がつくと投資をする側になりました。国民の購買力もついて、「世界の市場」になってきました。
 現在中国は、世界金融危機の影響を乗り越えたと言われていますが、経済不況に入る可能性があると見る人もいます。国内の格差問題もきわめて深刻で、0.4%(約520万人)の富裕層が70%の富と財産を保有していると言われています。貧困層は10%ですが、同時に中産階層が約3億人で1年に7~800万人増加しています。世界はこの階層に向けて、製品を売り始めています。
 経済がイデオロギーを超えて、その利益をお互いに共有していく時代に突入してきています。中国にとって、格差是正や民主化は今後の問題です。日本では製造業は優れていますが、現在の不況をそれだけで乗り越えられるかは疑問です。不良債権問題は解消しました、しかし内需は回復しない、しかも成長力は落ちてデフレ経済が始まっています。日本のサービス部門の生産性が低いのは、世界の学者の指摘するところです。日本の最大の貿易相手国は、中国です。そのGDPをお互いに利用することは、相互補完の関係に入っていくことを意味しています。

「記憶の戦争」を超え、歴史が未来を創ることが出来るか

 最後に「記憶の戦争」(歴史認識の違い)を、超えることが出来るかという問題です。「加害者」の「負い目」と「被害者」の「倫理的高み」から、未来を見ることは生産的ではありませんし、未来を共有することも出来ません。どの国でも民衆が被害を受けた点では、共通しています。戦争の加害者と言われている日本でも、原爆や大空襲による被害者が多数います。米国では、いまだに原爆が多くの米兵の戦死を防いだと教えられています。しかし日本では、その経験を反核運動や平和運動に向けてきました。「民族の受難」や「戦争の悲劇」ということを考えれば、民衆レベルで共通項を見つけることが出来るかも知れません。しかし具体性を欠いた抽象論に傾きすぎることは、本当の痛みを感じさせなくなりかねません。警戒しなければならないことです。
 今後、経済的補完関係でのお互いの立場と、「記憶の戦争」を乗り越え未来を共有しようとする方向とを、どう結びつけるかがわれわれに課せられた問題です。

(付記)

 講演会では、いくつかご質問があったようですが、対応する時間がありませんでした。ご質問やご意見があれば、メールで対話が出来ればと思っています。講演要旨に記しました私のメールアドレスに、誤記がありました。正しくは、以下の通りです。
tanihiro@herb.ocn.ne.jp






平成22年2月 講演の舞台活花



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