平成16年度
熟年大学
第9回

一般教養公開講座
於:SAYAKA小ホール
平成17年2月17日

 
日本経済と人材育成



講師
国際日本文化研究センター
教授
猪木 武徳 氏

日本人は勤勉で能力が高く教育制度も優れていることが、日本経済発展の根本要因だといわれてきました。しかし近年、日本の教育と人材育成システムにいくつかの綻びが見え始めてます。 学校や企業における日本の教育訓練方式を点検します。
                                                                       講演の要旨                    

日本の教育の中でどのように人材を育ててゆくか、或いは見つけてゆくか等、
今の日本社会で突きつけられているいくつかを整理してお話したいと思います。

経済社会は複雑な要因で動いているわけですが、簡単に言うと、一つの国がどういう資源を持っているか、いかなる資源を外国から輸入しなければならないかが大事な条件です。 他方その資源を技術的に加工し生産する、そして、生産されたものが国内外の競争でどの程度の質の高さで、競争に太刀打ちできるかを示す技術が重要な要因であることは間違いありません。

しかし、「人は石垣」と言われるように、その技術を知っている人間、或いは技術を活かせる人間の有無が、経済の将来を規定してゆく要因となります。 つまり、経済の将来を考えるときに、どのような人材を現在持っているか、将来的にいかなる若い人々を育てて行くかが、長期的にその国の姿を決めるのです。

そのようなことが重要であることは周知であるのに、何故いまそのことを論ずる必要があるかの理由がいくつかあります。

                     
                        
1.なぜ、今、人材育成か

@経済環境の変化、国際競争の性格の変化に対応できる人材

わが国のように天然資源が必ずしも豊かでない国にとっては、輸入資源を良質の国際製品に仕立あげる構造は、我々の孫達の世代においても変わることはありません。 従前は、家電、自動車、鉄鋼のように日本は非常にうまくやってきました。

しかし、日本人の卓越したもの作りの技術力だけでは、太刀打ちできない局面も生じてきました。 「もの作り」プラス「自己の立場をキチンと説明できる言語的能力」、或いは「様々な経済的な国際トラブルに対する交渉能力」が必要な時代となっているのです。 交渉とか取引の場において、どのように自分を表現し、相手の論理をどのように論破するかの訓練を受けてこなかったことが非常に大きな問題です。 これは日本の教育システムと密接に関わる問題でしょう。

その例は、日本が特許法、弁理士法を含めて制度面での改革や、世界相場に近づけてゆく努力が少なかったということです。日本の国内の特許裁判の空洞化とも関係しています。 

A民主主義の前提

もう一つの理由は、経済的、或いは市場競争の側面というより、民主主義という政治システムが有する不完全性にあります。 それは多数決の原則。 人間は利己的な動物、まず自分の事を考えます。 自分のことだけを考えるのも困った現象ですが、民主主義では、全体で決まったことが全体にとって必ずしもいいという保証はありません。 市場経済も同様、各々の人が自由に売買するシステム。 私的利益を直接的に反映して沢山の人間が望むことを実現してくれる民主主義の原理と同じですが、そこで決めた事が、全体のためになっていないことがあります。 日本の官僚システムも同じ。  

人材の育成とは、いまこういう人材が必要だからといって教育制度を改めて、いま直ぐ求められる資質をもった人材が誕生するというわけでなく、少なくとも一世代かかる話ですから、もっと早い時点で我々が気付くべき問題です。

将来を見つめ直して@の言語能力(表現できる力)を訓練でき、そして、A自分のことも大事だが自分以外の全体を考える人間がこれからの社会にとって必要なのです。
日本の教育制度が、これらの問題点を考慮したものであったか否かを反省する点でもあります。

背後にある問題点を近因と遠因に分けると、遠因とは、このような点に関わる教育制度がいいものであったか否かを反省することだと思います。 物事を良くしていこうとする時に、近因だけ見るのではなく、遠因を考えないと良くならないとする例として福沢諭吉が牽いた「酒に酔った侍が落馬して大怪我をした。その原因をみるときに、近因は馬から落ちたから怪我をしたとする見方。 酒に酔っていたことが原因だとするのが遠因」と同例でしょう。 

                     
2.人的資源の役割

人材が非常に大事だとの例を話します。

ブルーカラーの場合は、日本とタイやマレーシアのセメント工場。
ホワイトカラーの場合は、日本とアメリカを例にします。

@人間の技能や判断力が経済の生産性を否定するドラマティックな例として、日本と、マレーシア・タイのセメント工場の比較をお話します。 働いている人のバックグラウンドやキャリアパス(企業のなかの職歴)を比べました。

一番最新の機材設備がマレーシア、次ぎがタイ、日本が一番古い設備でした。
しかし一人当たりの労働生産性は、日本をとすると、最新設備のマレーシアが、タイはそこそこ。 つまり実地教育程度の蓄積が、これだけの生産性の格差を示す一例であり、そういう人間を育て上げているかが一番大事なことです。 

マレーシアの工場での職長クラスは高学歴、日本のそれは色々な仕事を経験した人材。 責任ある判断を下す地位にある人々の知識が、体験・経験に根付いたものである場合、職場がいかに円滑に行われるかの例です。

Aの例は、日米のホワイトカラーの比較です。
日本は、法曹人口が極端に少ない国です。 日本の法曹界の数は土俵にあがり経験を踏ませる制度が必要ですが、数の比較でみると、人口10万人の中で司法試験の合格者数は、米国は352人、イギリスは158人、ドイツ135人、厳しいフランスでも61人、日本は17名しかいません。  日本のロースクール制度は特異です。

このように企業のビジネスの場も然りです。 ビジネスエリートも日本の部課長の特性では、84%が大学卒、しかし大学院卒以上は1.9%。 米国のそれは61%。
ドイツの例でもそうですが、日本は大卒の人は多いが、専門的な訓練を受けた大卒以上の人が極端に少なくこれが日本の弱点。 日本の場合は、企業の中で訓練する形で、大学で勉強したこととの相関性が非常に薄い。 

ジャーナリストの例(省略)
                    

3.日本の教育システムの問題点

以上申し上げてきた点を学校教育という視点に引きつけると、

@定型的知識の偏重

日本人の学生は定型的知識に強いのです。
正解のある問題にたいして正解を出す能力は物凄く高いものがあります。
その背景の原因にまで遡って縷々説明する能力は非常に弱いのです。
そういう定型的知識を見直す必要があります。非定形の問題に対して意見や判断がが言えるかどうかが大事です。

A古典教育の欠落

日本や中国の古典教育を直ぐ役立つものとは考えられないにしても、中長期的には非常に重要な知恵の源泉が凝集したものに感じます。


B実業教育、専門教育の軽視

古典の重視もまた、非定形的な知識の重視も大事ですが、もう一つ専門的知識としての実業教育も大切です。 そういう広い意味での啓蒙教育をもっと学校教育の中に取り入れて欲しいと痛感しています。


2月 講演の舞台活花です