平成16年度
熟年大学
第2回
一般教養公開講座
於:SAYAKA小ホール
平成16年6月17日
〜古代活躍する高年齢の人々〜
講師
奈良大学
教授
水野 正好氏
講演概要
「歴史上、行基菩薩や重源上人、叡尊上人や、多聞院英俊、木食五行上人などが60歳を超える高齢の環境のなかでいかに大きな仕事をしたのかを具体的に語り、現代の私達に勇気を奮い起させるお話をします。 |
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講演の要旨 継体天皇 継体は天皇家の危機を救った最高の人物だった。82歳で亡くなる、今城塚古墳(前方後円)に葬られていると思う。沢山な人物埴輪200体、大きな家型埴輪もでてきた。 継体天皇は58歳で天皇となられた。それまでの天皇は、大阪湾岸の開発をした。2000年前の上町台地の東は、海であった。若江、菱江、盾津等の良港があった。大和川は、江戸時代に付け替えられた。 ところが、その港が浅くなったので、直接、瀬戸内に出入り出来る港をつくった。大江(北浜)、難波津(天満橋)、木津、玉津、住吉の大津、石津、泉の大津、各港である。 応神の大隈の宮がどこにあったかわからない。しかし美女(髪長媛)を宮の隣、桑津に置いたとある。宮は天王寺と思う。 仁徳の高津の宮は、上六あたりらしい。小橋という地名は、上六の北に残っている。 大道を南北に、東西に堺から大津道、丹比道、磯歯津道を通す。幅18mあった。 その頃、和歌山の白浜までの海岸、家島群島や徳島などで 大量の塩を焼いている。今の泉北ニュウーターン(陶村)では、硬い陶器を 独占生産し全国に配布している。長野、新潟佐渡、秋田にもいっている。 継体天皇は、積極的に淀川、木津川、桂川を押さえ、水系を使い 大和への道を拡大したいと考えた。磐井の反乱も大伴を遣わして押さえた。 和泉が生んだ最高の人物の一人。行基は普通の人だったが、聖武天皇に凄いと認められた。 堺の家原寺に生まれた。生粋の日本人と言うよりも、渡来系だったらしい。親も同じと思われる。飛鳥寺、薬師寺で勉強した。そのまま、行けば偉いお坊さんになった。 そんな大勢の人を、どう救うか行基は、道を修復し、舟橋を架け、お互い助け合いながら働かせた。喜ばれる仕事をしたからお金や、お米をお礼に貰い救った。 狭山池も造り行基50歳の頃だが社会事業を止めなかった。 龍田道(法隆寺から西へ河内に続く)と東高野街道(生駒西山麓を北から南へ続く)の交点(柏原)にある河内六大寺(山下・大里・三宅・知識・家原・鳥坂)がある。 知識寺には、大きな泥で造られた大仏(盧遮那仏)があり天皇は紫香楽に大仏を作りたいとしたが人心が離れ、放火もあり中止となった。 平城京に戻ってから行基の協力を得て再度大仏を造ろうとした。 正倉院には作成過程の記録がある。木は、石山寺の近く太神山や伊賀上野・青山高原から運んだ。 行基は大仏の完成を見ずに82歳で死ぬ。死の直前まで働いた偉大な人物で働いていた5000人もその後職を失うことはなかった。大仏殿は残った人々が完成させた。 大仏開眼は孝謙天皇が筆を入れ1万人が参集した、行基の代わりには霊山寺の印度僧菩提僊那が務めた。 醍醐寺に居た重源は、多賀町にある敏満寺を本拠とし銅を集め、博多に居た陳和卿に台座のみを残した大仏を再造させることになった。重源50歳を超えていた。 大仏開眼は行基の手法どおりとした。 重源は働く場所に大仏様(天竺様)の簡潔な小野の浄土寺、東大寺の南大門のようなお寺を建て、極楽浄土の阿弥陀仏を祀った。仏師は、快慶・運慶・湛慶などである。 大仏殿の復興は、木は山口(徳地町)、瓦は岡山 伊良子岬で焼かせる。重源は、当時、天皇・貴族・僧のみが入れた風呂に働く人をいれた。 風呂釜を鉄で美原の鋳物師、草部是助が作る。重源は西塔再建中に87歳で死ぬ。 叡尊上人 西大寺を充実させ戒律を復興させた。自分で自分を律することが大事だと説く。 宇治で魚を捕る代わりにお茶を栽培させた。毎日歩く戒を授け、助け合うことを説いた。 文永・弘安の役に 枚岡神社で敵国降伏の祈祷をなし霊験を現し公武の信頼を得る。 仏像の寄進もあって 美術工芸品が多く残っている。仏像に1万人の寄進者の名前を書いて 写経と共に像内に収める。89歳で死ぬ。西大寺には52歳から89歳まで居た。 多聞院英俊 興福寺は最大のお寺だった。明治の廃仏毀釈で壊された。空地は 県庁・奈良公園となる。猿沢池の傍に多聞院があるがそこに英俊が居た。 57年間奈良を中心とした宗教・政治・経済・文芸・風俗にわたって貴重な日記を残してくれた。権力者を恐れず本音を記録されている。79歳で死ぬ。 公慶上人 東大寺は松永久秀に焼き討ちされる。(1567年)道安は銅板で張りぼての大仏を作ったが公慶は嘆き再興を決意し行脚する。 現在の大仏は台座は奈良時代、頭は元禄時代背中の一部は鎌倉時代、足から上は江戸初期の張りぼてである。 元禄時代には、大きな木はなかった。大仏殿の柱は80cmの木に当て木をして120cmに見せている。梁2本は鹿児島と宮崎の境にある白鳥山から伐り出す。 横11間が財力なく7間となり均整がとれていない。 終わりに 年寄りと思わず体が動く限り、一致団結して楽しくやれば、思わぬ大きなことが出来る。働く苦労があっても喜びを分かちあいたい。 |
6月講演舞台活花